@岡崎城―岡崎市康生町【MAP】
15世紀前半明大寺の地に西郷稠頼によって築城され「龍城」といった。西郷氏の後岡崎松平氏の居城だったが1524年安祥松平清安によって城を追われ、享禄3年(1530)に現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになった。松平広忠の死後今川義元の城になる。元康は天文11年(1542)12月26日誕生した。元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代とし天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となった。家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせた。
【探索のヒント】岡崎城は岡崎公園にあります。観光地なので駐車場も完備されています。
【駐車場】岡崎公園駐車場
【最寄りの駅】名鉄名古屋本線「東岡崎駅」 愛知環状鉄道線「中岡崎駅」
【最寄りのバス停】名鉄バス「康生町」
 
A安祥城―安城市安城町【MAP】
室町時代中期の永享12年(1440年)に足利一族の和田親平氏が築城したといわれ、文明3(1471)年徳川氏の祖松平信光が盆踊りの際に女装により油断を誘うという奇策により城を占領、以降信光-親忠-長親-信忠-清康と5代にわたって50数年間松平氏の居城となった。この中で清安の父信忠は優れた支配者ではなかったため家中が分裂、信忠の弟信定を擁立しようとする動きが出た。信忠は隠居を決め嫡男清安を当主に就け一件落着している。。
この城を巡って松平・今川、織田氏との間に天文9年から天文18年までの間に5度に及ぶ攻防戦が繰り広げられた。特に戦死者の多かった第4次安祥城合戦の時に、今川・松平の連合軍が2万人の大軍をもって攻めた。松平方の武将の本多忠高が防衛戦を突破して城に近づいたが戦死した。先年の戦いの時には忠高の父忠豊が松平広忠の身代わりに討ち死にしている。
桶狭間の戦いの後、織田信長と松平元康との間で同盟関係が成立すると、城の存在価値が無くなり、廃城となり、永禄5(1562)年には取り壊された。しかし、近年、小牧長久手の戦い(天正12(1584)年)の際に、徳川勢によって改修工事が行われているという説が有力となってきている。
【探索のヒント】歴史博物館の隣の大乗寺が本丸跡です。博物館の駐車場は休館日(月曜日)でも利用できます。無料。駐車場から博物館や碑のところまで割合距離があります。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】名鉄西尾線「南安城駅」
【最寄りのバス停】あんくるバス(市内循環バス)1番系統市街地線「歴史博物館前」
 
B竹千代幽閉の地―名古屋市熱田区伝馬2丁目【MAP】
田原城主戸田康光は広忠の義父である。天文16年今川義元に命じられ広忠は田原城を攻めた。これが竹千代誘拐の原因ではないかとも言われる。
竹千代が預けられたのは加藤家である。加藤家は熱田を地盤にする豪商であった。鎌倉幕府の御家人加藤景廉(岩村遠山氏の祖)を祖として伊勢山田から熱田へ移り住んだ。当時熱田社から南は漁村があるだけの場所だったが加藤氏は一族の屋敷や寺院を建て道路を整備して町を作り上げていった。信秀が古渡城に移ってくると加藤氏の既得権益を守ることで織田家は加藤家と深いつながりを持った。桶狭間の合戦で服部左京亮が熱田を攻めようとして町衆に撃退された事実は加藤家により自治都市として機能していたことを窺える。
【探索のヒント】かなり迷いました。民家や町工場、幼稚園などがあり車は停めにくいですが私は熱田社の横に停めて歩き回りました。
【駐車場】なし 【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄名城線「伝馬町」
【最寄りのバス停】名古屋市バス「熱田伝馬町」
 
@A
C山崎城―安城市山崎町城跡(神明神社)【MAP】
松平信孝は清安の弟で岡崎城で次第に勢力を拡大してきたため追放されてしまい、信秀のもとへやってきた。天文18年今川・松平連合軍が安祥城を攻めた際に落城。小牧長久手の戦い後改修工事をうけた。本殿の後ろ辺りに隅櫓があった。
【探索のヒント】東海道本線「安城」と「西岡崎」に中間にありJR沿いの北側の道を走っていると見つかります。本殿@裏の空堀Aが唯一城であった痕跡です。
【駐車場】境内に駐車可
 
@A
D渡古戦場―岡崎市渡町字井領6−1【MAP】
安祥城奪回に失敗した広忠は何とか劣勢を挽回しようと信孝討滅の軍を出した。織田信秀は勿論、三河国人で上和田城主松平忠倫も信孝に味方して広忠を迎え撃った。劣勢に陥った広忠軍の中で奮闘したのが鳥居忠宗である。関が原合戦の前哨戦の伏見城の戦いで戦死した家康の忠臣鳥居元忠の兄である。
【探索のヒント】県道48号線で渡橋を渡ってしばらくして左折します。そのまま直進すると左手の田んぼの真ん中に鳥居@を見つけたらそこです。現在諏訪神社があり社殿裏に古戦場の碑Aがあります。
【駐車場】あり 【最寄りの駅】JR東海道本線「西岡崎駅」
 
@A
E上和田砦―岡崎市上和田字南屋敷【MAP】
北関東の宇都宮氏の一族武茂泰藤は南北朝動乱期新田義貞に従い各地を転戦、義貞戦死後、三河和田郷に入り上和田城を築いた。孫の泰道のとき宇津氏に姓を変えその子泰昌の時に松平郷に移りまたその子昌忠が松平信光に仕えた。これが徳川家と大久保家の関係の始まりである。その後越前の武芸者大窪藤五郎が三河に来た時、昌忠の曾孫にあたる忠俊に惚れこみ大窪姓を継いで欲しいと申し出た。主君松平清康の薦めもありここに大久保氏が誕生する。
広忠が三河から追放されると忠俊は松平信定と共にその復帰に尽力した。広忠が三河に復帰したが信定は広忠の老臣と上手く行かず、結局尾張へ逃れることになる。織田信秀の三河攻めに三河の国人の松平忠倫は上和田城を手に入れた。広忠としては一族に近い忠倫を放置する事はできなかった。そこで筧平三郎重忠を呼び、上和田へ行って寝返ったふりをして隙を見つけて忠倫を殺害せよと脇差を与えた。これに従い重忠は忠倫の元へ行った。重忠の寝返りに忠倫は筧殿が味方についてくれたらこれほど心強いものはないと歓待してくれた。その夜忠倫が熟睡している所を見計らい重忠はその脇腹に賜った脇差を突き立てた。この時広忠に刺した脇差を抜くと相手は声を出すのでそのままにしておくようにと言われたことを思い出したが重忠は主君より賜った脇差を放ってはいけないと引き抜いた。忠倫の絶叫に家臣が駆けつけ重忠を捕らえようとしたが逃げられてしまった。
【探索のヒント】県道26号線を西へ降りJRの高架下を通って上和田西の交差点付近にガソリンスタンドがあるのでその裏手にある浄珠院Aのそばに路駐できます。老人福祉会館に大久保一族発祥の碑@があります。浄珠院は小豆坂の合戦や三河一向一揆戦では本陣が置かれました。特に三河一向一揆戦では一向宗の寺を全て破却し捕らえた門徒衆は全員首を刎ねろとの命令に大久保忠俊と住職であった利空が必死に家康を説得し神文誓書を交わすだけで放免させました。この後家康は広忠の位牌と梵鐘を寺に与えたということです。また徳川家の位牌所でもあります。
【駐車場】路駐 【最寄りの駅】JR東海道本線「岡崎駅」
   
@A
B
C
F小豆坂古戦場―岡崎市不吹町【MAP】
第一回の戦いは詳細がわからないし疑問視もされている。岡崎城を攻めるのになぜこんなところで合戦になったのかと不思議に思う。戦いははじめ優位だった今川軍だったが後に「七本槍」Bを謳われた織田信光・信康・造酒丞、佐々隼人正らの活躍で押し戻し、今川軍を敗走させた。
第二回は織田方の上和田砦攻略を目指す今川軍2万が大原崇孚を大将、朝比奈泰能を副将に竜勝寺方面から小豆坂へ向かった。これに対し織田信光・信広も兵4千で出陣、小豆坂で両軍激突した。信秀も後詰に安祥城へ入った。今川勢の猛攻に一旦は優勢に立った織田軍だったが今川の岡部昌幸に横合いから攻められ総崩れとなった。
【探索のヒント】県道26号線「女子高前」交差点の東南角に小豆坂古戦場の碑Cがあります。それに並んで小豆坂七本槍の碑B血洗い池の碑Cがあります。なお血洗池はここより南西にありました。その向にある「FEEL」前に左の戦没者慰霊碑@があります。車は県道26号線から東へ斜めに入った道に短時間なら停める事ができました。
【駐車場】路駐 【最寄りのバス停】名鉄バス「光ヶ丘」または「不吹」
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