@
@西美濃の城
6月3日と8月23日信長は西美濃へ出陣した。これを墨俣砦築城と関連付ける人もいる。6月は佐久間信盛が墨俣で建設に入るが犬山城の織田信清が義竜へ寝返ったという報せが入った。信盛の背後を突かれることを心配した信長は自ら出陣して長良川沿いの村に刈田・放火をして回った。すると丸毛兵庫頭が来援、織田軍と戦闘になった。さらに大垣城から長井甲斐守の援軍も来たため、坂井政尚・池田恒興に命じて撤退を命じ信盛も工事を放棄して尾張へ戻った。8月は柴田勝家が墨俣に向った。しかしまたもや長井・丸毛両軍の攻撃を受け勝家と森可成は命からがら退却した。
「信長公記」には出ていないこの2件だが西美濃の中には市橋長利(市橋城)・飯沼長継(池尻城)・丸毛長照(大塚城・福束城)など斎藤氏追放前後から信長へ寝返りが出たのは確かである。
福束城は1414年土岐氏の家臣福束蔵人十郎益行が築城、南伊勢との舟運を統制していた。その後丸毛氏がこの城に入った。関ヶ原合戦時城主丸毛兵庫頭兼利は西軍について東軍と戦おうとしたが前哨戦で敗れ大垣城に入った。その後城は廃城となった。福満寺には丸毛肥後守が福満寺の境内の模様を桜の板に刻み寄付した版木が残されている。そこには丸毛兵庫頭の墓、福束(鉾塚)城の姿が描かれ丸毛家の菩提寺となったと記されている。
【探索のヒント】福束城は@福満寺(岐阜県安八郡輪之内町)にありました。名神高速大垣インターを下りて国道258号線を南へ向かいます。「横曽根三丁目交差点」左折、福束大橋を渡り堤防の上を北へ進みます。すぐに堤防を下りる道があるのでここで下りて少し直進した右側に福満寺があります。残念ながら遺構は残っていません。駐車場もないので路駐になります。
●福満寺【MAP】
【駐車場】なし
【最寄りのバス停】名阪近鉄バス輪之内北部羽島線「里」
 
A勝村―海津郡平田町勝賀【MAP】
信長は3千の兵を連れて清須城を出て西美濃へ向った。信秀が一時期大垣城を属城としたことから信長の出陣で西美濃で信長に寝返る者が出るのを期待したのかもしれない。信長は長良川に舟橋を設け輪中にある勝村へ到着した。
勝村があった平田町は日本の代表的な輪中である高須輪中にある。平田町の北にある長良川と揖斐川を結ぶ大榑川(おおくれがわ)はしばしば氾濫し住民は安心して暮らせなかった。そこで1755年薩摩藩の平田靱負(ゆきえ)の指揮のもと洗堰を作り洪水の被害をなくした。その事業を記念した公園が洗堰公園で勝賀大池の隣にある。
【探索のヒント】勝賀は県道30号線「大薮大橋」の西南に広がる田園地帯です。交通量も少なく堤防近くの道路は道幅もあって路駐できます。
【駐車場】なし
 
@A
B
B墨俣砦―岐阜県安八郡墨俣町【MAP】
木下藤吉郎の一夜城で有名だが現在それが通説とは言えなくなっている。「信長公記」では墨俣にはすでに斎藤方の砦があり、信長が美濃に侵入すると墨俣砦から長井甲斐守・日比野下野守が豪雨の中、迎撃に向ったと記している。この戦いで斎藤軍を撃破した信長は墨俣に陣を構えている。
長良川と犀川が合流する墨俣は室町末期には街道が通って交通の要衝で宿も出来ていた。しかしそれは現在模擬天守@がある場所ではなく川を挟んだ南側であった。その端に砦があった。そもそも「墨俣一夜城」というのは「絵本太閤記」「前野文書」「武功夜話」など秀吉の出世物語に出ている話でありまた砦の成立時期も永禄4年説、5年説、永禄9年説とある非常にあやふやな存在である。だが信長が美濃攻略に当り秀吉にどこかの城を守らせたことは確かである。詳しくは「偽書『武功夜話』の研究」藤本正行・鈴木眞哉著を参考)に
【探索のヒント】故竹下登の「ふるさと創生」計画の一億円で出来た@天守閣が資料館です。狭い駐車場が城の前にあったのですが今はどうなっていのかわかりません。資料館は大人が200円で月曜が休館日です。A墨俣城のジオラマや「永禄墨俣記」を基にしたB馬防柵があります。
【駐車場】専用駐車場あり
【最寄り駅】JR「岐阜羽島駅」「穂積駅」
【最寄バス停】岐阜バス「墨俣バス停」
 
@A
B
C
B-1伏屋城―羽島郡岐南町伏屋3丁目から4丁目
稲葉山城から南へ6キロ弱にあるこの城が秀吉の一夜城との説がある。確かにここのほうが稲葉山城にも近く、そばを流れる木曽川のほうが長良川より川幅も広く直線的で切り出した材木の運搬には適している(あくまでも一夜城があったとして)。その後この城は小牧長久手の戦いで秀吉側の砦として伏屋市兵衛が守った。
【探索のヒント】A白山神社に狛犬2匹に守られひっそりと@一夜城の絵があります。写真だけ見たら土産の包み紙みたいです。写真の横に(想像図)とありますがこの絵を見てここへ来る前に行った大桑城の模擬天守(?)を思い出しました。秀吉が作ったのはでっかい張りぼての城だったのでしょうか。白山神社の東側の道を北へ行くと用水路があります。それを渡らずに東へ向い最初の曲がり角を右に曲がるとB看板があります。外から見るだけですが土塁が確認できます。横にある民家の軒先から近づくことはできますがC竹が生い茂っていて詳しくは見れませんでした。国道22号線より東にある県道179号線のさらに東に南北に抜ける狭いですがバス通りがあります。その道沿いに白山神社があります。白山神社の横に車を停める事はできますが伏屋城の近くは民家があるので停めにくいと思います。 
●白山神社【MAP】 ●伏屋城跡【MAP】
【駐車場】なし 【最寄のバス停】岐阜バス川島松倉行き「伏屋」
 
@A
B

C
D
C森部古戦場―安八郡安八町森部【MAP】
豪雨の中出撃してきた美濃勢に対して信長は一気に殲滅してしまおうと軍を北へ向わせ、両軍は森部で激突した。斎藤軍6千に対して織田軍は1500だったが信長は兵を3隊に分けて敵を挟み撃ちにした(森部古戦場の解説文)。数時間におよぶ戦いの結果、長井甲斐守・日比野下野守ら美濃勢は170余人が戦死して敗退した。この戦いに信長に追放されていた前田利家が桶狭間合戦に続いて密かに加わり日比野下野守の与力足立六兵衛を討ち取り、手柄を立てた。足立六兵衛は別名「頚取り足立」の異名をとる猛者でこれまで合戦で多くの敵将を討ち取って来た。桶狭間合戦での活躍は信長に無視された利家だったが今回の働きによって織田家への復帰が許された。この戦いで「信長公記」に当時の風俗が記されていて興味深い。それは近江猿楽の若衆の姿の者が美濃勢の戦死者の中に含まれていて、彼らは大将の日比野・長井に気に入られて美濃に留まり戦地まで一緒に来ていたぐらいに寵愛されていたというものである。
【探策のヒント】@古戦場の近くにA出世の松なるものが植樹されています。昭和30年代までこの地に利家の鎧掛の松があったそうで大河ドラマ「利家とまつ」を記念して夫婦松を植樹したそうです。古戦場の碑があるB薬師堂で首実検が行われたそうです。ここにはC戦死者の慰霊塔と2代目のD信長の鎧掛の松があります。県道18号線と交わる「濃尾大橋」西の県道184号線の横の堤防に沿った通沿いにあります。道幅も広いので路上駐車してもいけそうです。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】名阪近鉄バス「南大森」
 
@A
D十九条城―瑞穂市古橋・十九条
森部の戦いで勝利した織田軍は斎藤方の墨俣砦を占拠した。そこを拠点にさらに北の十九条に砦を築いた。ここに犬山城主織田信清の弟(二男とも)信益を入れて守らせた。森部合戦から降り続く雨のために木曽川、長良川が増水して尾張からの援軍が不可能とみた竜興は長井隼人佐道利、日根野備中守を大将に十九条城へ派兵した。これを知った信益は伝令に犀川を下らせ墨俣に居る信長に援軍を求めた。すぐに信長は出陣した。
【探索のヒント】津島神社は犀川沿いに二つあります。古橋にある@津島神社は城跡との表示はありませんが本殿の賽銭箱にはA五ッ木瓜がついていました。こちらへは県道156号線の「十九条橋」の西側の道を犀川に沿って南下すると右手にあります。@の津島神社には駐車場はありませんが停めるスペースはあります。
●津島神社【MAP】:【駐車場】なし 【最寄の駅】樽見鉄道樽見線「十九条」
 
@A
E十四条―本巣市十四条【MAP】
十九条城からの救援要請に信長はすぐに墨俣を出た。これを知った斎藤軍は十九条の北の十四条で織田軍を待ち受けた。信長が到着して両軍が対峙すると信益が先陣を引き受け斎藤軍に切り込んだ。信益は奮戦の挙句、野々村三十郎によって討ち取られてしまった。一進一退の攻防を続けた両軍だったが地の利に勝る斎藤軍に信長は一旦兵を西軽海に引き上げた。
【探策のヒント】この付近は条里制の名残からこのような地名になっています。@田園が広がるのどかな風景の北東にA稲葉山が望むことができます。稲葉山からは12キロほどのところです。県道53号線と県道156号線の交差点の南西が十四条です。車を停めるには道が狭いので十四条にある八幡神社前にある駐車スペースを利用しました。
【駐車場】なし
 
F軽海西城―本巣郡真正町軽海(円長寺)【MAP】
一旦兵を西軽海に引いた信長に対して竜興軍は北軽海に布陣しやがて夜を迎えた。夜陰にまぎれて斎藤方の牧村午介が織田方へ攻め込んできた。これを撃退した織田軍は逆襲に転じた。池田恒興・佐々成政は稲葉又右衛門を討ち取り、美濃勢に攻めかかった。形勢が不利と見た美濃勢は撤退をはじめた。信長は深追いせず、西軽海に留まり夜が明けると墨俣へ引き上げていった。
軽海西城は斎藤道三(の父?)が西村勘九郎と名乗っていた時、土岐頼芸に与えられた。信長が美濃を攻略すると池田恒興の家臣片桐半右衛門がここに城を構えたという。半右衛門は恒興の四男長政を養子に迎えている。天正17年(1589)秀吉の最古参家臣一柳直末がこの地を支配するが小田原合戦で戦死、末裔が円長寺を建てその菩提を弔った。
【探索のヒント】県道53号線から「文化通り」にはいります。最初の十字路を左折、しばらく行くと右に祠があるので右曲がるとすぐに円長寺に出ます。円長寺前に車を停めるスペースがあります。お寺の周囲には竹薮があり土塁のような土の盛り上がりがあります。
【駐車場】なし
SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO