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@稲葉山城―岐阜市金華山【MAP】
義竜の母は土岐頼芸の愛妾深芳野で頼芸追放後道三の側室となってた。丁度その時深芳野は義竜を身篭っていて頼芸の落胤と噂されていた。この噂はやがて道三と義竜の耳に入り、事あるごとに二人は対立した。道三と義竜の確執は道三をよく思わない土岐氏派の家臣によって利用さた。美濃が混乱するのを嫌った道三は家督を義竜に譲って隠居し、家中の混乱の沈静化を図った。しかし頼芸を実父と信じる義竜は道三を許すことが出来なかった。道三には正室小見の方との間に孫四郎、側室深芳野との間には喜平治という二人の男の子がいた。義竜にとっては弟に当たる。道三は義竜より出来がいいと信じる孫四郎、喜平治をかわいがった。長良川の戦いの半年前、天文24(1555)年10月13日義竜は重病と称して城中に引きこもった。そして道三が稲葉山の麓の屋敷に出かけた隙に義竜は死ぬ前に二人の弟に会いたいと寝所に呼び、殺害した。
【探策のヒント】岐阜城@に行くだけなら岐阜駅からタクシーやバスでいいでしょうが、周辺を探索するならマイカーがあったほうが便利です。駐車場は岐阜公園にあるのでそこで停めて後は歩いてはどうでしょうか。岐阜城へ行くには一般にはロープーウェイですが一度徒歩で登ってみてください。登山ルートは5箇所ありますが私が採った七曲登山道Aは大手道と推測されています。そのためか楽に登れます。
【駐車場】専用駐車場 
【電車】JR東海道本線「岐阜駅」
     名鉄名古屋本線「名鉄岐阜駅」
 
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A大桑城―山県市大桑【MAP】
息子二人を殺された道三は稲葉山城下に放火して稲葉山を後にした。この後鷺山城へ向ったとするのがふつうであるが「日本合戦全集4」では道三は山県へ向ったことから大桑城へ入ったかもしれないとしている。防御設備としては鷺山城より大桑城のほうが優れていると思う。しかし大桑城より北に武芸谷がありここは道三の父長井新佐衛門尉が勢力下においていた土地でここを目指し再起を期したのかもしれない。信長に宛てた「美濃一国の譲り状」には大桑でこれをしたためたと書いている。
大桑城は標高406メートルの金鶏山にあった。1490年代後半守護土岐政房の弟大桑定頼が昔の城を改築して住んだとある。守護が政房の子政頼の1535年枝広の守護所が長良川の洪水のため流されてしまい大桑城が新たな守護所になった。それを契機に城下町の整備が始まった。土岐家の菩提寺にもここにある。政頼は道三によって追放され弟の頼芸が守護になり、大桑城へ入った。1542年道三により頼芸は尾張へ追われたが1544年朝倉・織田の援助で再び美濃へ戻れた。しかし1547年再び追放され大桑城は廃城となった。
【探策のヒント】国道256号線を岐阜市内からひたすら北上、高富町で県道174号線に入ります。老人ホームの「三光園」「幸報園」の案内に従って山に近づいていきます。老人ホームをそのまま通り過ぎてしばらく行くと山へ向う道が左にあります。そのまま山の中へ入っていくと駐車場があります。登山口はその先にあります。途中登山道の看板がいくつもあるので迷うことはありません。約一時間後見事な模擬天守@にたどり着きます。大桑城を訪れて気づくのは両側を山に囲まれた平野部に城下町が形成された点Aが越前一乗谷によく似ているということです。老人ホームへ向う途中、四国堀Bが右手に見ることができます。この四国とは「越前・尾張・近江・美濃」のことで各国の協力で出来上がった防衛設備です。これ以外に発掘調査で「越前堀」も見つかっています。美濃で内乱が起こったとき土岐氏が度々朝倉氏を頼ったことを考えると大桑城の城下町形成には朝倉氏が大いに影響を与えていると思います。大桑城C岐阜城のほぼ真北14キロのところにありAの写真の中央の山が稲葉山城です。
【駐車場】専用駐車場
 
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B鷺山城―岐阜市鷺山【MAP】
大桑城ではあまりにも稲葉山城から離れすぎていると考えたのであろうか道三は鷺山城へ移ってきた。鷺山城に陣を移したが味方の人数は増えることは無かった。道三はもはや敗北を覚悟した。そこで決戦前日婿の信長に美濃を譲る旨を記した書状を作った。道三戦死後も石谷対馬守は義竜の誘いに応じず徹底抗戦し、この城と運命をともにした。「美濃一国の譲り状」には大桑でこれを書き、明日の決戦では死を覚悟していると書いている。すると鷺山には何時いたのでしょうか。
鷺山城は鎌倉期からあった城である。土岐頼芸が兄政頼と家督をめぐって争った時に居城していた。道三が政頼を追放すると頼芸は川手城に移った。道三が隠居後ここへ移ったとする説もあるが実は稲葉山城で義竜と一緒に暮らしていたとの説もある。
【探策のヒント】岐阜城から北西3.5キロのところAにあります。駐車場がないので北野神社の駐車場を利用します。県道78号線から登る道は急でしんどいので北野神社側をお勧めします。平地に独立した丘にある城跡ですが遺構らしきものはなく碑@が建っているだけです。鷺山城の東の麓には平時の居館鷺山館Bがありました。道三が長良川から水を引き込んで庭園を造ったといわれるのはここのことでしょうか。現在は岐阜市鷺山水門岐阜鷺山社宅2棟に土塁が残るのみです。ここからでも岐阜城Cは当然の如くよく見えます。
【駐車場】北野神社の駐車場 
【バス】岐阜バス岐南町線「さぎ山小学校北」
 
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C大浦砦―羽島市正木町大浦新田7丁目【MAP】
長良川で道三を討ち取った義龍は道三救援のために長良川を越えて大浦の東蔵坊で陣を張っている信長軍に向けて進撃を開始した。織田軍が東蔵坊に陣城を構えるための作業をしている最中に義龍軍が攻め込んできて激戦となった。道三を討ち取って勢いに乗る斎藤軍により織田方の山口取手介、土方彦三郎が討ち取られ、森可成は千石又一に膝を切り割られた。その時道三が討ち死の情報が道三の二人の息子によってたらされた。これにより織田軍はパニックに陥った。すると信長は自分が殿軍になるので雑兵は先に川を渡って尾張領内に逃げるように指示した。全軍が退却すると信長は馬回り衆とともに船に乗って川の半ばでとどまり、川を渡って追撃する斎藤軍を銃撃して撃退した。道三が信長に宛てた「美濃一国譲り状」はこのとき息子たちから渡された。しかしこの「譲り状」が偽物との意見もある。この二人の息子の内一人は仏門に入り、もうひとりは斎藤新五郎で本能寺の変で二条御所の信忠と合流しようとして討ち死にしている。
【散策のヒント】大浦は鎌倉街道にあり木曽川と長良川によってできた輪中にあります。このあと鎌倉街道は墨俣宿へ向います。羽島市歴史民俗資料館でいただいた資料「羽島市の城」にこの時信長が陣を張ったのが大浦城跡とあり、数年後、羽島市のHP「ふるさと歴史散歩07」で大浦城の説明を見つけました。大浦城は寺砦で城主もいました。義竜がここに陣を張る信長に攻撃を仕掛けると城内にいた姫は落城間近と家宝であった金矮鶏を抱いて城内にあった井戸に身を投げました。この後毎年元旦の早朝に金矮鶏の鳴き声が3度聴かれるという伝説が生まれました(大浦城の金矮鶏伝説)。場所は尾濃大橋の西にある「ホテルアクア」の交差点を南へ入り、突当たりを右折して道なりに進みます。二差路の左の道を行き、二つ目の十字路を左折、背の高い木@の横に金矮鶏神社Aという祠があります。ここが大浦城とされています。
【駐車場】なし
 
D道三塚―岐阜市長良福光【MAP】
義竜は源太が持ってきた道三の首を足蹴にして長良川に捨てたとも言われる。実際は源太が義竜の許可を得て河原に首塚を作ったが川の氾濫で何度も流されたため、斎藤家の菩提寺常在寺の日椿上人が天保年間に今の場所に移した。
【散策のヒント】崇福寺前の道をそのまま西へすすむと道が二股に分かれています。右の道をとって北消防署の前で右側の細い道へ入っていきます。民家の裏手にに位置します。
【駐車場】なし
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