@A
B
C
@村木砦―東浦町森岡
知多では寺本城も義元になびき、あとは緒川城の水野信元をどうするかということで義元は天文22年2月下旬評定を開いた。その席で石川新左衛門が前年この付近を調べてみたところ、緒川城のすぐそばに北は石ヶ瀬川が流れる足場の悪い湿地帯、東は海がそばに迫り、西は鳥や獣さえも通らない山や谷がある一方知多半島の先端師崎へ通じる街道もある村木と言う場所を見つけたのでここへ砦を作ってはと提案した。義元はもとより評定に参加した重臣達も全員賛成、石川新左衛門が作事奉行に任じられ早速築城準備に採りかかった。6月1日駿府から職人や資材が海上輸送され、5日より工事が始まった。山を切り開き、地ならしして南北240b東西150bの
馬蹄形の縄張りBで築城がなされた。北から東にかけては湿地や海岸のため敵は入れない地形で南に深い堀を設け、搦手にあたる西にも堀を設けた。松平越中守が城主として在城することになった。
【探索のヒント】村木砦の碑@がある八剣神社Aは水野信元の家臣で村木村の住人だった清水八右衛門家重がこの戦いの戦死者を弔うために建てたものです。主郭部には民家が建っていて昔の様子はわかりません。しかしこの付近の道はほぼ砦の形状に沿って作られているので規模は大体把握できます。八剣神社は国道366号線の東側にあります。境内まで車で入っていけますがこの付近の散策をするなら「駅西」交差点の北にあるガソリンスタンドを東へ入ったJRの高架付近に路駐した方がいいかもしれません。ちなみにこの道が砦の北限になります。境内にある見取り図だと砦は水城のように思われますが衣ヶ浦に突き出した岬に砦は作られました。村木砦の西にある開眼寺C(東浦町段上)前の道は空堀だったといわれています。
●村木砦【MAP】:【駐車場】なし ●開眼寺【MAP】:【駐車場】専用駐車場
【最寄の駅】JR武豊線「尾張森岡駅」
 
@A
A緒川城―東浦町小川【MAP】
知多半島北東部を支配する水野氏の居城。1475年築城。水野忠政が当時の城主のような表現があるが忠政は天文12年に死去しているのでこのときの水野家の当主は信元である。家康の母
於大の方の生まれたA城でも有名である。
刈谷城主忠政は松平家と複雑な姻戚関係を結んでいた。当然織田家とは敵対関係にあったが「守山崩れ」で松平清康が死ぬと織田信秀と安祥城を攻めている。さらに信秀の意向を受けて忠政は娘の於大を松平広忠に嫁がせた。これにより広忠は信秀からの脅威に晒される心配はなくなったが義元としては面白くなかった。そして忠政が死ぬと嫡男信元は今川と縁を切って織田家についた。松平広忠は今川義元を恐れ於大を離縁して水野家へ戻した。やがて三河が今川の属国となり義元が尾張へ触手を伸ばし出すと水野氏の周辺の勢力は今川氏に従い出し、緒川城は孤立していった。さらに目と鼻の先に村木砦が築かれ緒川城は那古野城と完全に分断され、信元の進退は極まった。
信元の寝返りに信長はこれを厚遇を持って迎えた。その後姉川や長篠の合戦に参加しているが信頼はいまいちのようでその後知領は余り増えなかった。1575年(天正3)信元は岩村城の武田軍に兵糧を売った咎と長篠で佐久間信盛と作戦上で口論になったことから同年12月27日切腹させられた。
水野領が佐久間信盛のものになると信盛は水野一族を追放して、蔵納を金銀に換えて蓄えとしたがこれが天正8年信盛が追放された19の理由の一つとなった。しかし天正6年の有岡城攻めで水野藤次郎が信盛の与力として参加、戦死しているので水野一族は復帰していたということになる。信盛追放後、清州同盟以降家康の配下で活躍していた信元の弟忠重が刈谷城主になって旧領へ戻され、緒川城を改築したが1644年廃城になった。
【探索ヒント】2度訪問しました。前回は於大公園に駐車して歩きましたが今回は東浦役場の駐車場を利用しました。用がないのに駐車するのに抵抗のある人は「東浦歴史散歩」という非常に役立つ本が販売されているのでそれを購入してはいかがでしょうか。役場前に「緒川城約300メートル」の道標がありますがアバウトで役に立ちません。今回通った道は「電気修理屋店」の横の道を入ってしばらく行くと道路ミラーがあります。そこを左に曲がると道はクランク状になっています。道なりに進むと正面に高台へ上る階段があり、その上に碑@があります。高台の前に公園がありそこに「傳於大の方生誕地」の碑があります。ここから村木砦は見下ろす形になるので当時はよく見えていたと思われます。
【駐車場】於大公園または東浦役場駐車場 【最寄の駅】JR武豊線「緒川駅」
   
@A
B
C
D
E
B寺本城―知多市八幡町堀之内
花井播磨守と嫡男勘八郎の城で別名堀之内城・青鱗城。信長は村木砦を攻略した勢いで同じく今川方の寺本城と藪城を攻めた。信長が寺本城に攻撃を仕掛けたときすでに日が暮れていたため周辺にある法海寺や民家に放火して城を暗闇に浮き上がらせた。小山とはいえ天王山に築かれた寺本城は織田軍の攻撃にも耐えた。
花井氏は尾張守護土岐頼康の守護代として富田氏とこの付近に勢力を持っていた。知多の土豪とする説もあるが花井は鳴海の地のものとするのが一般である。水野氏が知多半島へ勢力を伸ばしてくるとそれに協力し富田氏を追放した。その後義元に従ったが桶狭間で義元が死ぬと信長に降った。その後佐治為興とともに伊勢水軍として活躍している。
【探索ヒント】県道24号知多東浦線「長曽根西交差点」を東に行くと左手にある高い山@が寺本城のある天王山です。もと城下ということもあり周辺の道は細く車では無理です。近くに「FEELアストリー」というスーパーがあるのでそこの駐車場を利用しました。登り口Aはすぐにわかります。主郭Bは山の形状に合わせて東に向かって平坦になっています。ここには津島神社があります。信長が火を放った法海寺Cは寺本城から西へ700メートルのところにあります。織田軍に放火された城下は丸焼けになりましたが野間海道大権現Dのところにあった地蔵尊だけは焼け残りました。そのため「ヤケン地蔵」と呼ばれ現在光明寺Eの入り口に安置されています。
●寺本城【MAP】:【駐車場】なし ●法海寺【MAP】:【駐車場】専用駐車場
●野間海道大権現
【MAP】:【駐車場】なし●光明寺【MAP】:【駐車場】なし
【最寄の駅】名鉄常滑線「寺本駅」
 
@A
C薮城―東海市養父町南堀畑【MAP】
織田軍は寺本城を攻めるとともにその北1.2`にある花井惣五郎の篭もる薮城も攻めた。惣五郎も必死に防戦したが城内で裏切りがあり、意表を突かれた惣五郎は丸腰のまま討ち取られてしまった。「弓矢さえ持っていたならば、このようにむざむざ討たれはしなかったものを」と最期に言ったとされる。その後信長の弟信治が城主となるが元亀元年の宇佐山城の戦いで戦死したため廃城となる。
【探索ヒント】現在城跡を特定する遺構は残っていないので薮城跡とされる安楽寺@へ行ってきました。丁度安楽寺の管理をされておられる方がいらっしゃったのでお話を聞きましたが城跡に関する情報はありませんでした。本堂の裏に五輪塔を崩したような墓Aがあり、最近も付近の住職による供養が行われたということです。ここで頂いた由来書には仙養山36院の本坊だったが織田方の戦火にあい塔堂伽藍すべて灰燼に帰したとありました。「愛知県中世城館跡報告書」の地図では安楽寺の東側に城があったとしているので本当にここが城跡なのか疑問です。安楽寺は国道155号線「南堀畑交差点」の南にすぐです。
安楽寺:【駐車場】境内に駐車可能 【最寄の駅】名鉄常滑線「尾張横須賀駅」
 
@A
D重原城―知立市上重原町【MAP】
重原城主の山岡河内守は知立神社神官で知立城主の永見氏の娘を妻としており永見貞秀は水野忠政の娘を妻としていたので信元が織田に寝返ったのに従い、河内守は織田方として平安末期成立した重原庄の中心地であるこの地を守った。この城跡はこの地を支配する地頭の居館を改造したものとも考えられる。
城の南側に流れる猿渡川は当時重原の港まで入り江になっていた。そこを利用して村木砦に人や物資を運ぼうと考えた今川義元は天文23年(天文21年と書いたものもある)重原城を攻め落とした。
【探索ヒント】名鉄三河線「重原駅」東の上重原町公民館と法信川の間に碑@があります。城は平城で碑の付近から東が城域でした。今も公民館裏のうっそうとした茂みAに土塁や空堀を確認できます。駐車場はないので路駐になります。
【駐車場】なし 【最寄の駅】名鉄三河線「重原駅」
【最寄のバス停】知立市ミニバス4コース「上重原公民館」
 
E熱田湊―名古屋市熱田区神戸町【MAP】
着々と尾張を侵食する今川勢に最も近くに居る水野信元の離反だけは避けたい信長は領内に総動員をかけて村木砦の攻略に向かうことにした。20日清州城の織田彦五郎に備えるため斉藤道三が派遣してくれた安藤守就に挨拶を交わし、21日全軍熱田湊に集結する旨連絡させた。しかし林秀貞と弟通具は「尾張を他家の者に任せては心配なので我等は残る」と言って林の与力の前田(与十郎)種利の城に入ったまま出てこなかった。21日全軍熱田で陣を張った。陸路緒川城へ向かうこともできるが途中にある鳴海城や大高城がすでに今川の手に落ちていたために信長は海路で向かうことにした。22日は水手でさえ躊躇うほどの大風が吹き荒れたが信長は強引に出航させた。
【探索ヒント】熱田は門前町としても有名ですが桑名へ通じる海路「七里の渡し」の船着場で「宮」という名の宿場としても発展しました。1625年尾張藩の家老で犬山城主の成瀬正虎が常夜灯を建てました。1676年には二代尾張藩主徳川光友が熱田の町衆や東海道の旅人に時間を知らせるため「時の鐘」を蔵福寺に設置しました。空襲で鐘楼は焼け落ちましたが鐘は無事でした。現在ある鐘楼は往時を偲ぶ観光施設として建てられたものです。
【駐車場】なし 【最寄の駅】JR東海道本線「熱田駅」 名古屋鉄道「神宮前駅」
 
@A
B
C
F木田城―東海市太田町城山
荒尾美作守善次が城主。信長が「うつけ」と呼ばれ尾張国内を馬を駆って走り回っていたころここへ立ち寄ったことがあった。荒尾善次は信長の軍を快く迎えたが大軍のために全軍を城内に収容できず周辺の
長源寺A(太田町天神下の上)観福寺B(高横須賀町山屋敷)に分かれて野営した。到着した夜の宴席で信長は善次の娘を弟信時の嫁に迎えたいと申し出た。そのとおり信時の嫁になったが守山城で信時が殺害されると信長の計らいで池田恒興に嫁いだ。翌朝善次も加わった織田軍は藪城と寺本城の間の街道を進んだあと南下、佐布里C(知多市佐布里)で今度は東へ進路を変え水野信元の緒川城へ向かった。
木田城主の荒尾一族は在原業平の末裔とも言われ荒尾七村の地頭だった。荒尾小太郎空善は一色左馬助が築いたという木田城を整備し居城にした。空善は子供に恵まれなかったので大野城佐治家から善次を婿養子に迎え、両家は同盟を結んで知多半島を狙う今川氏に抵抗した。善次には善久という嫡男がいたが三方が原で戦死した。家督は善久の二人の弟が継ぐのが普通だが善次は池田恒興に嫁いだ娘が生んだ古新丸を養子に迎え、荒尾一族はその家臣となった。小牧長久手の戦いで父恒興・兄之助が戦死したため古新丸が池田家に戻ることになった。これが池田輝政である。善次は83歳で死去するまで輝政を補佐し続けた。
【探索ヒント】「横須賀小学校」の北を走る国道155線が名鉄河和線をくぐって二つ目の信号を北へ向かうと「城の腰」という交差点があります。その右手にある小高い山が木田城@です。個人所有なので立ち入りはできませんが家を建てる際、山を削ったところ五輪塔が出てきたといわれています。「城の腰」の交差点を西へ進むと幼稚園の向かいに観福寺あり、その道をさらに西へ坂を下っていくと右手に長源寺があります。佐布里城の碑は県道254号白沢八幡線の「竹ヶ鼻」交差点の横にある「佐布里ダム記念館」の駐車場にあります。信長がここを通って緒川城へ向かったことや城があったことを考えると知多半島横断ルートとしては一般的だったのかもしれません。ただし城の詳細はわかっていません。ちなみに佐布里は梅で有名なところです。
●木田城【MAP】:【駐車場】なし ●観福寺【MAP】:【駐車場】専用駐車場
●長源寺
【MAP】:【駐車場】専用駐車場 ●佐布里城【MAP】:【駐車場】専用駐車場
【最寄の駅】名鉄河和線「高横須賀駅」
 
@A
B
C
D
E
G村木砦の戦い
村木砦は大手門が東の衣ヶ浦に搦手は獣すら通らない茨荊生い茂る西に設け、北は石ヶ瀬川の河口にあたり一面泥だらけで進入は不可能。唯一進入できそうな南側には深い堀をめぐらしていた。信長は東と西と南から同時に攻め立てる作戦を採った。まず早朝緒川城を出た信長・信光隊は砦を見下ろせる高台Aに陣を張った。水野信元は三河からの援軍に備えるためと大手門を攻めるために清水権之介を案内人にして十余艘の兵船で出陣した。大手門の浜に到着すると清水八右衛門が先頭を切って上陸した。
鳴海城―大高城―村木砦―重原城という今川侵攻ラインを是が非でも阻止したい信長は自軍の損害を度外視した猛攻撃を村木砦に加えることにした。信長自身が鉄砲を携え砦の南側、堀端から鉄砲を取り替えながら連射する姿に若武者も意気盛んになり深く掘られた堀をものともせず砦の塀に取り付き城内へ侵入を図った。同じ頃信光隊は搦手を攻めていた。攻める兵は約3百。この中に六鹿という豪傑がいて真っ先に柵を打ち破った。これに遅れまいと他の兵たちも次々柵を打ち破った。大手門を受持った水野隊も3百の兵で攻めていた。砦側もはじめは弓鉄砲で反撃、織田軍にも死傷者が多く出たが、三方向からの同時攻撃では砦側の死傷者のほうがはるかに多く、夕刻ついに城主松平越中守は陣笠を振って降伏を申し出た。勝利した信長は飯喰場で涙を流し感謝し酒を振る舞い全ての兵達を労った。村木砦は信元に預けられた。信元はこの戦いで活躍した清水権之介・八右衛門に砦の支配を任せた。
この一戦で知多半島での橋頭堡を失った今川義元は4年後松平元康に命じて緒川城を攻めさせた。これを迎え撃つ水野信元との間で石ヶ瀬で戦いになった。このあと桶狭間の戦い直後の永禄3年6月18日、永禄4年2月7日にも両軍はここで戦っている。このあと信元は信長の許しを得て元康と和睦、さらに清洲同盟まで持ち込むことに成功した。
【探索ヒント】「大府高北」交差点から始まる国道366号線に沿って史跡があります。大府高校から南に石ヶ瀬川があります。その川の南側の田園地帯Dで戦いが繰り広げらたようです。碑があるはずでしたが見つかりませんでした。国道366号線を更に南下、「東森岡」交差点の南に「三井石油」のガソリンスタンドがあります。そこから東へ向かう道が砦の外縁になります。この付近は国道を含め道幅が狭いので路上駐車者はしにくいです。この外縁にあたる道とJR武豊線が交差する高架下に駐車しました。高架をくぐって十字路を右へ行くと線路を挟んで村木砦跡である八剣神社が見えますB。この付近は昔衣ヶ浦で水野信元が上陸した方面です。今来た道を戻って国道を横断してすぐのところに刑場Eがありました。ここは今川方についた村木村の役人を処刑した所です。国道366号線「森岡南交差点」を西へ向かう比較的広い道に沿って村木神社@があります。昔、津島社(天王社)があり村木保育園にあった八幡社(清水八右衛門創建)と合祀されて村木神社と言うようになった。この道をさらに西へ行き二つ目の信号を右へ曲がります。そのまま行くと左に大きな貯水池があり、その裏にある公園に飯喰場Cの解説があります。このあたりは車が停めれそうです。
●村木神社【MAP】:【駐車場】あり 【最寄のバス停】東浦町運行バス「神社前」
●飯喰場
【MAP】:【駐車場】なし ●石ヶ瀬【MAP】:【駐車場】なし

 

SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO