荒木村重謀反<花隈城攻め>
経過
織田信長で鉄甲船を謁見して安土へ戻って二週間ほど経った天正6年(1578)10月21日摂津守護荒木村重が謀反を企んでいるとの報せがもたらされた。信長は早速松井夕閑明智光秀万見仙千代@有岡城へ遣わして、事の真偽を確かめさせた。「謀反の意思などない」と答えた村重に対し信長は「それなら母親を人質に出し一度安土へ来い」と命じた。しかし村重有岡城を動かなかった。
11月3日信長自身が出馬して摂津へ向った。村重に従った高槻城茨木城を開城させると古池田から28日有岡城に近いA昆陽に本陣を移した。信長は山陽道からの毛利の援軍を防ぐために滝川一益丹羽長秀隊をB西へ向かわせた織田有岡城の西の要衝C花隈城を包囲した後、更に西へ進みD兵庫から一ノ谷あたりまで焼き払った。この頃、尼崎に近い有岡城の支城E大和田城安部二右衛門が降服してきた。
12月4日一ノ谷で軍事行動をしていた滝川一益丹羽長秀有岡城攻めのために塚口Fへ戻って来た。8日から本格的な有岡城攻めが始まった。堀秀政万見仙千代菅屋長頼が鉄砲奉行となり城下に攻撃を仕掛けた。それに続いて平井久右衛門中野又兵衛芝山次大夫の弓隊が火矢で町に火を掛け、城壁まで迫った。しかし、要害の有岡城に篭っての荒木軍の反撃も激しく、仙千代が戦死してしまった。
こうした事もあり信長は力攻めをやめ、11日有岡城監視のためF付城に人員を配備、池田に戻った。池田へ戻ると信長有岡城の北の支城G三田城に対しH道場河原・三本松に砦を築かせ、羽柴秀吉の兵を入れた。21日信長へ戻り、25日安土へ到着し年を越した。
高槻城・茨木城攻め  第二次有岡城攻め
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