小豆坂の戦い
経過
松平宗家松平清安@岡崎城を本拠に三河を支配していた。
天文4(1535)年12月5日清安張守山へ出陣した際、家臣の阿部弥七郎に暗殺された。これが「守山崩れ」である。一説にはこの事件の黒幕は弟の桜井松平信定とも言われている。信定尾張織田信秀の姉(妹)を長男の清定の室に迎えて信秀との関係を強くした。清安の死後信秀岡崎城下へ攻め込み、信定を城主につけた。これにより清安の嫡男で10歳の広忠(幼名仙千代)駿河へ追放となった。
天文6年6月今川義元の援助を受けた広忠岡崎城へ戻って来ると信定は城主の座を広忠に譲った。このことで三河尾張とが敵対関係となった。
天文9年2月
広忠尾張に攻め込んだ。これを撃退した信秀は大挙して三河に侵入、6月6日安城左馬助長家が守るA安祥城を包囲した。広忠も援軍を出すが城は落城してしまい天文18年まで三河における織田の拠点となる。
天文11年8月信秀岡崎城を攻略しようと安祥城から出撃すると今川義元軍が迎え撃った。
天文14年広忠安祥城奪回を目論んで出兵するが撃退された。もはや三河から織田軍を駆逐するには今川氏に頼らざるを得ないことを実感した広忠は嫡男竹千代を人質に出して更なる援助を求めた。しかし駿府へ行く途中竹千代は田原城主戸田康光に奪われB織田信秀の元へ送られた
天文16年信秀C山崎城を築き松平信孝を入れる。
同年D渡河原信秀信孝軍と広忠軍が合戦。広忠方の鳥居源七郎忠宗の奮戦で広忠は勝利する。
天文17年3月19日
太原崇孚安祥城奪回をのため矢作川東岸のE上和田砦攻撃のため動き出すと信秀は出陣、F小豆坂で戦いとなった。戦いは今川軍の勝利となり信秀安祥城へ逃げ帰り、安祥城に長男織田信広を残し尾張へ戻った。
天文18年3月6日広忠が父清安と同じく家臣に暗殺された。ここに三河の支配権は今川義元へ移った。
11月太原崇孚を総大将に安祥城を攻めた。抵抗むなしく城は落ち捕虜となった信広竹千代と人質交換で尾張に戻ることができた。
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