@AB
@高屋城―羽曳野市古市5丁目
信長が上洛して畿内から三好三人衆を駆逐した後、摂津は和田惟政・池田勝正・伊丹親興に、河内は若江城三好義継と高屋城畠山高政に任せた。河内守護の畠山高政は信長入洛以前より三好勢と死闘を演じた武勇に優れた人物だった。父政国が守護代遊佐長教によって実権を奪われ傀儡と化したのを憂え、信長の威光を背景に畠山家再興を目指し守護代遊佐氏を討伐しようとした。しかしその動きが露見して1568年守護代遊佐信教(長教の嫡男)、安見直政によって紀伊に追放されてしまった。その後信教は高政の弟昭高を擁立して傀儡とした。1571年昭高は信長の養女を妻に迎えた。この年から三好義継・松永久秀と関係が悪化、高屋城を囲まれる。これに信長が援軍を出している。1573年6月25日信教が昭高を殺害して高屋城に三好康長を呼んだ。その一週間後足利義昭が槙島城で挙兵した。この動きは義昭・三好・本願寺が連携したことの表れではないだろうか。義継・義昭は敗れ畿内は一応落ち着いた隙をついて、本願寺と康長は再度信長に挑んだ。高屋城を囲んだ織田軍と城方との戦闘で信教が戦死したのが康長の誤算だった。
高屋城は安閑天皇陵@を本丸に南に向かって下る高台にある。高屋神社Bがある三の丸は古屋敷と呼ばれていて高屋神社は「古屋神社」といわれていた。しかし名前が悪いということで高屋城にちなんで高屋神社になった。当時の堀はないが現在近鉄長野線が走っている辺りらしい。
【探索のヒント】この付近は車で来てはいけません。国道といっても二車線しかなく路駐はできません。近鉄「古市」駅前のコインパーキングを利用して下さい。高屋城の碑Aは姥不動明の端にあります。ここは二の丸に当たります。
●高屋城【MAP】 ●高屋神社【MAP】
【駐車場】コインパーキング 【最寄の駅】近鉄「古市駅」
 
A萱振城―八尾市萱振町4丁目【MAP】
前年の天正2年9月に佐久間信盛に攻められている。萱振城は恵光寺の南西にあったといわれる。城よりも砦のほうが正しいかもしれない。恵光寺は蓮如の子供蓮淳が開いて萱振寺内町を形成した。この付近は戦場になることが多く、大坂の陣でも戦いが繰り広げられた。
【探索のヒント】境内に車を停めるスペースはありますが広くはありません。最寄の駅は近鉄八尾駅ですが近くはありません。私は八尾駅前に車を停めて自転車で行きましたが歩いて行けないこともないでしょう。
【駐車場】境内に若干駐車可能
 
@A
B駒ヶ谷―羽曳野市駒ヶ谷【MAP】
信長の陣取った地点は不明だが駒ヶ谷は高屋城から石川を挟んで東@に広がる。竹内街道(現府道166号線)の逢坂橋と月読橋の間が中心に歴史的なもの多く残る。駒ヶ谷の氏神である杜本神社には楠木正成縁の塚や神社があり、飛鳥川は柿本人麻呂が歌にも詠んでいる。駒ヶ谷より南の壺井八幡宮は源頼信が国司として着任して以来河内源氏の発祥の地となる。ここには孫の(八幡太郎)義家が愛用した「黒韋威胴丸(盾無の鎧)」が納められている。
【探索のヒント】駒ヶ谷で高屋城か見下ろせる場所を探しましたが小高い丘にはぶどう棚がびっしりあり(駒ヶ谷ぶどうは有名です)写真は撮れずはびきの中央霊園Aまで来ました。杜本神社の沿革によると信長の河内合戦で焼け落ちたとあるのでその付近だったのでしょうか。今回は駐車場を探さなかったので次回報告します。
 
 
@A
B
C不動坂口―羽曳野市古市
高屋城は城域の真中に東高野街道が走っていた。街道の城への北の出入り口は本丸のすぐ横にあり、織田軍はここを突破することになった。当然城方もここが弱点であるのは百も承知だったので街道の両側に櫓を設けて警戒していた。織田軍は街道沿いの古市の町を突破して不動坂門に殺到した。伊藤三右衛門の弟二介は何度も城門を突破しようと攻めかかり、その度に傷を負って死んでしまった。結局織田軍は本丸に迫ることはできなかった。
【探索のヒント】東高野街道は国道170号線とほぼ同じコースだが途中で古市の駅の東側を通ります。今も古い町並みを感じることはできます。街道は大乗川を渡って近鉄南大阪線の踏み切りに出て緩やかな坂@を上ると再び国道170号線に出ます。踏み切りを渡ってすぐ、人一人通れる狭い坂道がありそれを登りきったところに不動明王の碑と地蔵Aがあります。また国道に出る坂道の最後に姥不動明Bもあり、この坂道が不動坂であると確信しました。ただし非常に狭くて交通量も多いので車では無理なので古市駅前のコインパーキングを利用しましょう。
●不動坂【MAP】 ●姥不動【MAP】 【駐車場】なし 【最寄の駅】近鉄「古市駅」
 
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A
D道明寺―藤井寺市道明寺【MAP】
信長は駒ヶ谷から動かず佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・原田直政に命じ谷や村に放火させたうえ近隣の田畑を薙ぎとらせた。さらに高屋城を囲む兵を道明寺や誉田(こんだ)付近に野営させた。道明寺には道明寺@道明寺天満宮Aが隣り合ってある。ともに菅原道真に縁がある。道明寺は尼寺で道真自身の手による十一面観音菩薩像(国宝)を本尊としている。建立時はこの寺領を寄進した人の名をとって土師寺といっていたが道真により道明寺となった。その後戦火によって焼け落ちたが信長や秀吉によって再興された。道真ということでわかるとおり元は道明寺天満宮と同じ敷地にあったが明治時代の神仏分離令によって現在の地に移った。
【探索のヒント】天満宮のほうに大きな駐車場があります。
【駐車場】道明寺天満宮駐車場
 
@A
E誉田―羽曳野市誉田【MAP】
応神天皇陵の隣にある。本殿@は豊臣秀頼が片桐且元に命じて再興させたが大坂夏の陣のために中止になった。徳川幕府がその後中断していた工事を再開、完成させたので瓦に葵の御紋が使われることになった。工事途中からの再開だったため本殿の天井は板が張られていない。この付近は南北朝から戦国期にかけて再三戦いの舞台Aとなった。南北朝期の細川兄弟と楠木正行、室町中期の畠山政長と義就の戦いである。また畠山稙長と義英の和議はここで結ばれ、大坂夏の陣で戦死した薄田隼人正はここに陣を張って道明寺付近に出陣した。
【探索のヒント】国道170号線を南に向かい、西名阪道の効果をくぐって斜めに入る道を行きます。対向車が来たら譲らないといけないような1.5車線ぐらいの生活道路です。道なりに進むと右手に誉田八幡宮があります。駐車場は境内にあるので大丈夫です。
【駐車場】専用駐車場
 
F天王寺
天王寺に陣を張った信長の元には畿内・若狭・近江・美濃・尾張・伊勢・丹後・丹波・播磨・根来寺の兵が十万集まったという。その軍勢が灯す篝火は昼間と見紛うばかりの明るさで人々は驚いた。翌14日本願寺に迫った織田軍だったが周辺の作物をすべて刈り取って引き上げた。
 
 
@A B
G新堀城―大阪市住吉区長居東
新堀城は三好の支城である。讃岐の香西越後守元成・十河因幡守らが立て籠もっていた。16日信長は遠里小野まで来ると自分で周辺の刈田をした。翌日新堀城を囲んで堀を干草などで埋め立て19日夜一斉に火矢や鉄砲を打ち込んだ。さらに大軍で一気に大手・搦手から攻めかかった。砦のような城なのであっという間に城は落ちてしまった。十河因幡守は討死、香西元成は捕らえられ信長の前に引き出され、首を討たれた。他に討ち取られたのは十河越中・左馬允、三木五郎大夫、藤岡五郎兵衛、東村大和・備後である。三好三人衆の石成友通が死に三好長逸は行方不明、政康も逃亡でさらに今回の戦いで一族の十河衆も多く失い、高屋城の康長は三好家存亡にかかわると判断したのか降伏を申し出た。
新堀城は足利時代に周防守某が築いたといわれる。その地に守護神として立てられたのが堀(保利)神社である。
【探索のヒント】堀神社は民家が立ち並ぶ中にあるので車を停めることはできません。少し離れますが長居公園の有料駐車場を利用することをお薦めします。ちなみに私はこの近くに住んでて、小学生の頃なんでこの辺りの道は細くて行き止まりがあったり、クネクネ曲がってんねやろうと思ってましたが、大人になってやっとわかりました。
 
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