| 経過 |
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| 天正7年正月を安土で過ごし、2月18日から京都で鷹狩などをしていた織田信長は3月7日になって織田信忠と古池田に出向いた。信長の来訪に有岡城を包囲する砦の守将は更に囲みを厳しくした。信忠も加茂と@池ノ上の両砦を改修した。 信長は3月14日からA多田の谷で鷹狩を楽しみ月末には鷹狩とB箕面の滝の見物のをした。4月8日古池田の東で「御狂」と称する軍事演習を行うがそれが終わるとまた鷹狩に出掛けた。この「御狂」は26日にも行われている。この日、信長は三木城攻めのため派兵を始めた。越前衆、大和・山城衆、信忠含めた一門衆が次々と播州へ向かった。 4月18日有岡城の付城C河原砦で有岡城から攻めてきた足軽と戦いがあった。29日播磨から信忠、越前衆、丹羽長秀が古池田に戻って来た。信長は信忠、越前衆を帰国させた。 5月1日の一時帰国に際して信長は砦の人員をD配置しなおした。この後大きな動きもなく両軍は睨み合ったまま秋になった。 9月2日夜になって状況が動いた。村重がE尼崎城へ密かに移ったのである。これを知った信忠は12日尼崎城に近いF七松に砦を築いた。24日から28日信長が伊丹まで来て各砦を検分して回った。一方城主がいなくなった有岡城へ滝川一益が調略を仕掛け10月15日有岡城の防御拠点のG上臈塚が陥落した。これをきっかけに他のH防御拠点も次々と攻略された。11月15日開城を決意した有岡城留守居役池田久左衛門は尼崎城の村重に会いに行った。尼崎城と花隈城を開城すれば有岡城で人質になっている妻子を開放するというものだった。しかし村重は久左衛門に会わなかった。使者としての役割を果たせなかった久左衛門は有岡城に戻らず、淡路の岩屋へ逃走した。もはや人質の助かる術はなくなった。人質のうち女性30人は京都I妙顕寺の牢に入れられ、12月13日尼崎七松で他の人質と共に処刑された。さらに16日六条河原で村重一族と重臣の家族が処刑された。その後村重は尼崎城から毛利を頼って安芸へ脱出している。 |
| 高槻城・茨木城攻め 第1次有岡城攻め |