筒井順慶と松永久秀
経過
織田信長の家臣であった筒井順慶松永久秀信長が入洛するまで大和の覇権をめぐって対立していた。順慶は紆余曲折があった末、大和を統一した筒井順昭の子供で三歳の時に父の死によって家督を継いだ。永禄2年(1559)その頃畿内の実権を握っていた三好長慶の家臣久秀大和に侵入、@多聞山城を築いてたちまち大和の支配に成功した。これに対し順慶を支持する国人衆は抵抗した。長慶の死後、久秀三好三人衆(三好政康三好長逸石成友通)ともに13代将軍足利義輝を暗殺、幕府の実権を握ろうとした。しかし久秀三人衆が対立、永禄10年には三人衆と手を結んだ順慶が陣を張るA東大寺を焼討ちした。
永禄12年9月26日信長足利義昭と共に上洛すると10月4日久秀信長に誼を通じるために本陣のある芥川山城まで出向き名物茶入れ「つくもかみ」と名刀「吉光」を贈った。大和の支配が久秀に許されると6日にはB筒井城に攻め寄せて順慶は逃亡した。順慶を追い落とすと久秀は次々とC国人たちの拠点を攻略して行った。
元亀元年(1570)7月27日D十市城に密かに入城した順慶は一年後の元亀2年8月2日E辰市城を築城、久秀に圧力を加えた。この年義昭の暗躍で武田信玄を含む信長包囲網が出来つつあった。それに久秀も加担、三人衆とも和睦して信長に反旗を翻した。4日F大安寺三好義継、嫡男の松永久通と合流した久秀辰市城へ攻めかかった。しかし反久秀の国人衆と順慶の迎撃に合い、退却せざるを得なかった。この戦いの後順慶筒井城を奪還出来た。
天正元年(1573)久秀にとって悪いことが続いた。信長包囲網の一角信玄が病死し、信玄上洛を信じて挙兵した義昭信長によって追放、朝倉義景浅井長政も滅ぼされた。義昭をかくまった義継も家臣の裏切りで自害した。孤立無援の久秀12月26日信長に詫びを入れ、多聞山城を退去して信貴山城へ移った。そして久秀に代わって大和の支配を任されたのは順慶だった。
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