@池の上砦
 
 
 
A多田
 
 
 
B箕面の滝
 
 
 
C河原砦
 
 
 
D砦
 
 
 
@A
B
E尼崎城―尼崎市南城内【MAP】
村重の嫡男村次が城主。毛利に寝返ったものの毛利からは書状が来るだけで具体的な動きがないまま年を越してしまった村重に焦りがあった。そこで尼崎城に詰めている毛利方の桂元将に接触するために深夜5、6人の供回りだけ連れて尼崎城へ向った。完全包囲された有岡城を出た限りは二度と戻れないことは村重はわかっていたはずである。すると村重は城外からの救援を目論んだのであろうか。しかし有岡城の落城を知って今まで人生の選択が成功してきただけに今回の計算ミスはかなりショックで自分の武将としての力量に見切りをつけて人生をリセットするためにすべてを捨てたのかもしれない。
西摂津の海上交通の要衝だった大物に1516年細川高国によって築かれた。1526年に改修。この頃摂津での支配権争いで細川家が争い、堺を拠点とする澄元に対し高国は尼崎を拠点とした。この両者が死んだ後も堺、尼崎は細川晴元対反晴元陣営の拠点だった。時代が下っても尼崎城の重要性は変わらず、畿内での戦乱では陣地として何度も利用された。
【探索のヒント】お城の模型Aは城内小学校の正門内にあります。最近の物騒な事件のせいで小学校に入るのはホントに気を使います。尼崎城の碑@は小学校の国道43号線沿いにあります。中央図書館には復元された城壁Bがあります。
【駐車場】Times(阪神大物駅) 中央図書館臨時駐車場 
【最寄り駅】阪神電車「尼崎駅」
 
@A
F七松城―尼崎市七松町2丁目【MAP】
信忠の陣があったというより有岡城に取り残された人々の処刑場としての方が名高い。織田信澄は落城した有岡城に警護の兵を置き、城内の侍、婦女子を厳重に監視した。村重の一族は京都へ送られ、それ以外の人々は信長も不憫に思いつつも見せしめのため七松で処刑される事にした。奉行は滝川一益・丹羽長秀・蜂屋頼隆だった。まず上臈衆122人が磔になった。子供は母の胸に抱かれながら槍や長刀・鉄砲で処刑された。次に下級武士の妻子とその侍女388人、若党124人が4軒の家に押し込められ、火を放たれのた打ち回って焼け死んだ。その凄惨な様にその場にいた武士も一般人も肝を失った。
この処刑の直前、池田久左衛門と尼崎城へ向かい姿を隠していた荒木五郎右衛門が明智光秀のもとへやってきて自分を女房の替わりに処刑するよう申し出た。しかしその願いは聞き入れられず夫婦とも処刑された。
七松は城というより環濠集落であった。その構造から戦いがあると度々陣屋として利用された。1019年に創建された氏神である七松八幡宮にはこのときの死者を慰霊するが建てられている。
【探索のヒント】七松城跡は尼崎市役所の西にある七松八幡宮@と言われています。元環濠集落ということで道幅は狭く入り組んでいるので車での進入は考えものです。市役所の駐車場利用をお勧めします。市役所北西の信号を西へ渡り、左に老人養護施設をみて道なりに進みます。道が細くなった次の四つ角を右へ曲がると八幡宮があり鳥居のすぐ横に慰霊碑Aがあります。
【駐車場】尼崎市役所駐車場 
【最寄り駅】JR神戸線「立花駅」 【最寄りのバス停】尼崎市バス「七松町3」
 
@A
B
C
G上臈塚砦―伊丹市中央6丁目
滝川一益は佐治新介を使者に立てて上臈塚砦の中西新八郎に寝返りを打診した。村重が戻る可能性が低いことを悟った新八は足軽大将の星野左衛門・山脇勘左衛門・隠岐土佐守・宮脇平四郎と相談、一益の申し出を受け入れることにした。有岡城では裏切り者が出ないように夜は城兵の妻子を本丸に人質として留め置いていた。しかし10月15日に限り妻子は各々の砦に戻されていた。それを好機として中西新八郎らは上臈塚砦を開城、織田軍を城内に引き入れた。織田軍は一気に城下を制圧し本丸の西にある侍屋敷に火を放ち、たちまち城下を制圧した。
中西新八郎は池田勝正の家臣だった。村重が勝正追放を企んだ時、新八郎は先手をうって村重を暗殺しようとしたことがある。そんないきさつがあったことを一益は巧みに利用したのではないだろうか。
【探索のヒント】現在の伊丹シティホテル@が砦のあった所です。ホテルの南側に墨染寺Bという曹洞宗のお寺があります。天正年間京都の同名寺から尊像を移してこの地に安置したことからこの名をつけました。その墓地に女郎塚Cがあります。一般には村重の裏切りで犠牲になった女性たちを弔ったといわれていますが上臈塚砦のすぐそばなのでそれに因んだ碑とも考えられます。
●上臈塚砦:【MAP】 ●墨染寺:【MAP】
【駐車場】伊丹みやのまち地下駐車場 Times(ホテル南側)  
【最寄り駅】阪急電車「伊丹駅」
 
@A
B
H岸の砦―伊丹市宮ノ前3−6【MAP】
伊丹城の北の守りだった岸の砦(北の砦・野宮砦)に詰めていたのは渡辺勘大夫という池田氏の旧臣だった。勘大夫は石田伊勢守とともに村重の与力だった中川清秀の茨木城に援軍として詰めていたが清秀が降伏したため有岡城へ戻ってきていた。上臈塚砦が降伏したため一旦本拠地の多田の荘へ逃れた勘大夫は保身のため織田方に寝返ることを伝えたが信長によって却下、殺害された。
【探索のヒント】岸の砦は現在の猪名野神社@にありました。境内には土塁Aが残っています。その土塁に沿って神社の外側にコンクリートの細い道Bがあるのですが堀にあたるのでしょうか。猪名野神社の北には多田街道があり多田の庄に続いています。恐らく渡辺勘大夫は付近に展開している織田軍に見つからないようにこの道をたどって領地へ戻ったのでしょう。
【駐車場】ダイヤモンドテラス 伊丹みやのまち地下駐車場  
【最寄り駅】JR伊丹駅
 
H鵯塚砦―伊丹市伊丹7丁目【MAP】
最後まで織田軍と戦った鵯塚砦を守っていたのは野村丹後守と雑賀衆だった。村重が謀反した天正6年11月から雑賀衆の棟梁鈴木孫一は本願寺の要請で有岡城に詰めていた。天正7年1月に孫一は花隈城へ移ったが雑賀衆はそのまま有岡城に残っていた。村重の妹婿だった丹後守は砦で最後まで生き残り、降伏を申し出たが織田軍に散々抵抗した挙句の申し出だったため認められず、自害して果てた。丹後守は村重脱出の時、妻も連れて行くよう要請したが村重の妻「たし」から止められた。
【探索のヒント】鵯塚も上臈塚ももとは古墳だったといわれています。砦のあった所は現在個人所有のマンションの敷地内にあるので立ち入り禁止です。「南本町公園」の南側にある道を東へ向います。やや左へ曲がりながら突き当たりにあるのが鵯塚です。細い道なのでここまで車で来ないほうが無難だと思います。私はあちこち見ながらJR伊丹駅から歩いて行きました。
【駐車場】Times(阪急新伊丹駅) 
【最寄り駅】阪急電車新伊丹駅 【バス停】市バス36番南本町4丁目
 
H昆陽口砦―伊丹市宮ノ前1丁目【MAP】
昆陽口砦の存在は疑問視されているが一応有岡城の西側を守るのが役目だった。池田和泉守がここを守っていたという。池田和泉守は有岡城落城が決定的になって、池田久左衛門らが村重に尼崎城・花隈城開城を説得するために有岡城を出かけると留守居を申し付けられたたが前途を悲観して銃で頭を撃って自決した。
【散策のヒント】はっきりとした所在地はわかっていませんが「伊丹小学校」前にある「文化会館」付近といわれています。近いうちにもう一度行ってきます。
【駐車場】Times(阪急伊丹駅) 伊丹みやのまち地下駐車場 
【最寄り駅】阪急電車新伊丹駅
 
 
I妙顕寺
 

 

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