@A
@有岡城―伊丹市伊丹一丁目【MAP】
村重謀反の噂は細川藤孝から信長へ伝えられた。それによると村重方から本願寺に兵糧が運び込まれているという。天正6年2月村重が顕如と本願寺内で和平交渉を行った時、兵糧攻めによる貧窮ぶりがあまりに酷いので気の毒に思った村重がつい兵糧を送ってしまったのがこれだといわれる。6月の神吉城攻めのとき、村重は信長に助命を願い出て許された守将神吉藤太郎が志方城へ逃走してしまうという失態を演じてしまった。。この一件で立場が悪くなった村重は勝手に有岡城へ引き上げた。そして10月17日村重は娘を本願寺に人質として出して盟約を結んだ。
播磨方面に展開している秀吉軍は三木城・別所長治が毛利についたので孤立しかけていた。ここで村重に叛かれたら完全に退路を絶たれてしまう。またようやく本願寺への兵糧搬入の遮断に成功したのに村重の寝返りで陸路から本願寺へ補給が可能になっては今までの苦労が水泡に帰してしまう。信長としてはどうしても村重に考え直してもらいたかった。そのため村重の嫡男村次の妻の父親である光秀が説得に行った。また黒田官兵衛も説得に行って幽閉されてしまったのは有名である。
村重は池田城主池田勝正のもと池田21人衆に名を連ねる猛将であった。
三好三人衆の本圀寺襲撃事件での勝正の体たらくに弟知正は村重や中川清秀の手を借りて勝正を追放した。その後白井河原の戦いで同じ摂津守護の和田惟政と知正が戦い、惟政が戦死するとその領地に池田家の影響が及んできた。その後信長と義昭が対立した時、知正は主従関係から義昭についたため村重は池田家を離れて信長に誼を通じようとした。
細川藤孝の仲立ちで元亀4年3月29日信長と村重は対面する事になる。信長は村重を大いに気に入り、義昭とともに知正が失脚すると村重を摂津守護として池田城に入れた。すると村重は守護としての地位を確固たるものにするために天正2年11月15日伊丹親興を攻め滅ぼし伊丹城を手に入れた。村重は池田城の改修を参考に親興時代の伊丹城を2年の歳月をかけて惣構えの城郭にした。この付近は台地で東側は断崖になっていて視界が開けていた。そのため「有り明けの岡」と呼ばれていたことから村重は有岡城と名前を変えたといわれている。
【散策のヒント】JR「伊丹」駅西側が本丸です。本丸には石垣@や井戸などが残されています。本丸の東側には猪名川があり天然の堀になっているので西側に堀をめぐらせています。さらにその西側に堀Aがありました。この堀は家臣団の居住区の周囲にめぐらされたものです。ここからは村重時代の埋蔵物が多数見つかっています。伊丹の歴史についてはこちらを参考にしてください。
【駐車場】ダイヤモンドテラス 伊丹みやのまち地下駐車場  【最寄り駅】JR宝塚線「伊丹駅」
 
A昆陽
 
 
B西宮神社―
【散策のヒント】
【駐車場】【最寄り駅】
 
B茨住吉神社―神戸市東灘区住吉宮町7丁目1番2号【MAP】
西国街道の本街道にある本住吉神社のこと。日本書紀で神功皇后が新羅を攻めた三韓征伐の帰路、皇后の乗った船が動かなくなり神のお告げで海の神である住吉三神を祀った地とされる。全国の住吉大社・神社はここから勧請されたとされる。
1995年の阪神淡路大震災で鳥居が倒壊、本殿も傾いたが復興されて綺麗な姿でよみがえった。
【散策のヒント】国道2号線東灘「区役所前交差点」の6百メートル西にあります。駐車は境内にできます。だんじりが有名で5月4日5日に各町のだんじりが曳かれます。また歴史資料館もあり社務所に申し出れば見学できます。
【駐車場】境内に駐車【最寄り駅】JR神戸線「住吉駅」
 
B芦屋里―芦屋市
尼崎から西宮を通る浜街道(中国街道)とその北の広田神社を通る本街道(西国街道)が合流したのが芦屋村の東の打出村である。合流した街道はしばらく西へ向かうが再び本街道と浜街道に分かれた。
芦屋といえば伊勢物語で有名な在原業平の別荘があった地。その歴史は奈良時代までさかのぼる事ができるので様々な史跡にお目にかかれる。芦屋は葦屋とも書かれかつては神戸市にあるフラワーロード辺りがまでが葦屋郷であった。
【散策のヒント】正直どこに織田軍が陣を置いたのか分からないので芦屋川の流れる芦屋公園へ行きました。超高級住宅街の代名詞「芦屋」は阪神電車「芦屋駅」を中心に開発されていきました。芦屋ではセレブは山の手ではなく海辺の奥様のことです。
【駐車場】Times 【最寄り駅】阪神電車・JR神戸線「芦屋駅」阪急電車「芦屋川駅」
 
B雀が松原―神戸市東灘区魚崎西町4丁目【MAP】
昔は東灘のこの辺りは海岸線でそこにあった松林は「雀の松原」と呼ばれる名勝だった。平家物語・源平盛衰記・太平記などにもこの名前が現れる。もともと「ササイ」の里という土地で「雀部(ささきべ)」の「雀」の字を当てていた。それが「すずめ」と読み替えられた。雀合戦の舞台でもある。雀合戦とは3年に1度ほど丹波の雀の大軍とこの地の雀との戦いである。それが名物になると見物人が集まるようになった。それを当てこんだ村人が戦いで死んだ雀を焼き鳥して商売を始め、灘名物になったという話がある。
【散策のヒント】車で難儀しながらたどり着きました。阪神電車「住吉駅」と「魚崎駅」の間にある「魚崎西町ちびっこ広場」に歌碑があります。住宅街なので路駐しか方法はありません。
ちなみに大きな歌碑は
竹ならぬ かけも雀の やとりとは いつ名にしめし 松はらの跡 中納言公尹

小さい方は
雀松原遺跡 杖とめて 千代の古塚 とへよかし ここや昔の すすめの松原
 です。
【駐車場】なし 【最寄り駅】阪神電車「魚崎駅」
 
@A
B御影―神戸市東灘区【MAP】
神功皇后が三韓征伐の帰途、化粧を直すため湧き出す泉の水を使おうとしたら自分の姿(御影)が美しく写ったので「御影」がこの地の名前になったとする話もあるが本住吉神社の神影が後ろの山に写った事から御影山の名ができ、以降御影の地名になったとの話もある。平安時代藤原基俊が病気療養のため摂津の国に来て京へ戻る途中、松が多く茂った所を通った。これが名勝御影の松と聞かされ
世にあらばまた帰り来む 津の国の御影の松よ 面がはりすな と詠った。
【散策のヒント】御影も芦屋と同様、どこで織田軍が陣を張ったかわからないので御影の松を詠んだ歌碑があるという西方寺へいきました。国道43号線「浜中交差点」を北へ向かいしばらく行って左折します。その左角が西方寺@です。短時間だったので路駐しました。本堂横に歌碑と2代目の松Aがあります。
西方寺:【駐車場】なし 【最寄り駅】阪神電車「御影駅」
 
@A
B滝山―神戸市兵庫区滝山町【MAP】
標高90メートルほどの高台が滝山町。マンション等がなければ花隈城・兵庫津・須磨まで十分に見通せる。源義経が「逆落とし」を敢行したのはここから北へ行った鵯トンネルの右の崖からであった。その後滝山を通り平家の陣地を背後から奇襲した。
【散策のヒント】西神戸有料道路へ南の入り口「鵯越」から入ります。でもトンネルを越えるまで有料ではありません。歩道橋@が見えたらここが滝山町です。駐車場は無いので私はバス停に一時駐車しました。ここからではマンションがあったりで須磨方面しか見えないAのでもう少し上った「ひよどり展望公園」の方が車も停められていいかもしれません。
【駐車場】なし
【最寄り駅】神戸鉄道有馬線「長田駅」 【最寄のバス停】神戸市バス「滝山」
 
B生田の森―兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目2-1【MAP】
源平合戦の舞台にもなった生田の森は現在は生田神社の北の端にあるが当時はフラワーロードまでが生田の森であった。一ノ谷の戦いでは平知盛りは生田川と生田の森を東の防衛線とした。また時代下った湊川の戦でも楠木正成、足利尊氏陣地として使われるなど平地の要衝であった。
生田の森は清少納言が枕草子で「杜は生田」と書いているように古くからあり貴族が訪れ歌会などを開いた。この生田の森には松は一本も植えられていない。桓武天皇時代の799年大洪水が起こり当時生田社があった布引山が崩壊の恐れが出た。そのため生田の森へ移す事になったが、防災用に植えていた松が洪水の時全く役に立たなかったので松は不吉とされ、生田の森からも排除された。以降、正月にも生田神社では「門松」ではなく「杉飾」を置くようになった。
【散策のヒント】2007年陣内智則と藤原紀香が結婚式を挙げて一躍縁結び神社として脚光を浴びるようになった生田神社は三宮の繁華街のど真ん中にあります。交通の便もよく電車でも車でもOKです。神社の駐車場は一日500円です。ここの駐車場を使うならフラワーロードを新神戸駅方面へ行き「加納町三丁目交差点」を左折、四つ目の信号を左折すると生田神社の駐車場入り口があります。案内板も出ているのですぐわかります。生田の森は本殿裏にあり、土日の昼間開放しています。
【駐車場】専用駐車場【最寄り駅】JR・阪神・阪急「三宮」
 
@A
C花隈城―神戸市中央区花隈町
村重の従兄とされる荒木元清と伊勢北畠晴具に縁ある大河原具雅が城主。元清は馬術に優れ、荒木流馬術の創始者である。本願寺へ向かう毛利軍に備え、城の南にあった西国街道を見下ろす丘陵の突端に築城された。現地の城跡説明板では永禄10年信長に命じられて1年で完成したとされているがこの頃はまだ村重は信長に仕えていないし毛利とも争ってはいない。天正2年築城というのが有力らしい。
毛利氏への備えとして築城されたにも関わらず城下町も形成され近世城郭の形態を成していた。南に海が迫っていた地形なので自然と北・東・西へ拡張されていった。北には二の丸・三の丸、東は武士の住居、西には花隈町があった。
【散策のヒント】花隈公園@が城跡です。当時はこのような石垣ではなかったのですが海側からは切り立った丘の上に城を見ることができました。公園の西にある福徳寺が天主跡Aだそうです。
福徳寺周辺は道幅が狭く路駐しにくいので花隈公園の下にある駐車場の利用をおすすめします。
●花隈公園【MAP】: ●福徳寺:【MAP
【駐車場】花隈公園駐車場 【最寄り駅】JR神戸線「元町駅」神戸高速鉄「花隈駅」
 
D兵庫―神戸市兵庫区
奈良時代大和田の泊という良港を持つ兵庫は港町として発展した。平安時代平清盛は宋との貿易拡大を狙い大和田の泊を大改修、次いで港に近い福原に政治・経済の中心を移した。源平合戦により福原は焼失、未だその姿は不明のまま。しかし、港はその後も貿易港として残り、信長・秀吉・家康の保護を受け発展した。特に秀吉は大坂城へ直接船が近づくのを嫌い、瀬戸内を通る船は兵庫で荷揚げをしなければならなかった。
【散策のヒント】兵庫というと湊という発想で江戸時代の兵庫津の東の惣門跡の写真を撮って来ました。みなと八幡宮の前に碑はあります。信長とは関係がありませんが史跡はたくさんあるのでJR「兵庫駅」または「神戸駅」を基点に散策しては如何でしょうか。
【駐車場】コインパーキング 【最寄り駅】JR神戸線「兵庫駅」「神戸駅」
 
 
@A
BC
D須磨・一の谷―神戸市須磨区
織田軍お得意の寺院への焼討がここでも繰り広げられたらしい。須磨には多くの寺院があるが由来書に織田軍の戦火に焼かれたというのが見つからなかった。織田軍が須磨で引き返したのは兵站線が延びるのを避けるためと須磨がすぐ横に海が迫る狭い地形で敵の大軍が移動しにくい場所だったので、逆に織田軍が展開しやすい兵庫まで防衛ラインを下げたと考えられる。これは源平合戦一の谷の戦いで平家が取った布陣に近い。
とろこで「一の谷」は現在の須磨区一の谷とは違うという意見がある。古文書の記述から兵庫区の鵯越の麓にあった大きな湖こそが一の谷だというのである。語源は「その美しさ大きさが随一の谷」と表現され大和田泊はここであると書き残している物もある。「信長公記」には「須磨一谷まで相働き」「兵庫一谷放火」とある。そうなると一の谷が二箇所あったことになる。
【散策のヒント】須磨一帯は源平合戦の舞台としての史跡がたくさん残っています。まず信長といえば「敦盛」。熊谷直実によって討取られた平敦盛の五輪塔(敦盛塚)@は須磨浦公園入り口の少し西にあります。写真では分からないと思いますが高さが4メートル近くあります。公園の中を東へ10分ほど行くと国道2号線に向いた戦の浜の碑Aがあります。一の谷合戦の激戦地といわれます。ここが須磨区一の谷です。
須磨浦公園からロープウェイで須磨浦山遊園へ上れば神戸から淡路島まで代パノラマを楽しめます。尚、火曜日は休みです。徒歩で登りましょう。
須磨寺B
は886年創建の真言宗のお寺です。り源平の縁のあるもの―弁慶の鐘・敦盛の青葉の笛が宝物館に展示されていて無料で見ることができます。また直実と敦盛の戦いの場面を再現した源平の庭Cというものもあります。
●須磨浦公園【MAP】:【駐車場】有料駐車場 【最寄り駅】山陽電鉄「須磨浦公園駅」
●須磨寺
【MAP:【駐車場】専用駐車場
【最寄り駅】JR「須磨駅」 山陽電車「須磨寺駅」
【最寄りのバス停】神戸市バス「天神下」
 
 
E大和田城―大阪市西淀川区大和田4−3【MAP】
村重は犠牲を払って一向宗徒から奪った大和田城を安部(阿部)二右衛門に預けた。安部はかつて池田城主池田知正が近臣18人と村重謀殺を企んだとき、その18人を逆に殺害した忠臣だった。
この城には利休七哲の一人芝山監物がいて安部に村重に味方しても得策ではないと説得した。芝山は宗綱の名も持つ、元は本願寺に味方した武将だった。
両人は蜂須賀小六に降参する事を伝え12月1日信長の陣を訪れた。信長はこれを喜び黄金2百枚を与えた。しかしこれを知った安部の父親と伯父が「顕如と村重を裏切るとは何事だ」と怒り天守に立て篭もった。説得は無理と判断した安部は芝山を使者に立て信長に再度敵対すると伝え、金を返した。これに信長は「是非に及ばず」と答えた。
安部はまず父と伯父に蜂屋頼隆・阿閉貞征の陣へ鉄砲隊で攻撃させると説明、伯父には尼崎城の荒木村次と大坂の顕如のもとへ行って「どんな事があっても村重に忠節を誓う」と伝えて欲しいと送り出した。すっかり安心した父親が天守から出てくると安部は取り押さえ、人質として京都へ送った。12月3日夜、再び信長の陣を訪れた安部は事の顛末を説明した。信長は前にも増して安部の忠節を喜び、左門字の脇差を与えたほか馬と馬具一式、川辺郡(猪名川町)を与えた。また芝山にも馬を与えた。
【散策のヒント】大和田小学校の一角に碑があります。昨今の事情もあり、事前に学校へ連絡してから訪問しました。本願寺が大坂を退去した年、信長は大和田城を改修させている。本願寺が去った後でも一向宗徒は多く存在したので万が一に備え警戒する必要があったらしい。
【駐車場】なし【最寄のバス停】大阪市バス支線92「大和田五丁目」
 
 
@A
B
C
E塚口城―尼崎市塚口本町【MAP】
塚口御坊は京都山科に建立された浄土真宗興正寺の別院として性雲上人によって起された。尼崎方面の真宗の中心道場だったことから寺内町が形成され、他勢力から町を守るため土塁や堀が設けられた。その後一揆の拠点となった。1567年に興正寺住職は顕如の次男顕尊が勤めることになったので、興正寺は本願寺派No2ノ地位を手に入れた。しかし興正寺は仏光寺派の寺だったので塚口では本願寺からの独立が悲願であった。
塚口は伊丹から尼崎への中間地点にあたるので村重は継ぎの城として兵を置いた。有岡城が落城し顕如が紀州へ退去すると一向宗の勢いも衰え、塚口御坊もその役目を終え江戸時代になると土塁は破壊され堀は埋められて平地になった。塚口御坊の跡には正玄寺が建てられた。
平成17年の発掘調査で寺内は二重の堀で囲まれていた事が分かった。塚口御坊は周辺より1.5m高い丘陵の突端にあり周囲は水田や湿地だった。その丘陵に沿って堀が設けられていた。
【散策のヒント】JR宝塚線の西を平行に走る県道尼崎・池田線が阪急電車の高架をくぐって左側に交番のある信号を左折します。この道が唯一広い道です。少し走ると左に「おさなご保育園」があります。その向かい側が正玄寺@です。駐車場はこの道の南側にあります。その南側の道を東へ行くと寺内町の東門Aです。土塁跡に祠があります。この他清水町門B・北町門・南町門がありました。現在水路があるところが当時の堀Cです。このように昔の地形を利用した町なので道が細く行き止まりがあり徒歩での散策をお勧めします。
【駐車場】正玄寺駐車場 【最寄駅】阪急電車「阪急塚口駅」
 
 
F食満・倉橋・原田城・刀根山城・賀茂・一津屋
 
 
 
G三田城
 
 
 
H道場城
 
 
 

 

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