@AB
@吉田城―豊橋市今橋
この時の城主は酒井忠次だった。武田軍が東三河へ侵攻を開始すると家康は前年高天神城を奪われた経験からすぐに岡崎城から援軍5千を引きつれ吉田城へ入城した。その上で信康に命じて岡崎の東にある法蔵寺に7千の兵を待機させた。牛久保城、ニ連木砦を落とした武田軍は吉田城下へ迫った。5月6日城下の町口を守る酒井忠次隊と武田軍山県昌景隊との戦いから吉田城の攻防戦が始まった。戦いは短時間で終わり徳川軍が城内へ兵を引き上げると武田軍は吉田城を包囲した。翌7日にも戦いは行われ、山県隊広瀬郷左衛門、徳川軍渡辺守綱などの猛将が活躍した。しかし三方が原での敗北がそうさせたのか家康は城外へ討って出ることはなかった。これに対して勝頼も強引な城攻めをしなかった。

勝頼の第一目的は長篠城の奪回で丁度家康が吉田城までやってきたからあわよくば討ち取ってしまおうとしたのではないだろうか。しかし家康は城に篭ってしまい後詰に信康や信長が出てきては危険なので、勝頼は当初の目的通り長篠城攻めへ全軍を向かわせたと考える。なお勝頼は長篠城へ向かう途中、東三河一帯に水を供給する橋尾の用水Aを切ってしまったためにこの年、東三河は大旱魃に見舞われた。勝頼が家康を仕留められなかった悔しさをここで晴らしたのであろうか。
【探索のヒント】吉田城の石垣は本丸だけに見ることができます。鉄櫓の下の石垣Bは最古のもので池田輝政が城主だった慶長初期のものといわれています。
●吉田城【MAP】:【駐車場】専用駐車場 【最寄の駅】JR「豊橋駅」
●法蔵寺:
●橋尾用水:
 
@A
A長篠城―鳳来町長篠字市場
西の寒狭川(豊川)と南の大野川(宇連川)を天然の堀にした長篠城は1508年に菅沼元成によって築かれ父の満成がここへ移り長篠菅沼氏が始まる。この長篠菅沼氏、田峯菅沼氏、作手奥平氏は山家三方衆と呼ばれた。彼らの支配地域は松平・今川・武田の勢力の境界線上にあるため、その時々の力関係で主家を変えていった。すなわち松平清康→今川義元→武田信玄というふうにである。
天正元年信玄の死により彼らは信長と同盟し着々と力をつける家康につくか、主力は残っているが未知数の勝頼につくかという大問題に直面した。山家三方衆と一括りに呼ばれても常に同じように行動することは無かった。まず信玄の死を家康に伝えたのは奥平氏であった。それを確かめるため家康は野田城を攻め、城将菅沼昌定を敗走させた。その後家康は奥平貞能を味方につけようと「貞能の嫡男貞昌に家康の娘亀姫を嫁がせる」「本領安堵はもちろん田峯・長篠菅沼しの領地も与える」「伊那郡を奥平氏に与えるよう信長に働きかける」など好条件を出して説得にあたった。武田家に見切りをつけていた貞能はすぐに貞昌と作手城を脱出、家康の元へ向かった。家康はこの機に乗じて長篠城を本格的に攻め、奪取に成功し、奥平父子を城番に据えた。これを知った勝頼は貞能の人質仙丸(13歳・貞昌の弟)・於ふう(16歳・貞信の許婚?)・虎之助(16歳・奥平勝次の子)を鳳来寺表参道入り口で殺害した。天正3年2月18日になって正式に奥平氏は長篠城主に任命された。家康は対武田戦の最前線に奥平氏を配置することで忠誠心を確かめようとしたのではないだろうか。この試練に奥平氏は命がけで答えを出さなければ自滅しかなかった。
【探索のヒント】長篠城址保存館(月曜休館)は狭いながらも不要なもの(よく歴史博物館にある本題とは関係ない展示物)がなく非常に印象に残ります。飯田線、バスとも本数が少なく車などを利用しない場合、時間をよく調べないととんでもないことになります(経験済み)。この付近はやっぱりこの戦いで有名なので史跡保存に力を入れておられ、史跡は非常に見つけやすいです。対岸から見る城跡はすばらしい景色Aです。
ところで長篠城の籠城戦とアラモ砦の戦いが似ていることで志賀重昂(明治大正の政治家)が戦跡の
アラモ教会と岡崎城に両戦いを顕した碑@を建てました。
●長篠城【MAP】:【駐車場】専用駐車場 【最寄の駅】JR飯田線「長篠城」駅
●志賀重昴の顕彰碑
【MAP】:【駐車場】市営駐車場 【最寄り駅】名鉄「岡崎公園駅」
 
Bニ連木城―【MAP】
【探索のヒント】
 
 
@
A

B
C
D

E
C医王寺―新城市長篠字弥陀前
勝頼が長篠城攻めの本陣を構えたのは長篠城の北1`の医王寺の裏にある標高約172メートルの山の南端である。本曲輪からは長篠城周辺を一望できる絶好の場所で大手道が繋がる東曲輪と搦手道が繋がる西曲輪を備えた陣城である。
その南には一条信龍(西八代郡上野城主)、真田信綱(小県郡松尾城主)・昌輝、土屋昌次ら2千の兵が陣を張る天神山があった。
長篠城に最も近い大通寺には馬場信房(更級郡牧の島城主)、小山田昌行、武田信豊(小諸城主・勝頼の従弟)が同じく2千の兵で長篠城攻撃に備えている。
勝頼が長篠城包囲を開始した5月1日から20日までの間に側室、江尻城主三浦右馬助、長坂長閑斎に宛てた手紙を出している。その中で右馬助への手紙には「信長も家康もこの緊急事態に後詰に出て来れない様子なので敵陣に攻め込んで本懐を遂げる」と記され注目を浴びている(NHK「その時歴史が動いた」)。
【探索のヒント】それぞれ同じルート上にあるので探しやすいと思います。医王寺@大通寺Eの西の道を北上「本陣」という和風レストランの手前を右へ入ります。右手にすぐ天神山Dをみつけることができます。そのまま直進するとすぐに左手に案内板と駐車場があります。駐車場の右に本曲輪Aに向かう山道があります。この道は東曲輪Bへ続きます。西曲輪Cから下へ降りる道は余り使われていないようで草ぼうぼうでした。
●医王寺【MAP】:【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】豊鉄バス「長篠城前」
●大通寺
【MAP】:【駐車場】専用駐車場 【最寄のバス停】豊鉄バス「長篠城前」
          【最寄りの駅】JR飯田線「長篠城駅」
●天神山
【MAP】:【駐車場】なし 路駐 【最寄のバス停】豊鉄バス「長篠城前」
 
@AB
@本丸跡【MAP】 A瓢郭【MAP】 B巴城郭【MAP】
CDE
C大手門【MAP】 D内堀【MAP】 E野牛郭【MAP】
FGH
F弾正郭【MAP】 G帯郭【MAP】 H櫓跡【MAP】
IJK
I搦手門【MAP】 J倉屋敷【MAP】 K野牛郭【MAP】
LMN
L殿井【MAP】 M土塁【MAP】 Nさかさ桑【MAP】
D長篠城攻防戦
1万5千の武田軍に対して守兵500人の長篠城が助かる方法は降伏か徳川軍の後詰の到着である。しかし家康が動員できる兵力では長篠城を救うところまでは無理であった。そこで奥平貞信は家康に忍者を送り「信長公の出陣も願いたい」と懇願した(松平記)。長篠城が援軍の到着まで持ちこたえられたのは鉄砲200丁を配備していたからではないだろうか。13日深夜武田軍が大野川から
瓢曲輪Aに乗り込もうとしたがここを守っていた兵によって銃撃され、崖下に数十人が転落した。しかしここが陥落するのも時間の問題とみた貞昌は兵を巴曲輪Bへ引き上げさせた。同じ頃大手門Cでは武田軍は望楼を築こうとしていた。これを見た城兵は大鉄砲で建設中の望楼を破壊したため、ここでも武田軍に死傷者が出た。14日夜が明ける頃武田軍は本丸の西に金堀人を動員して土居に穴をあけ出した。貞昌は土居の内側に空堀Dを掘ってその土で土塁を作り対処した。瓢曲輪を占拠した武田軍はさらに巴曲輪へ乗り込もうとした。城に居た奥平定行・山崎善七・生田・黒田らは槍を振るってこれを阻止しようとしたが城兵に死傷者数十人を出してしまった。城の南端の野牛曲輪Eでも戦闘が始まった。ここでは貞昌自ら戦闘に加わって武田軍を撃退したがやはり城兵数十人を失った。野牛曲輪の下Hで毎朝水垢離をしていた戸田藤五郎はこの朝見回りをしていた武田の侍大将が足を滑らせ川へ落ちたのをみて、神の御加護と川へ飛び込み、その武士の首を取っている。
城兵の抵抗にもかかわらず武田軍は次々と曲輪を占拠して行き、夕刻までには
弾正曲輪Fまで敵の手に落ちてしまい、とうとう帯曲輪(二の丸)G・野牛曲輪・本丸@だけを残すのみとなった。
【探索のヒント】保存館の駐車場(帯郭)に車を停めて周辺の史跡を自転車を使って回りました。城域は東西330メートル、南北250メートルと言われ、東はJR飯田線に沿っていくつか碑があります。ブラブラ歩いても十分回れます。東の端にある搦手門Iは「長篠城」駅から城跡へ向かう道にあります。途中道が二股に分かれ左の細い道沿いに瓢郭の碑Aを見つけられます。この道をさらに進むと飯田線の踏み切りがあり、渡って道なりに進むと右手の土塁に野牛郭の碑Kがあり、それと並んで殿井Lがあります。さらに進んだ平坦地にも野牛郭の碑Eがあります。ここから川の方へ降りることのできる小径があり突き当たりが「櫓跡」Hです。左の道が河原へ行く道です。本丸はここから約10メートル高い所にがあります。だからここから武田軍が攻めてくると丸見えで格好の標的になった可能性があります。最近山城を回る機会が多かったので本丸がとても広く感じました。本丸の東の空堀に沿って土塁Mが設けられ二の丸、倉屋敷Jのあった巴城郭(三の丸)Bを見下ろすことができます。駐車場の一角にはさかさ桑Nがあります。逃げる勝頼が民家の庭先に突き刺した刀から生えた桑で下向きにしか伸びないのでこう呼ばれました。
【駐車場】専用駐車場
【最寄の駅】JR飯田線「長篠城」 【最寄のバス停】豊鉄バス「長篠城跡」
 
@A
@本丸下【MAP】 A櫓下【MAP】
B
B鳴子網敷設跡【MAP】
CD
C強右門上陸地点【MAP】 D烽火場【MAP】
E鳥居強右衛門の援軍要請ルート
14日夜奥平貞昌は家臣を集め兵糧は4日ほどしかもたないことを告げた。そこでこの窮状を岡崎城の家康に知らせる役目をまず一族の奥平勝吉に打診したが固辞された。座して滅ぶよりは玉砕覚悟で討って出るという意見も出たが、貞昌は切腹して城兵の助命を願うと主張した。そんな時足軽の鳥居強右衛門勝商が伝令役を引き受けると進み出た。武田勢によって厳重に包囲された長篠城からの脱出は困難だったが強右衛門は城の
不浄口@から脱出、寒狭川Aへ出た。途中警戒のために張られた鳴子の網Bを切り大野川との合流地点まで進み、さらに川を下った。梅雨の時期だったため川は増水して流れも速かったが水練者の強右衛門は無事城から4キロ離れた広瀬の渡しに上陸Cできた。それから北の雁峰山へ向かい、山の途中で予定通り城兵に無事を告げるため烽火を上げたD。これを確認した城兵の喜びはどれほどのものだったであろうか。烽火を上げた強右衛門は雁峰山から北側にある男川に沿って岡崎へ向かった。長篠城から約50キロ、深夜2時ごろ出発した強右衛門は16日の昼過ぎに岡崎城へ辿りついた。そこにはすでに信長が援軍を率いて到着していた。落城寸前の長篠城の状況を説明、早急な出陣を乞う強右衛門に信長はゆっくりと休むように言った。しかし城で難儀している仲間に一刻でも早く「まもなく織田・徳川連合軍が救援に来る」ことを知らせたいと再び長篠城へ戻っていった。
【探索のヒント】強右衛門が寒狭川へ身を沈めた場所の表示はありませんが長篠城にある案内板から勝手に推測しました。保存館のそばから本丸に沿って「矢沢川」を右手にみて川へ下っていく径があります。やがて行き止まりのロープと札が下がっていてそれ以上は行けません。案内板Eだとこの辺りから目の前にある飯田線の鉄橋の間で強右衛門は脱出しました。鉄橋を過ぎて宇連川との合流地点の手前の崖下に警戒用の鳴子が張ってありました。ここを見るには長篠城の野牛郭から行きます(長篠城攻防戦参照)。
強右衛門の上陸地の碑へは国道151線「半場橋」を東へ行ったニ差路の右の道をガードレールがあり道が狭くなるところまで直進します。ここで車を停めて私は自転車で行きました。車を停めた地点からすぐ左に広瀬橋へ向かう細い下り坂があり、道なりに進みます。道が大きく左へ曲がっている右手に方向転換用なのか危険のだからなのかロープが張られています。その向こうに碑はあります。
【駐車場】なし
【最寄の駅】JR飯田線「茶臼山駅」 【最寄のバス停】豊鉄バス「茶臼山」
 
@ A
B
F鳥居強右衛門、磔刑―新城市有海篠原  金七誕生の地―新城市富永上野  強右衛門の墓―新城市有海稲場(新昌寺)
岡崎を出発した強衛門は往路と同じルートで烽火場所まで戻ってきた。この後度のようにして強右衛門が武田軍にまぎれ込んだのか不明だが篠場野で穴山信君の与力川原弥太郎が股引を濡らした強右衛門に気付き、合言葉をかけたが返事が返ってこなかったので捕まってしまった。武田信綱が取調べに当たると強右衛門は臆することなくすべてを話した。この態度に感心した勝頼は強右衛門に命を助けて召抱える代わりに城兵に連合軍は来ないので諦めて降伏するよう伝えよと言った。これに応じた強右衛門は矢沢川を挟んで長篠城に向かって大声で「織田・徳川軍は一両日中に岡崎城を出発する。もう少しの辛抱だ!」叫んだ。これに怒った勝頼は寒狭川を挟んだ本丸から見える対岸の篠場野に強右衛門を連れて行き、磔柱にくくりつけ槍で刺し殺された。なお「長篠日記」には長篠城を脱出したのは強右衛門と鈴木金七(金七郎重政)と二人であったとも言われる。
鈴木金七は信長が本陣を置いた茶臼山の麓に生まれた。強右衛門だけでは心配だった貞昌が水練上手な金七も同行させた。岡崎城に到着した二人だったが金七は家康の言葉に従い岡崎に残り、家康軍に加わった。合戦後金七は故郷で帰農し、作手大田代に隠居した。のち作手亀山城主になった貞昌の四男松平忠明は金七を訪ね、200石与えたと言われる。
強右衛門は長篠城脱出にあたり子の信商の今後を頼んでいた。信商は8歳で家督を継ぎ、100石を与えられのちに300石へ加増された。さらに松平忠明付に抜擢され1200石の大身に出世している。
【探索のヒント】強右衛門磔刑の地@は県道豊橋鳳来線から「牛渕橋」を渡って飯田線の踏み切りを渡ったすぐ右手にあり看板も建っています。強右衛門の墓Aのある新昌寺は先の強右衛門磔刑の地の前の道を北西へ向かい、二股に分かれた右の道を行きます。すぐ右側に労働会館がありその前の細い道から新昌寺へ行けます。
金七の立て札B
は設楽原にあります。県道出沢東上線の北側にある茶臼山へ行く途中です。
●磔刑の地【MAP】
 【駐車場】なし(踏み切りの横に駐車スペース有り) 【最寄の駅】JR飯田線「鳥居」
●強衛門の墓
【MAP】
 【駐車場】新昌寺専用駐車場 【最寄の駅】JR飯田線「鳥居」
●金七誕生の地
【MAP】
 【駐車場】なし(公民館前にスペース有り)

 

SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO