@林貞秀邸
【探索のヒント】
沖村城(北名古屋市沖村西ノ郷212【MAP】
田幡城(名古屋市北区金城3)
【MAP】
 
@A
A比良城―名古屋市西区比良3丁目
比良城主は佐々成政。その後信長直属のエリート集団である黒母衣衆に取り立てられ、北国方面軍団長柴田勝家の与力府中三人衆の一人だった成政も代々仕える織田家の行く末に不安を持った一人だった。その家老の井口太郎左衛門は信長謀殺の機会を窺っていた。
この年の冬、比良城の南にある「あまが池」のほとりを歩いていた又左衛門は「目が爛々と輝き、真っ赤な掌のような舌をチョロチョロ出す鹿のような顔をした大蛇」が堤の上に横たわっているのを目撃した。この話は近隣の村々に広まっただけでなく清須城にももたらされた。早速信長は又左衛門を呼び寄せ目撃談を聞いた。そしてその正体を暴いてやると言ってあまが池にやってきて、村人を総動員して池の水を汲み出させた。なかなか下がらない水位に苛立った信長は脇差を咥え池に飛び込んで自分で探し始めた。結局大蛇を見つけることはできなかった。
この時この地の領主である成政は病気と言って比良城にいた。池から上がった信長に太郎左衛門は体が冷え切っているだろうから是非城でお休み下さいと申し出た。「成政の見舞いも兼ねて、では城に行こうか」と話に乗った信長が城へ入ったところを取り囲んで、亡き者にすると言うのが太郎左衛門の計画であった。しかし信長はこの申し出を断り、さっさと清須城へ引き上げた。また、信長を舟で池の中ほどまで連れ出して池に落としとどめを刺すという計画も練っていた。
佐々氏の出自には佐々木氏または菅原氏を祖とするとする説がある。上総国佐々庄出身の佐々氏が尾張に移り織田家の家臣になったとするのが一般的である。成政の父盛政(成宗)は井関城を本拠にしてたが比良城を築き成政と移り、井関城は成政の兄隼人正(政次)に譲った。永禄3年桶狭間合戦で隼人正が戦死すると井関城は廃城、家督を継いだ成政の比良城が本拠となった。
【探索のヒント】比良城跡には現在光通寺があります。県道158号小口名古屋線「比良3丁目交差点」を東名阪自動車道に沿って東へ向かいます。右に比良駅の表示がある辻を左折、「大洋機工」の手前が光通寺です。駐車場は5分ほどの所にあるそうですが私は蛇池近くに車を停めて自転車で行ったので場所を確認しませんでした。住宅街なので路駐はできません。2008年正月時点で大掛りな改修工事をしていたので本堂の写真は撮れませんでした。墓地に@佐々成政城址の碑と新しい「成政寺庭月道閑大居士」の宝筐印塔があります。
あまが池は洗堰緑地内蛇池公園(西区山田町比良)の
A蛇池(じゃいけ)のことです。県道158号小口名古屋線「大野木4丁目交差点」を東へ入ると左に野球場があります。路駐可能ですが堤防沿いに駐車場があるので混んでいる時はこちらをお勧めします。蛇池のほとりにある蛇池神社では4月第2日曜日に母を亡くした子供を助けられた蛇が育てたと言う伝説に基づいた櫃流神事が行われます。
比良城【MAP】 蛇池【MAP】
【最寄の駅】TKJ城北線「比良駅」 【最寄の駅】名古屋市バス「蛇池神社前」「比良」
 
@A
B荒子城―名古屋市中川区荒子4丁目【MAP】
前田利昌の居城。前田氏は美濃安八郡前田から尾張荒子へ移ってきて織田家に仕える土豪となった。この城で生まれた利昌の四男利家(当時犬千代)は1551年から信長に仕え翌年の信長と清洲織田が戦った萱津の戦いで初陣を飾り、今回の稲生の戦いでも活躍、信長の親衛隊赤母衣衆に取り立てられる。しかし信長付の茶坊主拾阿弥(織田信秀の側室の子の説あり)を切り殺したため織田家を追放、浪人となる。
利昌の死後、利家の兄利久が前田家を継いで荒子城主となる。信長は森部の戦いで武功のあった利家の帰参を許し、1569年利久に代わって前田家を継ぐように命じた。
【探索のヒント】@富士権現天満宮が荒子城跡です。遺構は残っていません。境内に入るとA前田利家誕生の城の碑が立っていますが前田城があった前田速念寺で生まれて7歳の時荒子城へ移ってきたとも言われています。菅原道真を祖としたので城主になった永禄12年天満宮を勧進しました。地下鉄東山線「高畑駅」から南へ三つ目の信号を東へ入ります。そして二つ目の辻を左折すると天満宮前にきます。駐車場がないので路駐になりますが住宅地なので御注意を。ここから徒歩で5分ほどの所に駐車場のある荒子観音があるのでそちらを利用してはどうでしょうか。
【駐車場】なし【最寄の駅】地下鉄東山線「高畑駅」
【最寄のバス停】名古屋市バス金山21系「荒子観音」
 
C米野城―名古屋市中村区下米野【MAP】
城主中川弥兵衛は林秀貞の与力で稲生原の戦いでは清須城と那古野城を分断して清須城から信長への補給路を断つ役目を受け持った。しかし戦いは信長の勝利に終わり、米野城は廃城となった。
【探索のヒント】中世城館跡調査報告書(尾張地区)の分布図を頼りに城跡へ行きました。名古屋駅の北西の住宅密集地に城はあったそうで今では全く遺構は残っていません。長松寺の南にある四つ辻付近から北の照福寺辺りまでの48メートル×58メートルの方形の平城でした。
名古屋駅西の太閤通りの「笈瀬通り交差点」を南へ向かうか名古屋駅から鉄道に沿って南へ向かいます。この二つの道が出会うのが米野駅です。ここから一方通行に従って進んで行くと少し道幅が広くなって路駐ができます。そして今来た道の北側が城跡になります。
【駐車場】なし【最寄の駅】近鉄名古屋線「米野駅」
 
D大脇城
 
E竜泉寺城―名古屋市守山区竜泉寺一丁目【MAP】
延暦年間(782〜805)に最澄が熱田神宮におこもりをしている時、竜神のお告げがあり、その言葉どおり多々羅池のほとりで経文を読むと池から竜と共に馬頭観音が現れた。これを本尊として開基したのが竜泉寺の始まりである。
竜泉寺は恵那から多治見、瀬戸と繋がる庄内川に沿った丘陵の端、標高65メートルの地点にある。そのため濃尾平野を見渡せ戦の時には陣地となった。信勝の死後、竜泉寺城は廃城となったが、何かと問題のある「武功夜話」では桶狭間合戦に際し信長は北の備えとして佐々成政と小坂孫九郎ら530余人をここに布陣させたと記している。また小牧長久手の戦いでは小幡城の徳川家康を攻撃するため羽柴秀吉は竜泉寺城に本陣を置いた。家康は秀吉が目と鼻の先に本陣を構えたため小牧城へ引き上げ、これを知った秀吉は竜泉寺城に火をかけた。竜泉寺にはこの時秀吉が掘ったという一夜堀が残っている。
【探索のヒント】東名阪道「小幡西IC」から県道15号名古屋多治見線を多治見方面へ向かいます。一キロ程で竜泉寺入口があり、そこから駐車場へ向かいます。初めて行った時ゆっくりと見て回れなかったので次回報告します。
【駐車場】専用駐車場
【最寄のバス停】ゆとりーとライン「竜泉口」 名古屋市バス「小幡緑地」
 
F篠木
【探索のヒント】
 
G名塚砦―名古屋市西区名塚町4丁目【MAP】
名塚砦は清須城から東へ約4キロの地点に築かれた。その中間にはかつて織田敏定が城主だった小田井城があり、恐らく名塚砦へ物資輸送の中継所としていたのではないだろうか。名塚砦から竜泉寺城までの8キロの間には敵方の比良城・田幡城と信長方の伯父信次の守山城がほぼ等間隔にあり、信長は比良城と田幡城を牽制するためにここへ砦を築いたのであろう。
築城を任された佐久間盛重は秀貞や勝家にたぶらかされた信勝を見限って信長のもとへ来た。この時砦を守った兵は3百と言う。
【探索のヒント】白山神社が砦跡ですが遺構は全く残っていません。道幅の狭い住宅街の中にあるので付近での路駐はしにくいと思います。私は08年正月に行きましたが少し離れたダイヤモンドシティの跡地前に駐車して稲生原古戦場とここを回りました。
【駐車場】なし 【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄鶴舞線「庄内通駅」
【最寄りのバス停】名古屋市バス名駅12号・栄11号系統「庄内公園」
 
@A
B
H稲生原古戦場―名古屋市西区名塚町1丁目
雨で増水した小田井川で信長の援軍が間に合わないと判断した信勝方では柴田勝家、林美作が名塚砦目指して軍を動かした。信長もすぐに7百の兵を連れ清須城をでて小田井川を渡り名塚村の西に7段の構えで布陣した。その南東に柴田隊1千、南に林隊7百が陣取った。正午頃、信長は自軍の半数以上を勝家の陣へ向かわせた。しかし織田家中随一の猛将勝家の兵は強く、山田治部左衛門・佐々孫介が討死した。これにより多くの兵が信長のもとへ逃げ帰った。信長本陣前は織田勝左衛門・織田造酒丞・森可成と槍を持った中間衆40人ほどが固めていた。そこへ勝家隊が襲い掛かった。その時信長が大声で恫喝した。一瞬、敵の動きが止まった。初めて見る「うつけ」ではない真の信長の姿に勝家は勿論その配下の者たちもその場から逃げ去った。
このあと信長軍は美作の陣へ殺到した。信長方の黒田半平が美作と切り合いになった。半平の左手を切り落とした美作が一息ついた時、信長が美作に斬りつけ見事その首をあげた。大将を討取られた林隊は退却を始め、それを追った信長軍が次々と敵の首を挙げていった。その翌日首実検が清洲で行われた。美作以外に謀反を起こして守山城を乗っ取った角田新五の首があった。結局信長方が挙げた首は450にものぼった。
信勝は末森城に秀貞は那古野城にそれぞれ立て篭もった。信長は両城下に火をかけた。これに心を痛めた信長と信勝の実母土田御前は信長の側近村井貞勝・島田秀満を末森城に呼び「私に免じて軽挙妄動した信勝を許してやって欲しい」と信長に伝えてくれと頼んだ。信長は信勝を許した。これに礼を述べるため土田御前に伴われ信勝、勝家、信勝の側近津々木蔵人は僧衣で清須城にやってきた。もう一人の当事者秀貞は厳罰を覚悟していたがこれも許された。
【探索のヒント】県道63号名古屋江南線「名塚町交差点」を西に向かうとすぐに用水路があります。それに添って北へ向かうと庚申塚の碑@稲生合戦戦没者慰霊塔Aがあります。この庚申塚は戦没者を弔ったものといわれているが本来は庚申信仰の名残という事です。残念ながら駐車できるスペースはないので私はここから約3百メートル南東のダイヤモンドシティ跡地前に駐車しました。戦いがあったのは白山神社の東6百メートルにある伊奴神社Bのあたりと言われています。さっきの「名塚町交差点」を東へ入り真っ直ぐ行った左に神社はあります。
●稲生合戦戦没者慰霊塔 【MAP】
 【駐車場】なし 【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄鶴舞線「庄内通駅」
 【最寄りのバス停】名古屋市バス名駅12号・栄11号系統「名塚」
●伊奴神社
【MAP】
 【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄鶴舞線「庄内通駅」
 【最寄りのバス停】名古屋市バス名駅13・栄11号・13系「江向」
 
@A
I桃厳寺―名古屋市千種区四谷通2
尾張上四郡を支配した岩倉城主織田信安が家督を継いだ時、幼少だった為信秀の弟犬山城主信康の補佐を受けた関係もあり、信長とは友好関係にあった。しかし信康の子信清と信安が領地をめぐって争いとなったのをきっかけに信長とも断交した。道三の死後、信安は義龍と共同戦線を張ることになる。これに信勝が加わり稲生の戦いで信安は援軍を出している。そしてほとぼりが冷めた頃、再び信勝は信安を後ろ盾に再度挙兵を計画した。信勝はこれを柴田勝家に話した。勝家は先の戦いで信長の力を見せつけられ反抗する愚かさを実感していた。前回は本当に寛大な処分をしてくれたが次に同じ事が起これば恐らく信勝の命はない。勝家は必死で信勝を説得した。しかし信安の全面協力を取り付けた信勝の自信は異常であった。勝家は信勝を見限った。勝家は前に佐久間盛重がしたように信長のもとに注進に走った。
その日より信長が城から出てこなくなった。やがて信長は大病に罹り重篤な状態であるらしいと言う噂が飛び交いこれが信勝の知る所となった。さらに最早信長は死の淵にあり家督を信勝に譲りたいと言っているという知らせが土田御前のもとに入った。さすがに放って置けないという親心から信勝を伴い清須城へ向かった。土田御前は控えの間で待たされ信勝だけが信長の寝所へ向かった。そして信勝を枕元に呼び寄せた瞬間信長の脇差が信勝を貫いた、というのが劇的なドラマ風ですが実際は清須城を訪れた土田御前と信勝は北の間に閉じ込められ、身の危険を感じた信勝は信長の名を連呼して母の陰に隠れ何とか逃れようとした。しかし信長の近習に取り囲まれ母と引き離された信勝は河尻秀隆によって斬り殺された。
【探索のヒント】信勝の墓は信秀の墓のある桃巌寺にあります。かつて揚輝荘(松坂屋創業者伊藤祐民氏の別荘。伊藤氏の祖先伊藤蘭丸祐道は信長の小姓であった。祐道の父祐広は若江城の戦いで戦死。)の南に信秀塚というものがあり信秀の墓石と3基の五輪塔がありました。信秀没後4百年にあたる昭和26年この墓と五輪塔を桃巌寺に移し大五輪塔(信秀のページで紹介)を建て、墓の下から見つかった骨も一緒に埋葬しました。もとの墓@ですが正面には「前備州太守桃巖道見大禅定門」、向かって右面には「織田武蔵守信行公」、左面に「柴田修理勝家公」とあります。私が確認したのは信秀と信勝の面です。これは信秀の250回忌の1801年に作られました。3基の五輪塔Aは不明で墓石に倣い中央が信秀、右が信勝、左が勝家ではと推測されている。
●桃巌寺 【MAP】:【駐車場】専用駐車場
  【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄名城線「本山駅」
  【最寄りのバス停】名古屋市営バス千種巡回「四谷通2」