尾濃同盟

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経過
1542年(天文11)美濃では斎藤新九郎利政長井規秀から改名)が守護の土岐氏①を追放し国主の座に就いた。追放された彼らを庇護した越前守護朝倉孝景尾張守護斯波義統は共同で利政討伐しようとした。
1544年(天文13)
義統古渡城織田信秀を大将に清須織田氏岩倉織田氏尾張国人衆に総動員をかけ美濃へ出陣させた。9月22日木曽川を渡った尾張軍の先陣を切って小口城織田与十郎寛近瑞龍寺山の西南の広野で斎藤軍と戦い勝利を収めた。19日美濃赤坂斎藤軍に勝利した朝倉宗滴軍と合流した尾張軍稲葉山城井ノ口に放火して回った。先勝し油断した連合軍の背後から稲葉山城を駆け下りた利政率いる本隊が襲いかかった。連合軍はたちまち混乱、我先に本国目指し退却した②
1547年(天文16)
11月利政軍大垣城③へ向かっているという知らせが入った。信秀竹ヶ鼻④に放火して茜部⑤へ兵を進め井ノ口を窺うように布陣すると利政は城攻めを中断し兵を引き上げ始めた。信秀大垣城救援は成功したが今度は清須城坂井大膳らが古渡城下に火を放ったという連絡が入った。
美濃・西三河・尾張に敵を抱えてしまった
信秀1548年(天文17)利政と和睦するため平手政秀美濃へ送った。交渉は成立し織田信長利政娘⑥を嫁がせて尾濃同盟が成立した。これにより清須織田は動きが封じられ、信秀西三河の戦いに専念できるようになった。その矢先の1551年(天文20)信秀は病に倒れ、翌天文21年3月3日死去した⑦。日頃の行いから「うつけ」と侮られた信長が19歳で家督を継ぐと弾正忠家から離反する者が現れた。さらに1553年(天文22)閏正月13日信長の傅役政秀自宅で自刃した⑧4月になると道三利政が家督を斎藤義龍に譲り出家)から信長へ会見の申し入れがあった。今、最も頼りになる戦力を有する道三を失うわけにはいかない信長はこれを受け入れ、4月下旬尾張美濃の国境に近い正徳寺⑨で会見した。信長に好印象を持った道三1556年(弘治2)長良川で戦死するまで信長を支えた。
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