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@信貴山城―生駒郡平群町信貴山【MAP】
二度目の久秀の裏切りにも信長は降伏を勧告した。猜疑心の強い信長がここまで久秀に譲歩するのは義父・斎藤道三の姿をダブらせていたのかもしれない。久秀は風流人としても有名で多くの名物茶器を所有していた。その中でも「平蜘蛛」の茶釜は信長がそれを差し出せば久秀を助命するといったほどの名物であった。これに対し久秀の答えが「平蜘蛛」に爆薬を詰めて自爆することだった。一般に息子の久通も久秀とここで死んだことになっているが「多門院日記」によると久秀が信貴山から退去後、天正3年久通は十市遠勝の娘「御なへ」を娶ることで竜王山城を手に入れ、同年12月柳本(楊本)城に入っている。そして信貴山上落城の直前の天正5年9月27日久通が城内で殺害されたという。
信貴山城は天文5年(1536)に木沢長政によって築かれた。木沢長政は河内守護畠山義宣の被官だったが管領細川晴元に寝返った。義宣は長政の飯盛山城を攻めるが一向宗の協力を取り付けた長政により逆に滅ぼされてしまった。信貴山城を拠点に大和の有力国人越智氏を制し、かつては大和守護として巨大勢力を誇った興福寺も長政に降伏した。しかし天文11年長政は河内太平寺の合戦で戦死してしまい、信貴山城も廃城となってしまった。その12年後三好長慶の命を受けた松永久秀が大和に侵入、再び信貴山城を拠点にして大和を制圧していった。久秀は標高433メートルの信貴山雄岳に本丸を構え東西550メートル南北700メートルに渡って郭を形成していった。
【探索のヒント】信貴山朝護孫子A空鉢堂に碑@が建っています。直接空鉢堂へ行く道から右へ外れて山道を進むと多くの郭を見ることができます。ここは時間をかけてゆっくり回りましょう。信貴山には専用駐車場があるのでそこで停めてもいいですしJR「王子」からバスも出ています。
【駐車場】信貴山専用駐車場 【最寄りの駅】近鉄西信貴ケーブル「高安山駅」
【最寄りのバス停】奈良交通バス「信貴大橋」
 
A片岡城―北葛城郡上牧町下牧【MAP】
森秀光・海老名友清が守る片岡城攻めに活躍したのは細川藤孝の子供與一郎(15歳)と頓五郎(13歳)だった。両者が真っ先に攻め込むのを合図に織田軍は城へ総攻撃を仕掛けた。城方も防戦するが鉄砲の弾も矢も尽きて切り合いになった。細川兄弟の活躍に触発されるように細川軍は城主を含む150人あまりを討取り、明智光秀もまた奮戦して多くの敵を討取った。信長は細川兄弟の働きを大いに褒めて感状を与えた。
片岡城は興福寺一乗院の荘官片岡氏の城であった。大和の二大勢力筒井氏と越智氏との間で片岡氏は懸命に生き残りを図った。そして久秀の大和侵入により片岡城は落城してしまった。ただ没落しても片岡氏は筒井氏、羽柴秀長に仕え家名は残した。
【探索のヒント】国道168号線沿いにあるJR和歌山線「畠田」駅の南側の信号を東へ入ります。葛下川を渡り、直進すると左手に畑が広がりその向こうに丘があります。そこが片岡城の主曲輪です。空堀をはさんで東にもうひとつ曲輪があります。この二つは戦国初期のものでここより南にある二つの曲輪跡が松永時代のものと考えられています。車で来るにはちょっと邪魔になるので橋のそばの土手に路駐しました。駅からは大体20分ぐらいでしょうか。
【駐車場】なし 【最寄りの駅】JR和歌山線「畠田駅」
【最寄りのバス停】奈良交通バス12系統「畠田八丁目」
 
B薬師寺―奈良市西ノ京町457【MAP】
久秀謀反に信長は宮内卿法印を信貴山城に派遣して理由を問い質したが確たる返答はなかった。信長は久秀の人質の男子(12、3才)二人を六条河原で処刑した。9月27日総大将の信忠は岐阜を出発、28日・29日安土の丹羽長秀邸で泊まり、10月1日安土を出て3日薬師寺に本陣を置いた。その日北陸遠征軍が合流した。信忠は城下に火を放たせた。その間松井夕閑を遣わして久秀に降伏を求めたが無駄であった。10日夜になって総攻撃が命じられた。「信長公記」には10年前の10月10日久秀が東大寺大仏殿を焼討ちした日でまさに仏罰が下ったとしている。
【探索のヒント】薬師寺に陣を張ったというのは「織田信長 生涯すべての戦い」を参考にしました。法隆寺に陣を張ったいう説もあります。拝観料は大人500円です。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】近鉄奈良線「西ノ京駅」
【最寄りのバス停】奈良交通バス97系統「薬師寺駐車場」
 
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C郡山城―大和郡山市城内町【MAP】
大和守護原田直政が戦死しても大和国全体の支配権を得られなかった順慶だったが久秀のように信長に逆らうことなく着実に大和の国人をまとめて行った。そして久秀が滅んでようやく大和の全権を委任された。そこで順慶は筒井城より南都に近い郡山に本拠を移すことにした。築城にあたり石垣には石地蔵や五輪塔などを利用しているのが信長の二条城を連想させる。順慶は天守を築いたが後の城主豊臣秀長によって壊されその後再建されることはなかった。
郡山の地は郡山衆という平安時代に始まる土豪によって支配されていた。室町時代筒井氏と越智氏の二大勢力の台頭で一枚岩だった郡山衆が分裂、争うことになった。やがて筒井氏が戦いを制すると郡山衆は再結束して筒井氏に従った。順慶の死後、定次が跡を継いだが伊賀へ移封され秀長が城主となった。豊臣の治世が終わると徳川家の譜代の大名が入城、明治維新を迎えた。
【探索のヒント】駐車場がどこにあるのかわからず路駐しました。城の向かいに市役所やホールがあるのでそこを利用できます。城は増田長盛によってようやく普請工事が終わりました。外堀は町のあちこちで見ることができます。復興された櫓@はいくつかありますが2004年商工会議所主催の「城祭り」では一日だけの張りぼて天守閣Aが作られました。
【駐車場】梅林門前無料駐車場 【最寄りの駅】近鉄京都線「郡山駅」
【最寄りのバス停】奈良交通バス「やまと郡山城ホール」
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