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@家原城―大阪府堺市西区家原一丁目【MAP】
阿波から堺に上陸した三好三人衆は手始めに5千の兵で家原城を攻めた。守る兵も少ない城だったので城は簡単に落ちた。堺に戻った三好勢は本圀寺襲撃の人員を整えた。その中には斎藤龍興、長井隼人らもいた。軍勢は5千に膨れ上がり、また前年信長に矢銭2万貫を求められた堺の町衆も三好勢に協力した。
松永久秀が主筋の三好三人衆と対立したとき、久秀に味方した寺町左近将監、雀部治兵衛、澤田備後守ら和泉の地侍が立て籠もったのが家原城である。2年前の永禄9年(1566)上野芝で三人衆と城方との合戦があり、三人衆の勝利となったが城は落ちなかった。今回まず家原城を攻めたことに三人衆の執念を感じる。この城攻めで寺町、雀部、澤田は討死にしてしまった。
【散策のヒント】私は早朝車で出かけたので路駐して付近を歩き回りました。この付近は道幅が広いので昼間でも短時間なら路駐も可能かもしれません。碑@は団地の隅にありここが南曲輪Bで北に本丸があったのですが現在は団地Aがあります。周辺より少し高くなっているのが城の名残です。
【駐車場】家原大池公園駐車場 【最寄の駅】阪和線「津久野」
 
A法性寺―京都市東山区本町【MAP】
南山城から攻めあがってきた三好勢はここに放火、堂塔伽藍が消失した。法性寺は藤原忠平が925年に建立し、藤原氏の氏寺として栄えた。広大な敷地に大伽藍を有し京洛21ヶ寺の一つに数えられた。しかし兵火によって消失したあと明治まで再興されなかった。現在安置されている千手観世音菩薩像は当時のものといわれて国宝に指定されている。
【散策のヒント】この前の道は狭くて路駐は無理です。東福寺の駐車場に停めるかこの裏手に広い道があるので短時間なら車を停めることができます。東福寺駅の東の本町通りを南下、交番の更に南にあります。
【駐車場】なし 【最寄の駅】JR奈良線・京阪本線「東福寺」
 
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B将軍塚―京都市東山区粟田口
京都の東、華頂山にある将軍塚@には砦があった。三好勢はここも放火してと西から本圀寺(A赤い部分)を攻めようとした。将軍塚から京都市内を一望できるB絶好の地点である。将軍塚は桓武天皇が平安京を創るに当たって坂上田村麻呂の武具を埋めて都の平和を祈願するために築いた。
【散策のヒント】東山ドライブウェイから分かれた道を進んでいくと東山山頂公園の駐車場に出ます。ここから歩いて2、3分の所に将軍塚大日堂がありそこの庭園に展望台や将軍塚があります。そのほか歴史上の有名人(乃木将軍や山縣有朋)お手植えの松もあります。
【駐車場】東山山頂公園駐車場 【MAP】
 
@A
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C本圀寺―京都市下京区柿本町【MAP】
普通襲撃は5日といわれている。三好の軍勢は二手に分かれて本國寺へ攻め寄せた。三好康長は松永父子を先陣として南大門から攻め懸かり、三好日向守、下野守を大将とする二千五百騎は大宮を上り北から攻め寄せた。三好の軍勢は全部で五千二百騎。
午前10時ごろ矢合があり合戦が始まる。薬師寺九郎左衛門が先陣を切って攻めて来た。天文法華の乱で焼き討ちにあった京の寺院は堀や城壁を構えて城としても機能していた。門前が焼かれてもすぐに三好勢が入って来れなかったのもそのためである。
寺方は細川藤賢・三渕藤英・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・津田左馬丞・坂井与右衛門・明智光秀・森弥五八・山県源内・宇野弥七らが守っていた。その中で若狭衆の山県・宇野は薬師寺軍に切り込んで行き激闘を繰り広げた。本國寺の軍は救援に近江軍が来たのを見ると南大門、北口二方の門を開き打って出た。三好の軍勢は双方の軍勢に挟まれて討たれる者が千八百騎に及んだ。そのうち後詰が翌日到着するといった情報が入り、寺が斡旋に入った。ここで一旦合戦は中止された。
【散策のヒント】現在の本願寺会館Bから淳風小学校A、東急ホテルの一部が敷地です。本願寺会館のそばに100円パーキングがあるのでそこを利用してはいかがでしょう。特別遺構があるわけでなく小学校の裏手に碑@が立っているぐらいです。
【駐車場】100円パーキング
【最寄のバス停】京都市バス「西本願寺前」「七条堀川」「島原口」
 
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D桂川―京都市南区 【MAP】
本圀寺救援に向かった摂津衆(三好義継・細川藤孝・池田勝正・池田清貧・伊丹親興・荒木村重・和田惟政)だったが高槻城の入江春継が三人衆に組したので西国街道が遮断されて京へ入ることが不可能になった。仕方なく伊丹・池田勢は山名を通って忍頂寺から梶折に向った。しかし真冬の強行軍のため三好政康が待ち受ける桂川に着いたときには疲労困憊のため戦いどころではなかった。向日から進んで来た義継軍3千は戦力的に弱くすぐに撤退、勝正はその様子を見ただけで退却を始めた。そんな中で親興は奮戦して敵の高安権頭ら大将を次々に討ち取って政康らを京から追い払った。
【散策のヒント】桂川@沿いの道には駐車スペースが無いので少し離れた団地のそばに路駐しました。現在の国道171号線が西国街道Aです。大阪方面から来て久世橋Aを渡ってすぐに左へ曲がり吉祥院運動公園の前を通って再び国道に合流して東寺まで通じていました。三好軍がこのルートをとって本圀寺に迫るのを義昭軍は迎え撃ちました。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】京都市バス「久世橋東詰又は西詰」
 
E東寺(教王護国寺)―京都市南区九条1【MAP】
6日午前8時ごろ三好康長は兵二千を集め不意に東寺から攻め込んだ。町に火をかけ鬨の声も上げずに攻め懸かり、守備側の近江の軍勢は七十五騎が討死する。午前10時近江と三好の兵が激闘になる。その結果薬師寺九郎左衛門貞春、松山新入松謙、三好新左衛門、同備中守が討ち取られたため、康長は八百騎を後に戦わせ自分は二十五騎だけで戦線離脱した。このことを知らない近江衆は康長やその他の三好一家の大将は皆この八百騎の中にいると思い、馬や武具のよい武者を目標に攻め立て、八百騎を一騎残らず討ち取った。正午に東寺の合戦が終わり討ち取った首を検めたところ、康長、下野守の首は見つからないことで康長の逃亡が確認できた。
以上は「江源武鑑」という書物に載っている。主人公は近江六角氏綱の子と孫である義実・義秀。承禎は後見人として扱われている。しかし義実・義秀は架空の人物で資料としての価値は低い上、偽書とも言われている。しかし本圀寺襲撃事件を詳細に記しているので取り上げてみた。
【散策のヒント】JR京都駅からも近く駐車場完備の観光地です。駐車料金は500円なのでたっぷり時間をかけて見学しましょう。東寺にいた足利尊氏が新田義貞に攻められたとき閉めて難を逃れたことから「不開門(あかずのもん)」と呼ばれ、後に豊臣秀吉が改修している鎌倉時代創建の重文・東大門などもあります。
【駐車場】専用駐車場
【最寄の駅】近鉄「東寺」 【最寄のバス停】京都市バス「九条大宮」「東門」
 
F織田信長居館跡―岐阜県岐阜市大宮町1丁目【MAP】
本圀寺急襲を知らされた信長は単騎岐阜城を出発しようとした。突然の出陣に家臣はう右往左往した。信長は猛吹雪の中を京を目指して突き進んだ。途中付き従った者の中には凍死する者も出た。8日信長が京に入ったときは騎馬十数騎が付いて来ていただけだった。本圀寺に入った信長は三好勢の猛攻を耐えたことを褒め称え、池田貧清らの活躍に対して多大な恩賞を与えた。
「江源武鑑」には信長は5日に岐阜を出たが六角承禎が近江柏原で兵を挙げたので足止めをくらい、本圀寺には8日になったとしている。
【散策のヒント】岐阜城はご存知、岐阜の観光スポットなので車でも便利です。というより、車のほうが便利かもしれません。岐阜駅からここまでタクシーで1200円以上かかるし周辺の信長ゆかりの寺や史跡を回るのなら絶対に車です。
【駐車場】岐阜公園駐車場 【最寄のバス停】岐阜バス「岐阜公園歴史博物館前」
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