@池田城―池田市城山町【MAP】
当主池田勝正と弟知正は仲が悪かった。それは勝正に比べ知正の池田家での扱いが悪かったことが原因との説もある。一族の中で池田四人衆というのが大きな力を持っていたが、家臣で力を持つ池田二十一人衆というのもいた。この中心が荒木村重である。永禄6年、二十一人衆は池田四人衆の池田備後守・周防守を殺害し双方は対立、勝正の立場が弱くなった。そんな中浅井長政の離反で畿内への注意が低下していた信長の隙を衝こうと狙っていた三好三人衆と二十一人衆が手を結んだ。結果、二十一人衆は勝正を追放して弟知正を擁立、摂津の一角が反信長になってしまった。
【探索のヒント】池田城以外にも池田には文化施設がたくさんあり有名な「インスタントラーメン発明記念館」(火曜休み)は池田駅から南へ10分のところにあります。池田城へは五月山公園方面と麓から上がっていくコースがあり、車でいくのなら五月山から行ったほうがいいでしょう。池田城は無料ですが火曜日は休みなのでご注意下さい。
【駐車場】五月山体育館駐車場 
【最寄バス停】阪急バス「大広寺」 【最寄駅】阪急「池田駅」
 
@A
B
C
DE
F
A天満ノ森―大阪市北区紅梅町
石山軍記の星合の池B、明星の池(消失)の間の少し北にあった天満ノ森は現在の紅梅町の辺り@A。この天満ノ森にあったのが大将軍社Cで孝徳天皇の長柄豊碕宮が廃された後、疫病退散の祈りを込めて創建された。つまり現在の位置とは違ったところにあった。その大将軍社から南に松林が広がっていて天神森と呼ばれていた。949年村上天皇のとき松林の一部が光り輝く出来事があった。その昔菅原道真が大宰府へ向かう前、大将軍社に参拝していたことから、この光は道真公の霊が鎮座したものだということでそこが現在の大阪天満宮Dとなった。天満の森はすでに残っていないが紅梅町の東に「松ヶ枝町」EFがあることから松林に関係してしているような気がする。ついでに先に述べた天神ノ森で大阪天満宮を中心にする地域を「南森」と呼び、大将軍社があった場所を中心とする地域を「北森」と呼んだ。
【探索のヒント】オフィス街のど真ん中に大阪天満宮はあります。そのため飲食店も沢山あるのでお腹が空いたらぜひこのあたりのお店に立ち寄ってください。川端康成の生誕地がこの近くにあります。ここから北西に行くと全長2.6キロの日本一長い「天神橋筋商店街」があります。私は大学の4年間、年末になると福引のバイトをさせていただいたありがたい商店街です。でも当時の店も少なくなっているみたいです。 
●紅梅町【MAP】 ●大阪天満宮【MAP】
【駐車場】Times 【最寄駅】地下鉄「南森町」
 
B伊丹城―兵庫県伊丹市【MAP】
藤原鎌足を祖とする伊丹氏は南北朝・室町と常に足利氏・細川氏に従って敵と戦ってきた。一時友好関係があった三好氏が播磨の赤松氏と手を結んだため、細川晴元と共に再び戦うことになった。晴元が救援に来れなくて三好勢に伊丹城を攻められても難攻不落の城は落ちずに和議に持ち込めた。今回の三好勢の畿内再上陸でもそのスタイルは変わらなかった。あくまでも足利氏に忠節を誓う伊丹親興は堅牢な伊丹城に籠もって池田勢の攻撃をひたすら耐えた。
【探索のヒント】JR伊丹駅前に立体駐車場があります。またジャスコ・ダイヤモンドテラスにもでっかい駐車場もあり、地下駐車場もあるので車で行っても不便することはありません。写真は池田城から見た伊丹城と伊丹之親の歌碑です。「春秋の花と月とをときならて見はてぬ夢の暁はうし」と書いてます。
【駐車場】周辺に多数あり 【最寄駅】JR福知山(宝塚)線「伊丹駅」
 
@A
C野田城―大阪市福島区玉川4丁目【MAP】
天満ノ森で陣を張った三好三人衆は野田城を補修して阿波から物資補給の橋頭堡にした。野田城は当時の大和川が作った州の端にあり、三方を川で囲まれているので攻めにくく、城からは川を利用して自由に移動できた。三好三人衆はこの年の春から摂津再上陸を計画していた。それは信長が金ケ崎から逃げ帰った頃である。信長が岐阜へ戻っている間に三人衆が上陸したのは、信長が姉川で浅井・朝倉軍を追撃しなかったのを織田・徳川軍が負けたからだと勘違いして信長に再度軍を動かす余力がないと判断したからだとの説もある。
野田城はこの頃より40年ぐらい前、播磨・備前・美作を領する浦上掃部助村宗によって築かれた。そのときは砦ぐらいだったのを今回の戦いにおいて三人衆は壁や櫓、逆茂木、堀を設けて城砦化し1万人近い兵を収容できる規模にまで拡張された。この城に立て籠もったのは信長によって追放された者―例えば斎藤竜興・長井隼人・篠原長房などや浪人が集まった。
【探索のヒント】「野田城」の碑は玉川4丁目の交差点付近@(05.8時点で撤去)と極楽寺Aの前にあります。野田城の規模は北が玉川4丁目の交差点から東が恵比寿神社までです。極楽寺は城域の中心に当たります。1533年(天文2年)証如が野田福島で布教活動中、六角定頼と法華宗徒に襲撃されました。この時、野田福島の一向宗門徒の百姓衆は命がけで証如上人を守って紀州へ逃がしましたが門徒宗のうち21人が殉教死しました。これを悼んだ証如は極楽寺に21人の墓を建てました。
【駐車場】コインパーキング 【最寄駅】JR環状線「野田駅」
 
@A
D福島城―大阪市福島区福島【MAP】
野田城の東側に位置し、大阪湾と繋がっていたので橋頭堡として利用されていた。「上福島村」と「下福島村」付近にあったそうで現在その遺構は確認できない。大坂冬の陣で大野道犬(治胤)が籠城したことで野田城と共に再び歴史上に登場するがどうも野田城のほうが規模だ大きかったのか福島城はほとんど触れられていない。
【探索のヒント】とにかく遺構が無いので歩き回っただけです。なにわ筋から一歩中に入ると細い道が入り組んでいるのでそれらしき雰囲気はあるのですがわかりませんでした。とりあえず福島天満宮@付近写真Aだけ撮っておきました。
【駐車場】付近にコインパーキング 【最寄駅】JR環状線「福島駅」
 
E古橋城―門真市御堂町【MAP】
現在の願得寺付近。若江城主三好義継の属城。三人衆畿内再上陸の知らせに足利義昭は8月2日高屋城畠山昭高に根来衆などと協力して信長来援まで摂津・河内を守るように命じた。この城には雑賀孫一の従兄弟根来寺玉宝が立て籠もっていて雑賀衆から開城を求められたが拒否した。河内には三人衆の影響が及んでいたため昭高は十分な援軍を送れず城は落城する。
【探索のヒント】京阪「古川橋」を東へ向かい、八坂神社を通り過ぎると左に曲がる道があります。車だと入りづらそうですがお寺の前には十分な駐車スパースがあります。
【駐車場】なし
【最寄のバス停】京阪バス「願得寺前」 【最寄の駅】京阪電車「大和田駅」
 

F順興寺―枚方市枚方元町6丁目【MAP】
京を出た信長はまずここで陣を張った。「信長公記」の「寺内」とは順興寺のことである。永禄2年蓮如の末の子実従が晩年をすごした。枚方は蓮如が吉崎から出口へ移って光善寺をつくり以降、敬応寺を中心にした招提寺内や順興寺を中心にした枚方寺内が形成された。
【探索のヒント】枚方はここ順興寺(願生坊)を中心に町が形成されました。秀吉によって京から西宮へ向かう京街道が整備され江戸時代には守口までの「東海道57次」のひとつ「枚方宿」として発展しました。
【駐車場】駅前のコインパーキング 【最寄の駅】京阪電車「枚方公園」
 
G天王寺
 
 
H渡辺の津―大阪市中央区天満橋京町【MAP】
渡辺の津と八軒家は同じ場所で熊野古道の基点である。大坂湾から繋がる船着場で源義経が平氏討伐のときここから出向した。渡辺の名はこの地を本拠とする嵯峨源氏末裔の渡辺氏に因んだものである。酒呑童子で有名な源頼光の家来渡辺綱もここが本拠だった。南北朝期、楠木正成の子政行に追撃された北朝の細川・山名軍が大川を渡ろうとしてここに架かっていた渡辺橋へ殺到、次々と川へ転落する出来事があった。この渡辺橋と現在の渡辺橋とは全く違うものである。
【探索のヒント】八軒家の船着場は松坂屋建設のために完全に姿を消しました。八軒家の名前の由来は江戸時代中期「枡屋」「大和屋」「京屋」「堺屋」「大津屋」「板並屋」「有馬屋」「銀屋」の有名な八件の宿屋がここにあったからです。江戸の面影を唯一見られるの「北大江公園」に向かう石段ぐらいです。付近はオフィス街で交通量も激しいので路駐は諦めたほうがいいかもしれません。
【駐車場】コインパーキング
【最寄の駅】地下鉄「天満橋駅」「北浜駅」 京阪電車「天満橋駅」
 
I神崎
 
 
J川口―西区川口【MAP】
木津川を挟んで川口を見る。川口は木津川と安治川に挟まれた地で川の出口が名前の由来。川口には明治以降の史跡がたくさん残っているが戦国期の砦に関するものはない。平手汎秀・平手監物・長谷川与次・水野監物・佐々成政・塚本小大膳・丹羽源六・佐藤六左衛門・梶原平二郎・高宮右京亮が配置された。この後ここには砦が築かれる。
【探索のヒント】残念ながら特別に何があるというところではありません。
【駐車場】コインパーキング 【最寄のバス停】大阪市バス「川口1丁目」
 
K中島城―淀川区十三元今里【MAP】
別名堀城。細川藤賢の城。義昭は当初上洛を渋っていた。それはこの年の初めに有名な「五ケ条の条書」を承諾させられて、信長に不信感を持っていたからである。しかし信長の要求を拒んで三好勢が京に迫ったら将軍の地位が危なくなるため、重い腰を上げた。
中島城は1566年三人衆は阿波公方足利義栄を将軍につけようと大軍を率いて摂津に上陸したとき三人衆の手に落ちた。藤賢は室町幕府最後の管領細川高国の養子細川家綱の弟。三人衆と松永久秀が対立したときは久秀に従ったが、敗北して信長を頼っていた。その後、足利義昭が信長に対して挙兵したときはこれに従ったが、敗北して再び信長に仕えて近江坂本城を守った。
十三は淀川の渡しで13番目にあったことからこの名前が付いたという。ここから中国街道も近く交通の要衝としても機能していた。
【探索のヒント】街中にある児童公園「十三公園」がその場所といわれています。遺構はありません。淀川べりは肥沃な農地と水利の便から中世から荘園が営まれていました。交通の要衝ということもあり中島城のほかに三津屋城が築かれ、渡し場を中心に浄土真宗仏光寺派の寺がいくつもありました。その中で本願寺派へ変わった門徒衆は「中島衆」と呼ばれこの付近で一大勢力を形成しました。
【駐車場】なし
【最寄の駅】阪急電車「十三駅」 【最寄のバス停】大阪市バス「北野高校前」
 
@A
L海老江―福島区海老江6丁目【MAP】
義昭が参戦したことで三人衆の軍事行動は反逆であり、信長には戦いの大義ができた。また味方の士気も上がった。野田城・福島城に近い海老江が攻略できたのもそいう背景があった。ところで海老江には海老江八坂神社@がある。そこの由緒書きAには元亀元年の戦いに織田軍はここで戦勝祈願し、陣馬・陣刀を奉納したとありその時立ち会ったのが荒木村重となっている。しかしこの時点では村重は三好方に組していたはずだが
【探索のヒント】国道2号線の東側にあります。民家の密集しているところで道幅も狭いの路駐は迷惑になると思います。ただ運がよければ神社の道に停めれる可能性があります。
【駐車場】なし
【最寄の駅】阪神電車「野田駅」「淀川駅」地下鉄千日前線「野田阪神駅」
【最寄のバス停】大阪市バス「中海老江」
 
@A
M楼の岸―大阪市中央区石町2丁目【MAP】
斎藤新五・稲葉一鉄・中川重政が守る。織田軍の砦で最も本願寺に近かったために最初に攻撃を受けた。信長を含めた織田軍が京へ退却すると三好勢と一向宗は野田・福島砦を改修して畿内に残った織田軍の一掃を試みた。高屋城や若江城、伊丹城などの要害は攻め落とすことはできなかったが楼の岸砦のような無人の砦は接収されてしまった。
【探索のヒント】楼の岸は渡辺の津の南にある崖@をさしました。もちろん今ではそんな崖などありませんが八軒屋の碑のところから南へ向かって急な坂になっているのを見ると昔の地形を想像できます。楼の岸砦の遺構はありませんが現在坐摩(いかすり)神社行宮Aがある場所が推定されています。オフィス街の中にある閑静な場所です。
【駐車場】Timesなどコインパーキング 
【最寄の駅】地下鉄「天満橋駅」「北浜駅」 京阪電車「天満橋駅」
 
@A
N住吉―大阪市住吉区住吉2丁目【MAP】
住吉区の名所「住吉大社」は全国の住吉神社の総本宮。新羅遠征に成功した神功皇后が住吉大神をお告げによりここへ祭ったのが始まりとされる。平清盛、豊臣秀吉・秀頼、徳川家康などその時代の為政者が参っている。紀州街道・熊野街道がそばを通っているので戦いの時は本陣を置くことも多く、何度も兵火にあっている。
【探索のヒント】住吉区在住の私としては最もポピュラーな名所です。本殿前の鳥居の柱が四角@というのが珍しいそうです。通称「太鼓橋」の「反橋」Aの橋脚は淀の方が寄進したものです。薩摩島津氏の祖忠久はここで生まれたそうです。「すみよっさん」といえば海の神として有名ですがお祓いの神・和歌の神・農耕の神でもあります。
【駐車場】専用駐車場
【最寄のバス停】阪堺線「住吉鳥居前駅」南海本線「住吉大社駅」
 
@A
O遠里小野―住吉区遠里小野
大阪市内を南北に貫く熊野街道@が通る遠里小野は空海が住吉大社に石灯籠を寄進したとき灯明油を納めさせたという記録がある通り油の生産地として有名だった。また楠木正成がここに石灯籠Aを寄進したのも油の生産地だったからであろう。遠里小野の油は原始的な手法でハシバミの実から摂っていたためあまり量が摂れなかったので大量に摂れる荏胡麻を使う山崎に取って代わられた。そこで遠里小野の若野某が油分の多い菜種から油を摂る道具「しめ木」を発明、菜種油が主流になり、遠里小野は再び油産地となった。
【探索のヒント】遠里小野といっても広い地域になります。軍の移動を考えると街道からそんなにななれていない場所に布陣していたんではないでしょうか。
【駐車場】なし 【最寄の駅】南海高野線「あびこ前駅」阪堺線「我孫子道駅」
SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO