松永久秀の最期
経過
天正5(1577)年8月17日松永久秀久通大坂本願寺への付城である天王寺砦を勝手に退去して@信貴山城に篭った。上杉謙信七尾城を攻略後、柴田勝家らの率いる北陸方面軍を手取川で退け、さらに南下する気配を見せたのでそれに呼応したらしい。しかし謙信はそれ以上進撃はしなかった。再び運に見放された久秀はもはや織田信長に降伏することはしなかった。再三にわたる降伏勧告に応じない久秀に対し織田信長織田信忠を総大将に信貴山城への総攻撃を命じた。信忠が到着する前の10月1日支城のA片岡城への攻撃が開始された。3日到着した信忠は本陣をB薬師寺に置いて信貴山城下を焼き払い10日の夜になり信貴山城への総攻撃を命じた。11日戦国の梟雄松永久秀は子の久通と共に自決した。
この後大和は畿内を中心に働く
明智光秀に委ねられて筒井順慶はその与力として動いていた。そして天正8年になってC郡山城順慶が移りようやく大和は順慶により実質支配されることになった。
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