@A
B
@林秀貞邸
秀貞は天文23年の信長の村木砦攻めでは、主君の出陣命令に従わず、与力の前田与十郎の荒子城へ退転し、明らかに信長と距離を置き始めていた。それにも関わらず、翌年の清須城奪取後、暗殺された叔父信光に代わり秀貞を那古野城主とした。秀貞を自由に動けるようにして、出方を見ようとしたのではないだろうか。信長が異母兄弟の安房守秀俊(信時?)を伴い那古野城を訪れると、秀貞の弟美作守(通具)はこれを好機と秀貞に信長を自刃に追い込もうと持ちかけた。だが突然のことに決断できない秀貞は「織田家3代に仕えた身として主君を殺めるのは天道に背くことだ」と言い逃れた。だが二日後、挙兵を決断した。
伊予国を本貫とする河野七郎佐衛門尉通兼は稲葉通則の養子となり稲葉姓となる。通兼の次男通村は領地である伊予国越智郡拝志郷から拝志(林)氏に改めた。その後、室町11代将軍足利義澄より与えられた美濃国大野郡・本巣郡に移り土着する。これが尾張林家の祖となる。通村の孫が秀貞である。佐渡守は通村から始まる。ちなみに秀貞の従兄弟の通起の子孫に伊藤博文がいる。以上は『御侍中先祖書系図牒』による。
だが清須城の支城だった田幡城の歴史をみると、築城者越智右馬允信高を林家の祖とし、秀貞はその孫としている。田幡城は信高から子の弥助(八郎左衛門 通安)、秀貞と受け継がれたが、清須織田家が滅びると廃城となった。
【探索のヒント】共に遺構は残っていません。田幡城@には名古屋市立金城小学校が建っています。以前は城跡を示す碑があったようですが見つかりませんでした。田幡城跡地は原田佐忠の別荘地となり、佐忠の勧請により1727年熱田から永泉寺が移転してきました。上杉謙信の肖像を掲げ、翌年には謙信公一五〇回忌法要が行われました。1752年謙信が幼少時養育された寺と同じ名前の林泉寺A【MAP】に改められました。その後、戦火で焼失。跡地は小学校となり、林泉寺はその北西に再建されました。小学校周辺は道が狭く路駐は難しいので、車の場合、休校日に正門前に止めた方がいいかもしれません。
沖村城Bは周囲に堀を巡らした屋敷で、その中には広大な林泉を構えていたという事です。日吉大社、養安寺を奉祀したと言われます。県道62号春日井稲沢線「沖村西交差点」の東にある「トヨタカローラ愛豊店」の南側、松林寺の横にあります。路駐できますが、松林寺の駐車場を使う人もいます。
●田幡城(名古屋市北区金城3−11)【MAP】
【駐車場】なし 【電車】名古屋市営地下鉄名城線「黒川駅」
【バス】名古屋市営バス幹栄1系・名駅15系「城見町」
●沖村城(北名古屋市沖村西ノ郷212【MAP】
【駐車場】路駐 松林寺駐車場  【電車】名鉄犬山線「西春駅」
【バス】市内循環バス西循環2号線「沖村交差点前」
 
@A
A荒子城―名古屋市中川区荒子4丁目【MAP】
前田利昌の居城。前田氏は美濃安八郡前田から尾張荒子へ移ってきて織田家に仕える土豪となった。この城で生まれた利昌の四男利家(当時犬千代)は1551年から信長に仕え翌年の信長と清洲織田が戦った萱津の戦いで初陣を飾り、今回の稲生の戦いでも活躍、信長の親衛隊赤母衣衆に取り立てられる。しかし信長付の茶坊主拾阿弥(織田信秀の側室の子の説あり)を切り殺したため織田家を追放、浪人となる。
利昌の死後、利家の兄利久が前田家を継いで荒子城主となる。信長は森部の戦いで武功のあった利家の帰参を許し、1569年利久に代わって前田家を継ぐように命じた。
【探索のヒント】@富士権現天満宮が荒子城跡です。遺構は残っていません。境内に入るとA前田利家誕生の城の碑が立っていますが前田城があった前田速念寺で生まれて7歳の時荒子城へ移ってきたとも言われています。菅原道真を祖としたので城主になった永禄12年天満宮を勧進しました。地下鉄東山線「高畑駅」から南へ三つ目の信号を東へ入ります。そして二つ目の辻を左折すると天満宮前にきます。駐車場がないので路駐になりますが住宅地なので御注意を。ここから徒歩で5分ほどの所に駐車場のある荒子観音があるのでそちらを利用してはどうでしょうか。
【駐車場】なし 【電車】名古屋市営地下鉄東山線「高畑駅」
【バス】名古屋市バス金山21系「荒子観音」
 
B米野城―名古屋市中村区下米野【MAP】
城主中川弥兵衛は林秀貞の与力で稲生原の戦いでは清須城と那古野城を分断して清須城から信長への補給路を断つ役目を受け持った。しかし戦いは信長の勝利に終わり、米野城は廃城となった。
【探索のヒント】中世城館跡調査報告書(尾張地区)の分布図を頼りに城跡へ行きました。名古屋駅の北西の住宅密集地に城はあったそうで今では全く遺構は残っていません。長松寺の南にある四つ辻付近から北の照福寺辺りまでの48メートル×58メートルの方形の平城でした。
名古屋駅西の太閤通りの「笈瀬通り交差点」を南へ向かうか名古屋駅から鉄道に沿って南へ向かいます。この二つの道が出会うのが米野駅です。ここから一方通行に従って進んで行くと少し道幅が広くなって路駐ができます。そして今来た道の北側が城跡になります。
【駐車場】なし 【電車】近鉄名古屋線「米野駅」
 
@A
BC
C大脇城―豊明市栄町梶田【MAP】
大脇城主として確認できるのは梶川五左衛門秀盛で、兄高秀と共に水野信元に仕えた。秀盛は大脇城を振り出しに、横根城、成岩城の城主となったと伝わる。その後、池田輝政配下となり、朝鮮へ出兵し戦死する。ちなみに高秀は永禄11年の池田城攻めで討死する。秀盛にはもう一人の兄一秀がおり、彼は桶狭間合戦で中島砦を守っていた。天正6年の伊丹で死去。
16世紀後葉に秀盛が転出すると大脇城は廃城となる。発掘調査の遺物を見ると、1654年から1698年の間に大脇村が移転して来たようである。
【探索のヒント】豊明市方面からだと、県道57号瀬戸大府東海線の「豊明インター北交差点」の手前を左折、伊勢湾岸道沿いの道を東へ行きます。愛知県警豊明分駐所@の前に大脇城の碑Aが建っています。城跡は伊勢湾岸道に南北に分断されています。本丸というべき梶川氏の館は南側Bにありました。北側Cには堀跡が発掘されました。駐車場はもちろんありませんが、路駐できる道幅はあります。
【駐車場】なし 路駐可 【電車】名鉄名古屋本線「豊明駅」
【バス】「大脇」豊明市ひまわりバス1号Aコース
 
D篠木荘
篠木荘は34ヶ村からなるが通常篠木33ヶ村と呼ぶ。庄内川の右岸、春日井市東部から小牧市にわたる広い地域で、信長の篠木三郷はこの中にあったことは確かだが具体的な場所は不明である。
篠木荘は近衛天皇が1144年生母美福門院(藤原得子)のために設けた荘園で、それ以前分散していた所領をこの時に一円所領化した。ただその中には国衙領があり、東大寺領や春日部荘と隣接していたのでその範囲は明確なものではなかった。その後、後白河法皇→長講堂→宣陽門院覲子内親王(後白河法皇の三女)→鎌倉幕府(承久の変のため)→宣陽門院→後深草上皇(後嵯峨院が管領)→中宮東二条院(藤原公子)→円覚寺(北条貞時から寄進)→広義門院(後伏見天皇女御)と所有者の変遷があった。
篠木荘には篠木合宿という風習が古代から明治初年まで続いていた。これは33ヶ村がそれぞれ馬之塔を寺社に奉納する儀式だが、古代から永禄年間までは熱田神宮、それ以降は龍泉寺へ奉納した。起源としては@この地に縁のあったヤマトタケルの霊を慰めるため、A桶狭間合戦に加わった篠木の荘民が戦勝を記念しての2説がある
【探索のヒント】春日井市東部から小牧市東部(野口、大山、大草、下原、関田、城内、名栗、下市場、神領、下大富、足振、久木、神明、出川、松本、外原、玉野、高蔵寺、白山、庄名、上野、和泉、一色、神尾、明知、西尾、迫間、内津、桜佐、牛毛、野田)を指します。
 
@A
BC
DE
FG
【寄り道】上条城―春日井市上条町2丁目【MAP】
1218年小坂孫九郎光善が築いた。光嘉は木曽義仲四天王一人今井四郎兼平の孫にあたる。『翁伝』(津田応助・著)によれば「光嘉は故あって、(新潟県佐渡郡)男坂(オサカ?)の地を一族ならびに家臣の河部、柴田、作間等を伴って去り、尾張国春日郡に来」たらしい。
この地に居を構えた小坂氏は武士でありながら、荒れた土地を開墾、水路を開いて地域の農業の振興に代々努めた。たとえば応永年間(1394−1428)、林姓に改めた8代重之は庄内川から内津川へ上条用水、高貝(高ヶ井)用水を作り、13代盛重は信長に領地を差し出し、帰農して上条原の土地開発に専念した。14代重登は小牧長久手の戦いで池田恒興、森長可隊を駐留させたうえ道案内をし、戦いから帰る秀吉を改修した屋敷に投宿させた褒美として、小牧街道57ヶ村の総代名主に任じられた。1669年重喜は上条用水の改修を関田村庄屋と行っている。このように小坂家(林家)を中心とした村落共同体が形成されていった(『郷土誌かすがい・中世の城館 春日井市周辺(藤本利治教授)』)。
【探索のヒント】JR中央本線「春日井駅」の南300メートルの住宅街が城跡です。私が行ったのが2013年1月3日ですが、この何年か前の写真と比べてかなり荒れた感じがします。周辺は生活道路なので、駐車場の横なら車を止めてもかろうじて邪魔にならないと思います。
駐車場わきに城跡を示す碑@があります。城の中心部は入ることができないので、外からの見学になりますが、本丸周囲の堀跡ABとその内部の石積みのある土塁Cは確認できます。本丸の土塁Dの北西には「人呼びの丘」といわれる櫓台跡Eが残っています。ここには祖今井兼平と祖神磯城津彦命を祀る祠がありました。本丸のすぐ西側Fからバス通りG辺りが三の丸です。稲生が原の戦いの時に、信勝勢の篠木庄侵入に備えて佐久間信盛が詰めてた場所で、佐久間屋敷とも言われています。この戦いの後も年末まで信盛は上条城と南西にある吉田城(柏井城)に駐留しました。
【駐車場】なし 路駐 【電車】JR中央線「春日井駅」
【バス】かすがいシティバス南部線「上条町2丁目」
 
@A
BC
DE
【寄り道】和爾良神社と大光寺―春日井市上条町8丁目【MAP】
社伝によれば現朝宮町にあった和爾良神社の荒廃を見た小坂光善は、上条村の氏神にするため1218年現在の場所に移し和爾良白山神社を創建したという。それに伴い別当寺であった大光寺も同所へ移された。大光寺の創建は不明の天台宗寺院である。小牧長久手の戦いで殿軍の堀尾吉晴軍に付近の地侍達が集中砲火を浴びせた。これに怒った吉晴が手当たり次第に放火したたため、和邇良神社共々大光寺も焼けてしまった。
『延喜式神名帳』は和爾良神社は尾張国山田郡にあったとする。だが朝宮町は当時春日部郡なので、ここ鎮座していたとする事が疑問視されている。和爾良神社があったとされる場所には、白山比盗_社から菊理姫命が勧請され朝宮白山神社が創られた。
【探索のヒント】県道25号春日井一宮線「下条町交差点」から東の県道30号関田名古屋線に入ります。右に緑の屋根の建物を見つけたらそこを右折します。しばらく進むと左に神社の鳥居と参道@があり、その先に本殿Aがあります。駐車場が分からず、JR中央線「春日井駅」南口へ行く道に路駐しました。もう少し北へ行って、左にレンガ色のマンションの手前を左へ入ると大光寺の墓地があり、そこに車を止められます。
和爾良神社の隣にあるのが大光寺本堂Bです。その前の堂内には元三大師の姿を写し出した御影向石を祀る厨子Cがあります。上条城の東には大光寺に通じる大光寺道Dが通っていて、現在はそれを示す道標Eがあります。なお道標の横にある石仏と五輪塔は、春日井駅への引き込み線敷設工事の際移したものであって、上条城とは関係ありません。
【駐車場】専用駐車場
【バス】かすがいシティバス南部線「上条町中」「上条町南」
 
@A
【寄り道】泰岳寺―春日井市上条町10丁目【MAP】
林家11代彦右衛門尉重緒は諸国遍歴で上条村を訪れた臨済宗妙心寺派最大門閥の東海派の仁済宗恕禅師(本覚霊照禅師)に帰依し、1486年禅師を開山とし泰岳寺を創建した。
仁済宗恕は現在の美濃加茂市出身で土岐氏の支流蜂屋氏の出自である。悟渓宗頓禅師に師事し、8代美濃守護土岐成頼の帰依を受け瑞林寺を開基する。泰岳寺の住職となったのは52歳でその12年後、1498年大徳寺住職となる。その後、犬山瑞泉寺を経て1519年瑞林寺で没する。
【探索のヒント】県道30号関田名古屋線の「下条町交差点」の南の歩道橋のある交差点を東へ向かってすぐ左に泰岳寺@はあります。象徴的な赤い山門は、名古屋城三の丸の門(赤門)を移築したものです。泰岳寺は林家の菩提寺で歴代の住職の墓所の前に林宗家の墓Aがあります。
【駐車場】専用駐車場 【電車】JR中央線「春日井駅」
【バス】かすがいシティバス南部線「泰岳寺東」
 
@A
【寄り道】吉田城―春日井市下条町3丁目【MAP】
吉田城は小坂氏の城といわれる。1487年(長享元)から始まった室町幕府による六角討伐において、1491年(延徳3)尾張守護斯波義寛に出陣命令が下った。守護代織田敏広・寛広は義寛に従い近江に着陣した。その折、与力として加わっていた将軍義尚の御走衆小坂孫四郎の目覚ましい働きが敏広の目にとまり、敏広は孫四郎を50貫文で召抱えることにした。この時、孫四郎と尾張へ行ったのが佐々木氏の家臣余語右衛門大夫盛政で、これが佐々氏の始まりという説がある。尾張帰国後、敏広は新たな蔵入地となった柏井庄と篠木庄の代官に孫四郎を充て、弟弾正左衛門常寛の配下とした。
孫四郎の後を継いだ吉俊には二人の子供、久蔵正氏と源九郎正吉がいたが、清須方との戦いに従軍して、正氏(『信長公記』にある小坂井久蔵)は戦死、正吉も復帰できないほどの深手を負った。正氏には子がなかったので小坂氏はここに断絶することになった。
吉田城には母が小坂氏出身という縁から前野孫九郎宗吉が幼少時より暮らしていた。1526年生まれの宗吉は16歳の時、佐々政次・孫助兄弟と共に織田信秀に従い小豆坂で今川軍と戦う。6尺といわれる宗吉が穂先2尺5寸の長槍を振い奮戦する姿は織田軍を奮い立たせた。23歳の時、犬山城の織田信安清が篠木・柏井の横領を企て、宗吉に接近してくるとすぐに信長に通報している。
稲生ヶ原の戦い前、信勝側に寝返った岩崎城の丹羽勘助が佐々成政と宗吉に接近してきた。これを察知した信長は二人に登城を命じた。成政が腹痛を理由に従わなかったのに対し、宗吉は誘いを受けたが成政も自分も恩顧のある信長から離反するわけがないと伝えた。これを聞いた信長は二日後、宗吉に成政を疑ったことを詫び、佐久間信盛を派兵するので篠木・柏井を共に守ること、領地を加増したうえで宗吉に小坂家を継がせること書いた手紙を送っている。
小坂氏を継いだ宗吉はその後、桶狭間合戦・尾張統一戦・三河梅ヶ坪城攻め・西美濃攻めなどに活躍、1567年より伊勢攻めに専念する。織田信雄が北畠を継いで元服した時に傅役となり「雄」の与えられ雄吉と改名した。
小坂家と前野家の関係は図で表せば分かりやすいが文字に起こすとややこしい。しかも関係系譜を突き合わせると世代が違っていたり、抜けていたり、一人二役だったりする。ざっと相関関係を書くと前野俊氏が岩作城の今井家の養子となり、その孫行宗が小坂孫四郎の猶子となる。その子吉俊には正吉・正氏・妙善(女)の子供がいた。妙善は前野宗康に嫁ぎ、宗吉・長康・勝長をもうける。妙善は宗吉と実家の吉田城に住んでいた、という風になる。
【探索のヒント】王子製紙の南にある下条公園@の南東隅に碑Aが建っています。城は小牧長久手合戦後、廃城となり下条村の開拓がおこなわれました。下条公園の南、西がきれいに区画されているのが条里制の遺構です。
【駐車場】なし 【電車】JR中央線「勝川駅」
【バス】かすがいシティバス南部線「南部ふれあいセンター」
【寄り道】常泉院―春日井市下条町【MAP】
由来書によると吉田千代太郎(吉田城から吉田姓となる、千代太郎は雄吉の幼名)が築城の時に、鬼門鎮護のため常行堂を再建、その後秋葉大権現を祀り放亀山常泉院と改める。放亀山の亀山は孫九郎の号である。ここには四つの寺があったので「四坊」「四坊島」といわれた。
【探索のヒント】県道30号関田名古屋線「中切交差点」から北へ行った2つ目の辻を西へ入るとすぐにあります。車を止めるスペースがないので、止めたい場合は右へ曲がった先にある八幡社まで行って下さい。
【駐車場】なし
【バス】かすがいシティバス南部線「南部ふれあいセンター」
 
@A
【寄り道】比良城―名古屋市西区比良3丁目
比良城主は佐々成政。その後信長直属のエリート集団である黒母衣衆に取り立てられ、北国方面軍団長柴田勝家の与力府中三人衆の一人だった成政も代々仕える織田家の行く末に不安を持った一人だった。その家老の井口太郎左衛門は信長謀殺の機会を窺っていた。
この年の冬、比良城の南にある「あまが池」のほとりを歩いていた又左衛門は「目が爛々と輝き、真っ赤な掌のような舌をチョロチョロ出す鹿のような顔をした大蛇」が堤の上に横たわっているのを目撃した。この話は近隣の村々に広まっただけでなく清須城にももたらされた。早速信長は又左衛門を呼び寄せ目撃談を聞いた。そしてその正体を暴いてやると言ってあまが池にやってきて、村人を総動員して池の水を汲み出させた。なかなか下がらない水位に苛立った信長は脇差を咥え池に飛び込んで自分で探し始めた。結局大蛇を見つけることはできなかった。
この時この地の領主である成政は病気と言って比良城にいた。池から上がった信長に太郎左衛門は体が冷え切っているだろうから是非城でお休み下さいと申し出た。「成政の見舞いも兼ねて、では城に行こうか」と話に乗った信長が城へ入ったところを取り囲んで、亡き者にすると言うのが太郎左衛門の計画であった。しかし信長はこの申し出を断り、さっさと清須城へ引き上げた。また、信長を舟で池の中ほどまで連れ出して池に落としとどめを刺すという計画も練っていた。
佐々氏の出自には佐々木氏または菅原氏を祖とするとする説がある。上総国佐々庄出身の佐々氏が尾張に移り織田家の家臣になったとするのが一般的である。成政の父盛政(成宗)は井関城を本拠にしてたが比良城を築き成政と移り、井関城は成政の兄隼人正(政次)に譲った。永禄3年桶狭間合戦で隼人正が戦死すると井関城は廃城、家督を継いだ成政の比良城が本拠となった。
【探索のヒント】比良城跡には現在光通寺があります。県道158号小口名古屋線「比良3丁目交差点」を東名阪自動車道に沿って東へ向かいます。右に比良駅の表示がある辻を左折、「大洋機工」の手前が光通寺です。駐車場は5分ほどの所にあるそうですが私は蛇池近くに車を停めて自転車で行ったので場所を確認しませんでした。住宅街なので路駐はできません。2008年正月時点で大掛りな改修工事をしていたので本堂の写真は撮れませんでした。墓地に@佐々成政城址の碑と新しい「成政寺庭月道閑大居士」の宝筐印塔があります。
あまが池は洗堰緑地内蛇池公園(西区山田町比良)の
A蛇池(じゃいけ)のことです。県道158号小口名古屋線「大野木4丁目交差点」を東へ入ると左に野球場があります。路駐可能ですが堤防沿いに駐車場があるので混んでいる時はこちらをお勧めします。蛇池のほとりにある蛇池神社では4月第2日曜日に母を亡くした子供を助けられた蛇が育てたと言う伝説に基づいた櫃流神事が行われます。
●比良城【MAP】 ●蛇池【MAP】
【電車】TKJ城北線「比良駅」
【バス】名古屋市バス「蛇池神社前」「比良」
 
@A
BC
【寄り道】下大留城―春日井市下大留町1丁目
下大留城は昭和7年発行の「高蔵寺町誌」に「日比野六太夫居住の址と伝う」と載ったのが初出で、江戸時代の地誌類や村絵図にも記載がなく歴史的経緯は不明と春日井市文化課から回答をいただいた。ただ日比野六太夫屋敷跡というのは1841年(天保12)の下大留村絵図にある。昭和中ごろまでは遺構らしい竹林が残っていたが、宅地化により破壊されて今は残っていない。
他の川並衆同様、秀吉配下となった六太夫はその出世に貢献した。墨俣築城では手勢250を率いて参加、その内大工棟梁は木曽川下流の小越から、それ以外は川を下って来た材木を草井で引き上げ、墨俣の対岸天王森を目指した。
日比野家と堀一つで向い合って谷口友之進の屋敷があった。ここも開発前は土塁が残っていた。日比野家と並ぶ郷士であった。
【探索のヒント】住宅地なので路駐になりますが、道幅が広い場所もあるのでそこへ止めました。春日井市の「道風くんの春日井まっぷ」によると県道205号下半田川春日井線「神領町東交差点」を南へ入り、最初の十字路を左折、墓地を過ぎた左の一角@【MAP】が下大留城となっています。その向かいの大きな家が日比野家Aですが、六太夫とは全く関係ありません。その手前の十字路のの角に日比野家祖神の祠B【MAP】があります。さっきの日比野家を左折して、「喫茶光」の北側の道を鉄塔の方へ行った右側に石碑と祠C【MAP】があります。このお宅が谷口友之進の屋敷跡といわれています。
【駐車場】なし 【電車】JR中央本線「神領駅」
【バス】かすがいシティバス東環状線「大留町1丁目」
 
@A
BC
【寄り道】大留城―春日井市下大留町6丁目【MAP】
1546年村瀬氏が築城、子の作右衛門が城主となり、篠木荘を支配下に置いた。1549年信秀に敵対した犬山・織田信清と通じていると疑われたこともあったが、蜂須賀党、前野党と信秀・信長に忠義をつくした。小牧長久手合戦では家康側についていた作右衛門だったが、秀吉に5万石加増を提示され寝返った。三河攻撃の池田恒興隊に篠木衆・柏井衆を率いて参加するが戦死してしまう。その後、大留城は廃城となった。
村瀬氏の祖は宇多源氏佐々木盛綱といわれる。その流れをくむのは村瀬左馬助で、その子重郷は信長・信雄・家康に、良善は信長に仕えた。本能寺の変で討死した村瀬虎はこの一族といわれる。
【探索のヒント】九州大学の服部英雄教授の『昭和30年代・濃尾平野と周辺の中世城館』によれば、庄内川と井高川の合流する西の一角@が城跡だったようです。2013年正月と3月中旬に行きましたが、どんどん破壊(開発)が進んでいます。子安神社に城跡を示す碑Aがあります。神社裏の平地は空堀Bで昔は東西に延びていました。神社が周囲より高くCなっているのは、曲輪であることを示しているようです。田徹氏は主郭は二つの川が合流している角ではなかったかという見解を出しています。
【駐車場】駐車スペースあり 【電車】JR中央本線「神領駅」
【バス】かすがいシティバス東環状線「東大留町」
 
@A
【寄り道】梶田出雲守繁政の墓―春日井市下市場4丁目【MAP】
梶田氏は武田大膳大夫信賢より6代目の加治田民部少輔政直から始まる。政直は美濃国加治田村に住んでいたが、嫡男隼人正直繁は尾張国篠木荘下市場へ居を移した。
『前野文書』『太閤記』『梶田家に残る戦記』には、墨俣砦築城の時、秀吉配下として蜂須賀党や前野党、柏井衆と共に活躍したことが記されている。その嫡男が出雲守繁政である。繁政は豊臣秀頼に仕えていたが、関ヶ原合戦では福島正則隊に属し、大谷吉継・宇喜多秀家の陣へ突入して大将首を三つ挙げる活躍をし家康に称賛された。この時本来の武田菱から盆に乗った首級をイメージした家紋に替えるように言われ、これを機に加治田から梶田へ姓を改めた。繁政は正則失脚後、尾張藩主徳川義直の誘いを断って下市場で隠居。代わりに子の新助政村が義直に仕えた。
【探索のヒント】JR中央線「神領駅」北口から県道508号内津勝川線「金ヶ口町交差点」へ行きます。「下市場町6交差点」を過ぎて、二つ目の辻を左へ入った住宅街の駐車場脇に大小2基の五輪塔があります。大きい方@には銘文が残っていて繁政のものと分かりました。小さい方は春日井市にお伺いしましが、全く誰のものかは不明です。
【駐車場】なし 【電車】JR中央本線「神領駅」
【バス】かすがいシティバス東環状線「神領駅」
 
E名塚砦―名古屋市西区名塚町4丁目【MAP】
名塚砦の築城を命じられた佐久間大学(盛重)は信秀の葬儀では信勝付の家老であった。しかし家督をめぐり内紛が起きると、織田家に忠義を尽くす者として、嫡流の信長を盛り立てることを決断した。猛者の名にふさわしい戦国武士で信長にとって頼もしい存在であった。そんな盛重だからこそ信長はこの危険な仕事を任せたのである。
砦を構える場所は後方に比良城と小田井城はあるが背後の庄内川が増水すれば、敵地に孤立してしまう可能性があった。だが信長があえてここに砦を築こうとしたのは、敵が攻めたくなる状況を作り家中のゴタゴタをさっさと片付けるのが目的だったのかもしれない。そのために武勇優れる盛重を抜擢したのであろう。盛重は兵3百を以てこの任務にあたり、見事敵の猛攻を凌いで信長に勝利をもたらした。4年後、盛重は再び最前線で今川の大軍を迎え撃つ役割を担い、華々しく戦場に散った。
【探索のヒント】白山神社が砦跡ですが遺構は全く残っていません。道幅の狭い住宅街の中にあるので付近での路駐はしにくいと思います。私は08年正月に行きましたが少し離れたダイヤモンドシティの跡地前に駐車して稲生原古戦場とここを回りました。
【駐車場】なし 【電車】名古屋市営地下鉄鶴舞線「庄内通駅」
【バス】名古屋市バス名駅12号・栄11号系統「庄内公園」
 
@A
B
F稲生原古戦場―名古屋市西区名塚町1丁目
雨で増水した小田井川で信長の援軍が間に合わないと判断した信勝方では柴田勝家、林美作が名塚砦目指して軍を動かした。信長もすぐに7百の兵を連れ清須城をでて小田井川を渡り名塚村の西に7段の構えで布陣した。その南東に柴田隊1千、南に林隊7百が陣取った。正午頃、信長は自軍の半数以上を勝家の陣へ向かわせた。しかし織田家中随一の猛将勝家の兵は強く、山田治部左衛門・佐々孫介が討死した。これにより多くの兵が信長のもとへ逃げ帰った。信長本陣前は織田勝左衛門・織田造酒丞・森可成と槍を持った中間衆40人ほどが固めていた。そこへ勝家隊が襲い掛かった。その時信長が大声で恫喝した。一瞬、敵の動きが止まった。初めて見る「うつけ」ではない真の信長の姿に勝家は勿論その配下の者たちもその場から逃げ去った。
このあと信長軍は美作の陣へ殺到した。信長方の黒田半平が美作と切り合いになった。半平の左手を切り落とした美作が一息ついた時、信長が美作に斬りつけ見事その首をあげた。大将を討取られた林隊は退却を始め、それを追った信長軍が次々と敵の首を挙げていった。その翌日首実検が清洲で行われた。美作以外に謀反を起こして守山城を乗っ取った角田新五の首があった。結局信長方が挙げた首は450にものぼった。
信勝は末森城に秀貞は那古野城にそれぞれ立て篭もった。信長は両城下に火をかけた。これに心を痛めた信長と信勝の実母土田御前は信長の側近村井貞勝・島田秀満を末森城に呼び「私に免じて軽挙妄動した信勝を許してやって欲しい」と信長に伝えてくれと頼んだ。信長は信勝を許した。これに礼を述べるため土田御前に伴われ信勝、勝家、信勝の側近津々木蔵人は僧衣で清須城にやってきた。もう一人の当事者秀貞は厳罰を覚悟していたがこれも許された。
だが23年後の1580年、この一件を信長から糾弾され、追放処分となる。
【探索のヒント】県道63号名古屋江南線「名塚町交差点」を西に向かうとすぐに用水路があります。それに添って北へ向かうと庚申塚の碑@稲生合戦戦没者慰霊塔Aがあります。この庚申塚は戦没者を弔ったものといわれているが本来は庚申信仰の名残という事です。残念ながら駐車できるスペースはないので私はここから約3百メートル南東のダイヤモンドシティ跡地前に駐車しました。戦いがあったのは白山神社の東6百メートルにある伊奴神社Bのあたりと言われています。さっきの「名塚町交差点」を東へ入り真っ直ぐ行った左に神社はあります。
●稲生合戦戦没者慰霊塔 【MAP】:【駐車場】なし
 【電車】名古屋市営地下鉄鶴舞線「庄内通駅」
 【バス】名古屋市バス名駅12号・栄11号系統「名塚」
●伊奴神社
【MAP】:【駐車場】専用駐車場
 【電車】名古屋市営地下鉄鶴舞線「庄内通駅」
 【バス】名古屋市バス名駅13・栄11号・13系「江向」
 
@A
BC
D
G竜泉寺城―名古屋市守山区竜泉寺一丁目【MAP】
延暦年間(782〜805)に最澄が熱田神宮におこもりをしている時、竜神のお告げがあり、その言葉どおり多々羅池のほとりで経文を読むと池から竜と共に馬頭観音が現れた。これを本尊として開基したのが竜泉寺の始まりである。
竜泉寺は恵那から多治見、瀬戸と繋がる庄内川に沿った丘陵の端、標高65メートルの地点にある。そのため濃尾平野を見渡せ戦の時には陣地となった。信勝の死後、竜泉寺城は廃城となったが、何かと問題のある「武功夜話」では桶狭間合戦に際し信長は北の備えとして佐々成政と小坂孫九郎ら530余人をここに布陣させたと記している。また小牧長久手の戦いでは小幡城の徳川家康を攻撃するため羽柴秀吉は竜泉寺城に本陣を置いた。家康は秀吉が目と鼻の先に本陣を構えたため小牧城へ引き上げ、これを知った秀吉は竜泉寺城に火をかけた。竜泉寺にはこの時秀吉が掘ったという一夜堀が残っている。
【探索のヒント】竜泉寺@の本堂裏にある宝物館となっている摸擬天守Aは祝祭日のみ開館しています。柵から外を見て見ると堀跡Bらしきものや平に均した跡Cが見られます。展望台からは小牧山城Dがハッキリ見ることができます。
【駐車場】専用駐車場
【バス】ゆとりーとライン「竜泉口」 名古屋市バス「小幡緑地」
 
@A
H桃厳寺―名古屋市千種区四谷通2
尾張上四郡を支配した岩倉城主織田信安が家督を継いだ時、幼少だった為信秀の弟犬山城主信康の補佐を受けた関係もあり、信長とは友好関係にあった。しかし信康の子信清と信安が領地をめぐって争いとなったのをきっかけに信長とも断交した。道三の死後、信安は義龍と共同戦線を張ることになる。これに信勝が加わり稲生の戦いで信安は援軍を出している。そしてほとぼりが冷めた頃、再び信勝は信安を後ろ盾に再度挙兵を計画した。信勝はこれを柴田勝家に話した。勝家は先の戦いで信長の力を見せつけられ反抗する愚かさを実感していた。前回は本当に寛大な処分をしてくれたが次に同じ事が起これば恐らく信勝の命はない。勝家は必死で信勝を説得した。しかし信安の全面協力を取り付けた信勝の自信は異常であった。勝家は信勝を見限った。勝家は前に佐久間盛重がしたように信長のもとに走った。
その日より信長が城から出てこなくなった。やがて信長は大病に罹り重篤な状態であるらしいと言う噂が飛び交いこれが信勝の知る所となった。さらに最早信長は死の淵にあり家督を信勝に譲りたいと言っているという知らせが土田御前のもとに入った。さすがに放って置けないという親心から信勝を伴い清須城へ向かった。土田御前は控えの間で待たされ信勝だけが信長の寝所へ向かった。そして信勝を枕元に呼び寄せた瞬間信長の脇差が信勝を貫いた、というのが劇的なドラマ風だが実際は清須城を訪れた土田御前と信勝は北の間に閉じ込められ、身の危険を感じた信勝は信長の名を連呼して母の陰に隠れ何とか逃れようとした。しかし信長の近習に取り囲まれ母と引き離された信勝は河尻秀隆によって斬り殺されたという。
信勝はその判物から信勝→達成→信成と名前を変えていることが分かる。信勝は天文20年9月20日のものが初見で、すでに信秀が執務できない状態になっていたのでそれに代わって勘十郎信勝名で熱田座主御坊に発給している。達成名は天文23年11月22日付桂甫広済寺宛のもので勘重(十)郎達成とある。ここに現れる「達」の文字が清須織田家の通字であることから、同年4月に滅んだ織田大和守家と何らかの関連があるのではないかと思われている。そして改名は天文22年7月22日の信長の清須攻めには信勝も加わっているのでその後のことである。次に達成が現れるのが天文24年5月の『明叔慶浚等諸僧法語雑録』にある「尾陽之甲族藤氏織田霜台御史達成公」である。この「霜台御史」の解釈が「霜台(信秀)御子達成」と「霜台御史(弾正台を表す唐名。すなわち弾正忠)達成」に分かれている。後者なら信勝が織田弾正忠家の当主と見做されていたということである。またそれを補完するのが『定光寺年代記』の「龍泉寺織田弾正忠、城ノ鍬始在之」と『信長公記』の「御舎弟勘十郎殿、竜泉寺を城に御拵なされ」の一節である。弘治3年4月『斎藤高政書状』、11月25日加藤図書助宛の判物で「武蔵守」、「達」を弾正忠家の通字「信」に変えた「武蔵守信成」の名が現れる。現存する文書では「信成」が最後の名前であるが諸系図では「武蔵守信行」となっている。
【探索のヒント】信勝の墓は信秀の墓のある桃巌寺にあります。かつて揚輝荘(松坂屋創業者伊藤祐民氏の別荘。伊藤氏の祖先伊藤蘭丸祐道は信長の小姓でした。祐道の父祐広は若江城の戦いで戦死。ちなみに父も蘭丸。)の南に信秀塚というものがあり信秀の墓石と3基の五輪塔がありました。信秀没後4百年にあたる昭和26年この墓と五輪塔を桃巌寺に移し大五輪塔を建て、墓の下から見つかった骨も一緒に埋葬しました。もとの墓@ですが正面には「前備州太守桃巖道見大禅定門」、向かって右面には「織田武蔵守信行公」、左面に「柴田修理勝家公」とあります。私が確認したのは信秀と信勝の面です。これは信秀の250回忌の1801年に作られました。3基の五輪塔Aは不明で墓石に倣い中央が信秀、右が信勝、左が勝家ではと推測されている。
桃巌寺 【MAP】:【駐車場】専用駐車場
【電車】名古屋市営地下鉄名城線「本山駅」
【バス】名古屋市営バス千種巡回「四谷通2」
 
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