多聞山城―奈良市法蓮町【MAP】
松永久秀の前半生は不明である。三好長慶の右筆であった久秀は権謀術にも優れ、また風流人でもあった。大和は古来より寺社の力が強く特に興福寺は守護として機能していた。そのもとに筒井氏や越智氏などの国人がいたが南北朝の動乱や興福寺内の大乗院と一乗院の争い、応仁の乱などに巻き込まれ互いに勢力争いを繰り返すことになった。久秀が大和に入ったのはそんな抗争の果てにようやく筒井氏が実権を握った直後であった。初め木沢長政が築いた信貴山城に入ったが一年後には眉間寺を壊して多聞山城を築いた。宣教師ルイス・アルメイダは城内には多くの塔があり、城壁や高く組まれた櫓は白壁でできていると報告している。
この年の6月29日に信貴山城を三好三人衆と順慶に奪われ窮地に陥っていた久秀は三人衆が京から退却した報せに早速信長に対面した。信長に大和の支配権を認められた久秀は佐久間信盛・細川藤孝・和田惟政軍の協力をえて大和統一に乗り出した。
【探索のヒント】若草中学校が城跡です。開発がすすんで遺構は残っていませんが学校の周辺を歩くと多少城だった面影があります。当時は標高110メートルほどの山に真っ白な城が燦然と聳えたって奈良盆地を見下ろしていました。これを参考に信長は安土城を築いたといわれます。周辺には駐車場がないので路駐になります。
【駐車場】なし 【最寄りのバス停】奈良交通バス「青山住宅」「奈良坂」行き「今在家」
 
東大寺―奈良市【MAP】
三好長慶の弟安宅冬康、十河一存、嫡男義興が相次いで死んだのは久秀によるものといわれている。肉親の死に長慶は憔悴しきって永禄7年7月4日死去した。これに乗じて三人衆が三好家の実権を握った。しかし三人衆は庶流に当るので長慶に近い十河一存の子供義継を養子にし三好家当主とした。永禄8年5月19日将軍義輝を殺害して三好氏の本拠阿波から義栄を迎え14代将軍につけたが実権は三人衆と久秀が握っていた。しかしこの年の11月両者は対立して戦闘状態になった。そこへ大和の支配をめぐって久秀と対立する筒井氏が加わった。永禄10年久秀は本拠多聞山城に三人衆と筒井軍は東大寺に陣を張って対峙した。このような中の10月10日東大寺大仏殿が全焼する事件が起こった。一般にこの事件は久秀の仕業とされているが
ホームページ「戦国筒井氏」では久秀の夜襲に応戦した三好軍の火の不始末から火事が起こったのではないかと検証されている。なお3年前の朝日新聞で現在の大仏の頭部は3代目とあった。このときの大火は建物だけでなく大仏にも被害を与えていたかもしれない。
東大寺は、奈良時代の中頃に聖武天皇の発願によって創建された。大和の国分寺として建てられたが、盧舎那大仏が本尊とされたために、大規模な伽藍が営まれた。天下泰平・万民豊楽などを祈願する道場と教理研究所を兼ねる寺で、多くの学僧を輩出した。開山は良弁(ろうべん)僧正。現在は華厳宗の大本山である。本尊の盧舎那仏は毘盧遮那仏とも呼ばれて、華厳経の教主とされるが、この名は釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・光り輝く仏の意味である。像は青銅で鋳造され鍍金が施されていた。天平勝宝四(752)年に盛大な開眼供養が行われた。その後度々損傷を蒙り、その都度修理されている。両手は桃山時代、頭部は江戸時代のもの。大仏殿は創建以来、治承四(1180)年と永禄十(1567)年に兵火に罹っていて、今の建物は江戸時代に建て直された三度目のものである。横幅が約三分の二に縮小されているが、それでも木造建造物としては世界一の規模を誇っている。(東大寺チケット説明文より)
【探索のヒント】奈良は観光地ですので鉄道でも車でも不便しません。ただ鉄道ならばJRよりも近鉄線をお勧めします。駅からは市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車、徒歩5分。駐車場は奈良県営大仏前駐車場と春日大社駐車場があります。拝観料は大人500円、子供300円です。
【駐車場】専用駐車場他 【最寄りの駅】近鉄奈良線「近鉄奈良駅」
【最寄りのバス停】市内循環バス「大仏殿春日大社前」
 
筒井城―大和郡山市筒井町
大和国の長年にわたる争いを制して筒井家の反映の礎となった筒井順昭は天文18年4月比叡山に入り、嫡男の順慶(幼名藤勝)に家督を譲った。翌年順昭は天然痘が原因で死亡したため叔父の順政後見人となった。ようやく大和が筒井氏によって統一されかけた永禄2年松永久秀が大和に侵入してきた。久秀は付近の国人を次々下して行った。永禄7年3月後見人の順政が堺で死んだ。順慶が17歳のときである。久秀は次々に大和の国人を味方につけ、永禄8年ついに筒井城は久秀の手に落ちてしまった。しかしこの後三好三人衆と久秀が対立、三人衆の援助もあり永禄9年には再び筒井城を取り戻すことができた。この年剃髪して陽舜坊順慶と名乗ることになる。
信長が義昭と共に上洛した時、順慶は三好三人衆とまだ関係があったため久秀より遅れて信長と面会することになった。信長は順慶に人質の差出を求めたが順慶がこれを拒否したため、逆に久秀に追い落とされてしまう。その逃亡先が天理とか宇陀とか諸説ある。
大和では興福寺と春日大社の二大勢力がしのぎを削っていた。前者に属する国人を「衆徒」、後者を「国民」と呼んだ。南北朝の動乱で興福寺も春日大社も勢力を弱めると国人衆が台頭してきた。その中で越智氏・十市氏・箸尾氏・筒井氏が「大和四家」として勢力を拡大した。さらにその中で南朝方の越智氏と北朝方の筒井氏が2大勢力となって争った。南北町が統一されて幕府が内紛禁止を命じても両者の対立は収まらず、大乗院と一乗院に分裂した興福寺の争いも加わって「大和亨永の乱」が起こってしまった。この争いに河内守護の畠山氏と管領の細川氏が介入して混乱は長期化した。しかし筒井順覚が戦死し、幕府が沈静化に乗り出してくるとようやくこの戦いも収まった。ところが今度は筒井家で内紛が起こり、まさに血で地を洗う戦いになった。その中で一旦は没落した筒井順永が再起して他家を圧倒していったがここで応仁の乱が起こってしまう。応仁の乱が収まる頃順永が死んだ。これを機に再び越智氏が勢力を盛り返して筒井氏は衰えていった。その後共同して外的の侵入(赤沢朝経)を防いだりしたが再び分裂、木沢長政が越智氏討伐という名目で大和に侵入、これに従ったのが順慶の父順昭だった。長政が河内で戦死すると順昭は大和を統一するため越智氏のを攻めて勝利した。
【探索のヒント】上の説明でわかりましたか?かなり端折った書き方をしたので詳しく知りたい方は「島之左近」「歴史研究会」「戦国筒井氏」を参考にしてください。家内と碑を探すために大分とうろつきました。蓮池や畑の畦道(付近の人は近道に使っています)の角に碑が建っています。この付近は筒井城内の屋敷跡で本丸は菅田比売神社です。筒井順慶の墓は「筒井順慶歴史公園」にあります。また筒井家の菩提所は圓證寺ですが順慶の父順昭が死を前にして「黙阿弥という盲目の琵琶法師が自分に瓜二つなので下屋敷に住まわして3年間自分の死を秘して欲しい」と遺言しました。天文20年順昭が死去し遺言通り黙阿弥が代わりに下屋敷に入ります。一年後順昭の死が公表されると黙阿弥は再び琵琶法師に戻りました。これが「元の木阿弥」という諺の元になっています。ついでに作家の筒井康隆氏は子孫です。私高校の同級生に奈良在住の筒井というのがいました。ひょっとしたらと思う今日この頃です。
【駐車場】なし 【最寄りの駅】近鉄橿原線「筒井駅」
 
万歳城
 
 
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