第二次鳥取城攻め
経過
天正8年羽柴秀吉に攻められ降伏した@鳥取城山名豊国は重臣の中村春続森下道与天正9年追放された。中村・森下吉川元春に代わりの城主を要請、元春2月26日石見福光城吉川経家鳥取城へ向わせた。3月18日鳥取城へ入った経家は引き連れた兵と城兵合わせても1千4百にしかならず秀吉の大軍と戦うには吉川軍の後詰が到着するまで篭城するしかないと判断した。一方、先の鳥取城攻めで力攻めでは城は落とせないとわかった秀吉三木城に続いて兵糧攻めを決めた。そこで経家が入城する一月前から城下の米を通常の2倍の値段で買い取り出していた。この話が城に伝わると後先の考えも無く兵糧米が売りに出された。そのため経家が入城したとき城内の兵糧がかなり減っていた。そこで経家毛利へ兵糧の要請をするとともに鳥取城への兵站線を確保するためにA丸山B雁金山に砦を築かせた。
6月25日秀吉は全軍に出陣を命じた。鳥取城下で稲刈りをする前に城を包囲する為だった。7月12日鳥取へ到着すると秀吉軍C袋川と千代川の間D賀露港と丸山遮断する地点E鳥取城の東の山地に布陣した。そして秀吉自身は鳥取城を一望できるF太閤ヶ平に本陣を構えた。秀吉は積極的な戦闘は控えていた。しかし鳥取城の西にあるG防己尾城吉岡将監は度々秀吉軍に夜襲をかけたので7月19日26日9月7日の三度防己尾城を攻めたが結局落とすことはできなかった。9月16日毛利の兵糧船が賀露港へ入ろうとして松井康之の水軍と戦闘になった。松井軍毛利軍を駆逐、余勢を駆ってH泊城まで占拠した。長滞陣を覚悟していた秀吉だったが山陰の冬は避けたいので宮部継潤I鳥取城と雁金山を分断するよう命じた宮部軍が多くの犠牲を出しながら鳥取城を孤立させることに成功した。10月になると吉川元春が因幡まで出うmJ馬ノ山砦に陣取った。したおかげで。しかし鳥取城ではもはや援軍を待っていられないほどの飢餓地獄に陥っていた。10月24日経家秀吉に降伏を申し出、25日までに経家らがK切腹して開城した。27日秀吉は後詰の元春を阻止するために馬ノ山砦のすぐ東のL御冠山に移動しM羽衣石城へ武器・食料を補給した。両軍は一週間の間睨み合いを続けたがまもなく冬に入ることを考慮してともに陣を引き上げた。
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