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@新加納―各務原市那加新加納町
小牧山城を出た信長は木曽川を渡り新加納に布陣した。
稲葉山城まで5.5キロの地点@である。池田恒興・坂井政尚・森可成・柴田勝家・丹羽長秀など当時では主力級の編成である。従って兵の数も5千(1万説もあり)にのぼり単なる挑発のために出陣したのではなさそうだ。これに対し斎藤竜興は牧村半之助、日根野弘定・弘継が稲葉山から出陣、迎え撃った。池田・坂井隊が撃退されると柴田・森隊が代わって攻撃を仕掛けた。すると長井道利の伏兵に奇襲されて退却を余儀なくされた。さらに美濃勢が追撃しようとした時、稲葉山城に続く瑞竜寺山に多くの松明が点された。城が危ないと思った美濃勢は追撃をやめて城へ戻っていったがこれは秀吉の策略だったという。
東海道の裏街道中山道の「鵜沼宿」と「加納宿」の間に「立場(たてば)」と呼ばれる小休止所が新加納にあった。江戸幕府を開くと徳川家康は街道整備に乗り出した。その時鵜沼〜加納間が17キロと離れすぎているということでここに休息所を作った。信長縁といえばこの道を西へ2キロ進むと手力雄神社がある。織田軍がこの付近の寺社を焼討ちした時、手力雄神社にも火をかけようとしたところ、辺り一面霧がかかり信長を含めて織田軍全員の体が動かなくなってしまった。驚いた信長は火をかけるのをやめて神に詫びるとたちまち元気になり、それ以降信長は手力雄神社を崇敬するようになったという。各務原市には「織田町」「信長町」があり美濃を手に入れた信長が手力雄神社に寄進した土地といわれている。
【探索のヒント】新加納一里塚Aは名鉄各務原線「新加納駅」南にあります。車を停めるスペースがないのでここから少し東にある「日吉神社」を利用しました。手力雄神社は同じ各務原線「手力駅」の南にあります。車は境内に停めることができます。手力雄神社Bは火祭りで有名です。尚境内には信長公弓懸桜、的場桜があり、手力雄神社に与えた禁制(市指定文化財)があります。「那加織田町」「那加信長町」Cは各務原市役所の少し東にあります。
●新加納【MAP】:【駐車場】なし 【最寄りの駅】名鉄各務原線「新加納駅」
●手力雄神社
【MAP】:【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】名鉄各務原線「手力駅」
●織田町・信長町
【MAP】
【駐車場】市営駐車場 【最寄りの駅】名鉄各務原線「各務原飛行場駅」
 
A河野島【MAP】
【探策のヒント】
【駐車場】【最寄り駅】
 

B大垣城―大垣市郭町MAP】
氏家卜全(直元)の城。祖父の代から土岐氏に仕えそのまま道三にも仕えた。竹中半兵衛が信長に従ったことで卜全も信長についた。元亀2年長島の一向一揆との戦いで殿軍を務めたが落馬して討取られてた。
築城者は竹腰尚綱、宮川安定、大垣氏のいずれかといわれている。天守閣横の由来所には「東大寺荘園に土豪の大垣氏の館があり東大寺城とよばれていたが天文4年(1535)宮川安定が城郭を築いた」としている。卜全の前の城主は竹腰尚光と伝えられている。本丸@と二の丸の周囲は広くて深い堀で囲まれ徳川時代にはその外側も揖斐川から引き入れた水で堀を作って総構となる。この城が有名になったのは関ヶ原合戦で石田三成が本陣として東軍を迎え撃とうとした時である。
【探索のヒント】街中にまぎれてしまった感のあるお城です。天守閣というものはランドマークになると思っていたら裏切られてしまいます。JR大垣駅からも近く便利です。ただ私は早朝車で行ったのですが駐車場を見つけることが出来ませんでした。商店の並ぶメインストリートの裏手になるのでコインパーキングはきっとあったと思います。
【駐車場】大垣市役所駐車場 【最寄り駅】JR「大垣駅」
 
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B曽根城―大垣市曽根町
稲葉一鉄(良通)の城。初め仏門に入っていたが兄5人が戦死したため還俗した。文才にも優れていて信長の後、秀吉にも厚遇で迎えられた。関が原合戦の時嫡男良通が西軍から東軍に寝返ったが家康に許されず、あわやお家取り潰しになるところを井伊直政に泣きついて何とか許されて所領を安堵された。
現在の華渓寺が曽根城の本丸といわれる。揖斐川の支流平野井川を利用した平城である。稲葉通富によって作られ稲葉氏の拠点となった。稲葉氏の後西尾光教が城主となり関ヶ原合戦後廃城となった。華渓寺は一鉄の母の菩提寺である。後に明智光秀の家臣となった
斎藤利三はもとは一鉄の家臣だったので城内に屋敷Bがあった。利三の娘お福(春日局)はここで生まれたのではないかといわれる。
【探索のヒント】静かな田園風景の広がる中に華渓寺@はあります。華渓寺には駐車場もありゆっくりと散策できます。平成元年華渓寺の北側で一徹時代の本丸の石垣Aが発見されました。もとの華渓寺は本丸の東にありました。
●曽根城MAP】 ●斉藤利三邸MAP】
【駐車場】華渓寺駐車場 【最寄りバス停】名阪近鉄バス黒野線「曽根」
 
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B北方城―本巣郡北方町【MAP】
北方城主の安藤守就は天文23年の信長の村木砦攻めの時、那古野城の留守居役として道三から派遣されている。また竹中半兵衛の舅としても知られ永禄7年の半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件も支援した。土岐氏から道三、義竜と従ったが竜興の代になると他の西美濃三人衆と一緒に信長に寝返った。その背景には竹中半兵衛の働きが大いにあったであろう。上洛戦・姉川合戦・本願寺攻めなど信長の主要な戦いには必ず参加している。しかし天正8年嫡男尚就が甲斐武田に通じたとして追放され、この地は稲葉一鉄に預けられた。守就は稲葉一鉄とは親戚関係にある。
【【探索のヒント】北方城の周囲には堀Aがめぐらされ主郭@まで水路によって区画Bされ防御性を高めていました。しかし文献による考証であって実際の姿はまだわかっていないこと多いようです。北方城を訪ねる目標は犬井神社です。犬井神社の横には当時の堀跡が残っています。名鉄揖斐線が廃線になってしまったので車での探索になります。国道157号線沿いにある「北方郵便局」の東にある信号を南下します。右手に「常誓寺→」の立看を見つけたら左折します。直進して道が右に曲がった角にあるのが犬井神社です。私は神社の境内に駐車しましたが城跡の碑の付近も駐車スペースはあります。
【駐車場】なし 犬井神社駐車場
 
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安藤守就戦死の地―本巣郡北方町北方6−1【MAP】
藤原秀郷を祖とする安藤氏は鎌倉初期の朝光が伊賀守を称していたので伊賀氏とも呼称した。天正10年本能寺の変が起こると混乱に乗じて蟄居地の武儀郡谷口村から北方城に戻り挙兵した。6月8日一鉄の兵が城下に放火したため弟郷氏・嫡男尚就とともに城から討って出た。そしてここ千代母ヶ淵で古田五郎兵衛によって守就は討ち取られ一族も戦死した。その後守就の甥可氏が伯父の山内一豊に仕えることで安藤家が再興された。その子孫は明治維新後男爵の称号を受けているA
【探索のヒント】今は亡き名鉄揖斐線「きたかたしとせまち」の西の踏み切りのそばが戦死地@です。民家の裏に桜の木が立っていてその下に碑が建っています。私が行ったのは4月19日で桜が散る中で撮影しました。非常に哀れを感じた一瞬でした。行き方は国道157号線「北方郵便局」の西へ二つめのガソリンスタンドがある信号を南へ行くのですが踏み切り(05.4.19現在存在)を渡る右手の金網の中に碑を見つけることができます。少し戻って民家の玄関先を通って裏手へ回ってください。
【駐車場】なし 犬井神社駐車場
 
C瑞竜寺
【探索のヒント】
           
C達目洞
【探索のヒント】
           
D岐阜
【探索のヒント】

 

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