@桜中村城―南区呼続町(富部神社付近)【MAP】
山口氏は鳴海・笠寺を領有する土豪である。かつて小豆坂の戦いでも信秀に協力しているが家臣ではないので主が頼りないと判断すれば力のありそうなほうにつくのは当然である。山口氏は今川勢を領内に引き入れただけでなく大高城も攻略して今川氏に提供した。
【探索のヒント】「中世城館跡調査報告T」によると富部神社付近とあります。地籍図でもやはりその辺りですが分布図だと元桜田町になっています。駐車場はなく路駐になります。呼続公園の駐車場も公園の利用者のみという報告もあります。ちなみに私は公園の横に停めて徒歩でここまで来ました。神社自体は1603年清洲城主松平忠吉が素盞鳴尊を祀る祠をここへ移したのが始まりといわれます。
【駐車場】なし 【最寄りの駅】名鉄名古屋本線「桜駅」
【最寄りのバス停】名古屋市営バス名湊16系・神宮13系「薬師通3」または「呼続町」
 
A笠寺―南区笠寺町【MAP】
山口氏の寝返りで今川義元は笠寺に砦を築き、葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾顕茲・浅井小四郎をいれた。しかし、笠寺砦の痕跡は存在しない。実は戸部城のことではないかという意見もある。
【探索のヒント】尾張四観音(甚目寺観音、竜泉寺観音、荒子観音)の一つ笠寺観音の梵鐘は大晦日になると参拝者によって突かれる尾張三名鐘の一つです。という事で参拝者も多く専用駐車場があります。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りの駅】名鉄名古屋本線「元笠寺駅」
【最寄りのバス停】名古屋市営バス新瑞13・14系、神宮16系、南巡回「笠寺西門」
 
B鳴海城―緑区鳴海町字根古屋(城跡公園)【MAP】
教吉が教継から譲られた鳴海城は標高15mの丘陵にある。南は城下まで黒末川が迫り西は深田、東は谷が続く天然の要害。三の山まで(写真右)1キロちょっと。
赤塚の戦いで決定打を与えられなかった信長は計略で山口父子を葬ろうとした。今川義元に山口父子は寝返った振りをして尾張に義元を誘い込み信長と挟み撃ちする手筈になっているという情報を流しこれを信じた義元は山口父子の弁解も聞かず処刑した。この話は先の戸部新左エ門の件に似ているので教継=新左エ門ではないかとの説もある。
【探索のヒント】この付近も車を止める所はないですね。イトーヨーカドーの駐車場にでも入れて歩いてみてはどうでしょう。
【駐車場】なし 【最寄りの駅】名鉄名古屋本線「鳴海駅」
 
C中根―瑞穂区中根町【MAP】
那古野城を出た信長は中根へ向かった。中根には後に中根城が築かれたことから鳴海城近くで織田家に協力した地域であろう。中根城は南城を本城、北城、中城を出城として三城で構成されていた。城主は織田越中守で一説には信秀の十男(信長の異母兄弟)信照だという。北城主は村上承(小)膳、中城主は村上弥右衛門。信照は後に御所での馬揃えにも参加している様子。
 
D小鳴海―緑区古鳴海【MAP】
かつては鳴海潟のあったところ。ここで鎌倉街道が一旦途切れ舟で西の対岸(現桜台高校付近)に渡ると再び鎌倉街道が始まる。干潮時は徒歩でも渡れたが満潮時は遠回りするか舟で渡らなければならなかった。干潟に鳴海の宿ができてからこの付近が古鳴海と呼ばれるようになった。
小鳴海の西の対岸はすでに反信長となっていたので信長は中根を通ってここへ来なければならなかった。
【探索のヒント】気楽に車を止める所はありません。私は前日泊まった呼続のホテルから自転車で来ました。
 
E三の山―緑区鳴海町【MAP】
標高36.1メートル。昔は四方が見渡せたと思うが今では建物が邪魔で鳴海城も見にくい。山上に松尾芭蕉が築いた句碑の千鳥塚がある。千句塚公園として整備中に弥生時代後期の遺跡が見つかった。
【探索のヒント】ここは絶対に車では無理です。私は自転車でこの付近を回りました。もし勇気があるなら交差点そばにあるマクドナルドに停めてみてはどうでしょうか。
【駐車場】なし
【最寄りのバス停】名古屋市営バス新湊12系・野並13・17系「鳴海山下」
 
F赤塚―緑区鳴海町赤塚【MAP】
信長の陣取る三の山の西は入江になっていて平地での戦いをするにはその東に軍を展開する必要があった。これは信長も計算していた事で教吉がいつ動くかが焦点だった。放っていた斥侯が教吉の出陣を知らせてきた。予想通り教吉は清水又十郎、柘植宗十郎、中村与八郎、萩原助十郎、成田弥六、成田助四郎、芝山甚太郎、中島叉二郎、祖父江久介、横江孫八、荒川叉蔵を先陣に東へ軍を進めた。これに対し信長は荒川与十郎、荒川喜右衛門、蜂屋般若介、長谷川挨介、内藤勝介、青山藤六、戸田宗二郎
賀藤助丞らが先陣となって山を下りた。両軍が10メートルほどまで接近して矢合戦となった。教吉軍の放った矢に甲を貫かれた荒川与十郎が落馬した。すると敵は与十郎を自陣へ引きずって行こうと群がった。与十郎がさしていた刀の鞘は非常に見事な作りだったのでこれを敵に渡してはならないと信長軍も与十郎の体を引き戻す。これにほかの足軽も加わり激しい引っ張り合いとなるがついに信長方に軍配が上がった。午前10時ごろから始まった合戦は乱戦となって一進一退の展開となった。教吉方は中島叉二郎、萩原助十郎祖父江久介、横江孫八、水越助十郎を失い、信長軍も30騎を失った。信長軍は荒川叉蔵捕らえたが赤川平七江を敵に取られた。元は共に戦った間柄だったので下馬して合戦中に敵陣へ逃げた馬も捕虜となった者も交換して正午過ぎに両軍が兵を引いた。
【探索のヒント】三の山の北側の坂を下ると大きな池があります。その付近が赤塚です。この戦いに関する史跡があるわけではありません。古墳時代の古墳赤塚古墳があったという立札があるぐらいです。車の場合は新海池公園の駐車場を利用して下さい。
【駐車場】新開池公園駐車場
【最寄りのバス停】名古屋市営バス野並新13系・新湊12系「鳴海製陶前伝治山」
 
@A
H戸部城―南区戸部町
別名松本城。今川氏の家臣戸部新左衛門政直が城主で義元の妹婿とも言われる。また、戸部氏は山口一族だとも言われる。新左衛門の寝返りに信長は右筆に新左衛門の筆跡を1年がかりで真似させて、新左衛門から信長に内応に応じる旨の偽の手紙を書かせた。これを商人に扮した家臣の森可成が駿府城下に持ち込み義元の手元に届くように細工をした。計画通りその手紙を見た義元は新左衛門を処分した。
【探索のヒント】住宅街が城跡でもちろん城跡は残っていません。城とは違う所に碑があります。車で来ても停める所がありません。私は南区役所の駐車場に停めて歩きました。笠寺病院の横の道を入っていくと右手にマンションが見えます。その付近が城のあった場所@です。碑はここより北東ヘ150メートル行った所にあります。県道222号緑瑞穂線を「呼継1交差点」から南へ下り、左に「サークルK」のある信号を左へ曲がらず直進します。左に「リハビリテーション病院」を見つけたら左折。この道は県道222号方向への一方通行です。そのまま行くと左に碑Aがあります。道幅が広いので路駐は可能です。
【駐車場】南区役所駐車場 【最寄りの駅】名鉄名古屋本線「本笠寺駅」
本来の城跡【MAP】 碑の場所【MAP】
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