@A
BC
D
EF
@土岐頼芸追放
応仁の乱後の美濃の守護だった土岐政房は父成頼が、弟の元頼に跡を継がせようとして美濃を混乱に陥れた船田合戦のことを忘れ、嫡男政頼(土岐二郎、盛頼、頼武、頼純同一人物説あり)を廃嫡、次男頼芸に跡を継がせようとした。このため土岐家中は二分、守護代斎藤新四郎利良(斎藤妙純の孫)は政頼、小守護代長井藤左衛門尉長弘、長井新左衛門尉(初代斎藤道三)は頼芸を支持し争いが生じた。1517年(永正14)の戦いで政頼側が勝利し頼芸は尾張へ逃げた。だが利良の伯父斎藤彦四郎利隆が守護代復帰のため頼芸と連携して翌1518年挙兵する。これに敗れた政頼は利良の勧めで義兄の朝倉孝景を頼り越前へ向かった。12月幕府より政頼の美濃帰国を助けるよう孝景に命令が下る。
1519年7月政房が急死すると、朝倉氏の援助を受け政頼は美濃へ戻り頼芸派を駆逐し守護職に就くことができた。だが家臣を掌握できたわけではなかった。1525年(大永5)先の戦いで没落していた長井一類が守護所福光館を占拠するクーデターを起こした。これに北近江の浅井亮政が呼応して美濃へ出兵すると汾陽寺に逃れた政頼は朝倉氏に救援を求めた。朝倉宗滴が派遣され六角氏と小谷城を囲み亮政をけん制したおかげで政頼の守護の地位は守られた。
だが1527年(大永7)、頼芸を擁立した長井新九郎規秀(新左衛門尉の子)が革手城を襲い政頼を越前へ追放した(1528年〜1532年の間)。1535年朝倉氏の支援を受け美濃へ戻った政頼だが、6月に頼芸が政房の17回忌法要を行い、7月幕府に申請した美濃守任官が認められて名実ともに頼芸が美濃国主となった。すると政頼方だった六角定頼、守護代斎藤利茂が頼芸方に寝返った。これは長井規秀改め斎藤新九郎利政の強力な政治力の賜物であった。反面これは頼芸が利政に殺生与奪の権を握られた事を意味した。そして10年を経ずして頼芸、次男頼充、政頼は美濃を追われた。
1546年(天文15)朝倉孝景と利政の話し合いの結果、頼芸の守護退任と政頼の守護復帰を条件に三人の美濃帰国が認められ大桑城が土岐一族の居城となった。だが翌年8月利政は大桑城を攻撃。政頼は戦死、城を脱出した頼充も11月17日の戦闘で戦死した。逃げ延びた頼芸は近江の六角、常陸の実弟治瀬、上総の為頼、甲斐の武田のもとへ身を寄せた。その間に失明した頼芸だったが旧臣稲葉一徹により美濃へ戻ることができた。
【探索のヒント】土岐頼芸の墓は斐川町谷汲岐礼の法雲禅寺@【MAP】にあります。県道255号根尾谷汲大野線から岐礼谷へ入ります。山側の細い道を進むと右側に下草の伸びた(7月に行ったからかもしれませんが)廃寺のようなたたずまいの寺があります。寺の横から車で上がっていけそうな舗装道路がありますが、私はその先にある空き地に車を止めました。山門の手前の左側に崩れかけた「土岐頼芸の墓」と書かれた標柱があり、その前にある宝筐印塔の一部を土台とした自然石が墓Aです。あるサイトで手前の墓を頼芸のものと紹介していましたが、これは「高橋丹波守宅正」という人のものです。領主だった高橋そう左衛門が建てたという事で縁者と思われます。
頼芸と跡目を争った頼順の墓Bは山県市大桑の南泉寺C【MAP】にあります。10の市指定文化財を所蔵している寺でもあります。寺の北東にある南泉寺霊園の一番上に土岐氏関連の墓があります。五輪塔は土岐家累代総供養塔Eで地輪には初代頼貞から11代頼芸(9代政房、10代正純)の名と守護代斎藤家並諸族家と彫られています。その他に土岐家累代従臣庶流供養塔Fもあります。
土岐家弱体のきっかけを作った政房の墓F【MAP】は茜部神社の北、「あかね保育園」の北に隣接しています。茜部は美濃源氏祖源国房(頼光の孫)が荘司となって以来、土岐氏縁の地です。ここに政房は承隆寺を建立しました。
●法雲寺:【駐車場】路上駐車
【鉄道】樽見鉄道線「神海駅」または「高科駅」
【バス】揖斐川町コミュニティバス谷汲口線「岐礼」
●南泉寺:【駐車場】専用駐車場
【バス】山県市バス大桑線「大桑小学校前」
●土岐政房の墓:【駐車場】路上駐車
【鉄道】名鉄竹鼻線「西笠松駅」
【バス】岐阜バス茜部三田洞線「寺屋敷」
@
AB
A稲葉山城下での戦い
土岐頼芸は敵対勢力を排除してくれた規秀改め斎藤新九郎利政(斎藤利良の死去を受けその名跡を継ぐ)に全幅の信頼を置いていた。だが利政の目的は土岐家を弱体化し美濃を乗っ取ることにあった。まず讒言によって頼芸の嫡男頼栄を廃嫡させ、次に娘婿の頼芸の弟頼満を毒殺した。さすがの頼芸も利政の非道に距離を置きだした。
1542年利政は頼芸が実力行使に出る前に土岐二郎(頼芸次男頼充)を追放し、1543年には大桑城を攻め政頼・頼芸を追放した。
追放された頼芸・頼充は尾張へ、政頼は越前へ逃れた。利政の非道に朝倉孝景(政頼の伯父)は斯波義統と連携して利政討伐に乗り出した。9月19日朝倉宗滴軍7千は美濃赤坂で美濃軍を一蹴、井ノ口へ迫った。22日織田軍5千の先陣を切って織田与十郎寛近は瑞龍寺の南西で美濃勢と戦闘、勝利を収めた。初戦に勝利した両軍はてんでに城下に放火して回った。これを見た利政は自ら兵を率い、稲葉山を尾根伝いに上加納へ抜けて織田軍に攻めかかった。不意を突かれた織田軍は混乱し我先に退却を始め、斎藤方に討取られたほか木曽川で命を落とす者が相次いだ。『定光寺年代記』には「尾州衆二千打死す」とある。混成部隊だった織田軍は各自の城へ逃げ帰り、古渡城へ戻った信秀につき従っていたのは6、7人だったという。この戦いでは熱田大宮司千秋紀伊守季光(『東国紀行』宗牧)、三奉行織田因幡守、犬山城主織田与次郎信康(信秀の弟)、織田主水正、信長の傅役青山与三左衛門、毛利十郎敦元、宿老毛利藤九郎、岩越喜三郎を失い、飛ぶ鳥を落とす勢いの信秀に影を落とす出来事であった。
この美濃攻めに関しては天文13年説、天文13年・16年説がある。13年・16年説は加納口の戦いを二度目の美濃攻めの出来事としている。
【探索のヒント】利政隊は、瑞竜寺の背後の山@を駆け抜け、織田軍の側面を突くため上加納村Aへ向かいました。戦後、上加納村の百姓達が、土饅頭を作って信秀軍の戦死者1千人を埋葬しました。これが織田塚Bで、当初物見塚と呼ばれていました。現在は霞町【MAP】に織田信康・因幡守、青山与右衛門、毛利十郎、寺沢又八の五輪塔が残っています。
【駐車場】金華山展望公園駐車場
@A
B
【寄り道】安養山光得寺―羽島郡笠松町無動寺【MAP】
松山の合戦の舞台。無動寺古戦場跡。8月15日(現地解説版)に信秀が朝倉軍と井ノ口を攻めると知った道三は14日土岐頼香(土岐政房の八男、政頼・頼芸の弟)を信秀軍の進軍途中にある無動寺村へ派遣した。頼香は光得寺を砦に改造して信秀軍を待った。だが信秀は事前にここに砦ができることを察知していた。翌日の戦いに備え砦じゅうが寝静まった14日夜半信秀は砦を包囲、四方から攻撃を開始した。
この攻撃に砦内は大混乱となった。この混乱に乗じて松原源吾率いる十数名の一団が頼香の寝所へ踊りこんだ。源吾は道三から頼香を暗殺する密命を受けていた。敵を内外に受け頼香は自害した。頼香は道三の娘を娶っていたが美濃から土岐氏を一掃しようと目論む道三には邪魔者以外何物でもなかった。砦の兵は頼香の死を受け砦から退散した。その際、頼香の遺骸は寺の横の藪に葬られた。
【探索のヒント】県道178号下中屋笠松線の南にある「下羽栗保育所」の東側に光得寺@はあります。駐車場は保育所側です。境内には無動寺の戦いの解説板があります。鐘楼の割に小ぶりな梵鐘Aは信長が美濃攻めをした時に陣鐘として使われたといわれます。元は1475年手力雄神社のために作られ、その後高田寺→万松寺→光得寺と所在が変わりました。終戦直前、供出されましたが無事戻ってきました。現在も除夜の鐘、半鐘として使われています。頼香を埋葬した土岐塚B【MAP】は光得寺の鐘楼側から出て真直ぐ進んで右に入る道があるのでそこを曲がった民家の裏にあります。
光得寺駐車場
【バス】岐阜バス岐阜川島線「若宮寺前無動寺」
【寄り道】亘利城屋敷―各務原市川島渡町【MAP】
土岐頼香を自刃に追い込んだ松原源吾芸久の屋敷。松原氏は木曽川の松原島を本拠とする所謂川並衆である。尾張国葉栗郡11ヶ村を支配していたが、竹腰氏と同様国境の勢力なのでその時々で主家を変える。
美濃の国主が頼芸、道三のと変わるとそれに従ったが、長良川の戦いでは義龍側に付いた。なお同族の笠田の松原次郎左衛門は道三側に付いている。『武功夜話』にはこの後の墨俣砦の建設(1566年)にあたり、弟の内匠芸定が大工棟梁88人を率いて、秀吉や小六らと墨俣に一番乗りしているので、松原氏は斎藤氏から離れていることになる。1567年源吾は内匠に城主の座を譲った。松原島はたびたび木曽川の洪水に見舞われていたが、1586年の大洪水ため北の現岐南町・笠松町へ移ることになった。
【探索のヒント】県道93号川島三輪線の「平成川島橋南交差点」にある「サークルK」の向いの竹藪に亘利城屋敷の案内看板があります。竹藪は個人所有ですが全く手入れされた様子はありません。竹藪から南が敷地と言う事です。
【駐車場】なし 路上駐車可能
【バス】各務原ふれあいバス川島・北部線「渡西口」
【寄り道】長森城―岐阜市切通6丁目5【MAP】
源頼光の嫡男頼国が美濃国司であった事からその六男国房は美濃に土着し美濃源氏の嫡流となる。その三代あと光基は弟光長の子光衡を養子に迎え家督を継がせる。『東鑑』の富士裾野で夏狩をした頼朝の随行者土岐三郎を光衡と比定し土岐氏の祖とする。なおこの比定の根拠、また光基には実子頼基がいるのに甥に家督を継がせた理由は不明である。その子孫は鎌倉幕府の御家人となりさらに勢力を拡大した。
執権北条氏と姻戚関係を持ちさらに発展した土岐氏であったが、後醍醐天皇を中心とした打倒北条氏の流れが起こる。時の当主頼貞は時勢を読み、反幕府派の足利高氏のため奮闘した。この功績により美濃守護に任じられた頼貞は美濃国内に一族を配し、現在に続く美濃土岐王国を作り上げた。
頼貞が死ぬと守護職は七男頼遠に受け継がれた。頼遠は北畠顕家の大軍にその十分の一に満たない軍勢で立ち向かった剛の武将で婆娑羅大名で名を馳せた。
1339年頼遠は光衡が築いた一日市場館(神戸城)が山間だったので尾張国境に近い切通村へ新たな城を築いた。それが長森城である。だが頼遠の失脚は思わぬ形で起こった。1342年9月6日京・東洞院で光厳上皇の輿が通るので「院のお通り」と先触れしたところ、反対から来た頼遠が「犬のお通り」と聞き違え矢を射ってしまった。これを聞いた足利義直は頼遠捕縛を命じた。美濃の臨川寺に隠れていたところを発見された頼遠は12月1日京六条河原で斬首された。この跡を継いだのは甥の頼康で革手城を築城して1343年6月に移ると長森城は廃城となった。
1755年加納藩主となった安藤信成だったが父信尹の度を越した贅沢が領民、家臣の反発を招き、翌年陸奥磐城平藩へ移封となった。1803年老中となった信成は美濃国内に1万8千石余の加増を受けた。これを管理するために長森城跡に陣屋が置かれた。
【探索のヒント】「いりのと公園」で県道181号岐阜那加線を東へ向かいます。伊豆神社(左側)を過ぎ右側に「ママショップ大門」を見つけたらちょっと先を左へ入ったらすぐに切通聖観音はあります。ところがこの道は車で入るには細すぎます。目的地周辺は道が狭そうなので私はあきらめて、「ママショップ大門」で買い物をし駐車場に車を少し置かせてもらいました。
切通観音は切通陣屋の厄除けとして惣門の左側に置かれました。観音前の道幅がやや広くなっていますがそこが惣門のあった場所です。観音から東へ行く道は堀でした。観音の北側は学問所がありその裏手にも堀がありました。
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄各務原線「切通駅」
【バス】ぎふっこバス3・7・3バス「岐阜信金切通支店」
@A
BC
【寄り道】革(川)手城―岐阜市正法寺町【MAP】
革手城を築城した3代守護頼康は頼遠の兄頼直の子である。湊川で足利高氏に従い活躍した頼直だったが在京中に病死したため、若年ながら頼康が跡を継いだ。頼康は頼遠と共に足利家のため各地に転戦した。
観応の擾乱により足利家は尊氏派と直義派に分かれたが頼康は尊氏派として戦う。直義討伐のため尊氏が鎌倉に向かった隙を突いて南朝側が京を制圧。京を脱出した尊氏の子義詮と後光厳天皇を頼康は美濃で保護した。その後の北朝側の京都奪還にも尽力した頼康は美濃に加えて尾張・伊勢の守護となり、室町幕府内でも重職を担い土岐氏の最盛期を迎えた。
頼康には子がおらず、弟頼雄の長男康行と二男満貞を養子に迎えた。頼康が死ぬと康行が4代目守護となり、弟を将軍義満付の京都代官とした。満貞はこの処遇に不満を抱き、義満に康行の讒言をした。幕府の復権のため、強大化した守護の弱体化を図っていた義満は、この兄弟の不仲を利用し康行の領地を美濃・伊勢とし満貞に尾張を与えた。当時尾張守護代だった兄弟の従兄弟詮貞は満貞の入国を武力をもって阻止した。これを謀反と見做した義満は、康行の叔父頼忠・頼益父子に康行討伐を命じた。
康行は敗れ美濃は頼忠へ、伊勢は父が伊勢守護だった仁木満長へ与えられた。尾張は晴れて満貞にものとなった。だが、その後起きた明徳の乱で満貞が取ったと言った敵兵の首が、拾ってきた雑兵のものとばれて義満の不興を買い守護職を解任されている。なお、この戦いで康行はよく働き一時は伊勢守護に返り咲いている。
義満の思惑通り土岐一族は頼忠派・康行派・反頼忠派・幕府奉公衆と分断された。このため頼忠のもとで働く人員が足りず、地理的に近い関ヶ原の富島氏をを守護代に抜擢して、内政を任せることにした。だがこれは鎌倉時代より美濃で実質国政を担ってきた斎藤氏の反発を招くことになった。
頼益(頼忠の子)の跡を継いだ持益は、嫡男持兼を亡くしたので嫡孫亀寿丸を後継にしようとした。だが守護代斎藤利永は他家(一色義遠または土岐一族饗庭氏)の子成頼を持益の養子とし8代守護につかせた。こうして西池田家の守護職継承は途切れた。
成頼の時、応仁の乱が起こった。成頼は西軍に属し戦うが敗れ美濃へ戻った。この時、西軍の旗頭足利義視・義材父子、荒廃した都から逃げ出した公家を伴っている。彼らにより革手城では守護所にふさわしい京風の文化が花開き、東の周防大内氏に対し西の土岐氏と言われ、一条兼良や雪舟とという当代一流の文化人も訪れている。
1494年成頼は政房を廃嫡して四男元頼に家督を継がせようとしたことから、政房支持の守護代斎藤妙純(利国)と元頼支持の小守護代石丸利光との間に船田合戦が起こる。合戦の拠点は沓井城(現加納城)と船田城だったので、荒田川を隔てて東にあったとはいえ、中間に位置する広い敷地の革手府に戦火は及び、三日三晩燃え続けたと伝わる。1509年政房は新守護所の福光館へ移った。だが革手城は維持され、政房の後継者争いでも拠点として維持されている。1542年頼芸の美濃追放を以て革手城の歴史は終わった。革手城と正法寺の遺構は徳川家康の加納城築城にあたり、破壊され土砂として利用された。
【探索のヒント】革手城の碑@は済美高校の敷地を東西に走る道の東のはしにある公園に建っています。高校の南西角から少し西へ行くと正法寺跡A【MAP】です。頼康が禅宗法燈派の嫩桂正栄を開山に建立しました。以前は船田合戦焼失でしたが信長の最後の美濃攻めで焼失したと分かってきました。ここも加納城築城のため取り壊されましたが薬師堂Bは残っています。車は学校の西の道に路駐する以外、止める場所は見つかりませんでした。
正法寺はその跡地からは想像できない、七堂伽藍を備えた大きな寺でした。城の北に建てられたという事なので、現在革手城の碑のある所は本丸跡ではなく、城の北限を表すものと考えられています。
あるサイトで開発もあるが本格的な発掘調査をしないので城の規模・実態は不明のままと批判されています。また守護所である本丸とそれを取り巻く屋敷や神社仏閣を含めたかなり広い地域が革手城であり、その入口にあたるのが織田信孝と信雄の禁制制札が残っている正福寺C【MAP】ではなかったかと推定しています。
●革手城跡●正法寺跡:【駐車場】なし
【バス】岐阜バス松籟加納・尾崎団地・北方円鏡寺線「下川手」
●竹腰正福寺:【駐車場】道路工事のため確認できず
【鉄道】名鉄名古屋本線「岐南駅」
【バス】岐阜バス松籟加納線西川手行「下川手口」
@A
【寄り道】閻魔堂―岐阜市領下【MAP】
革手城の鬼門除けに頼康自ら彫った閻魔像を安置した閻魔堂を建てた。美濃守護が土岐氏から斎藤氏へ移り、革手城は廃城となったが、道三は土岐氏の旧臣加藤左太郎に閻魔堂を守るように命じた。
関ヶ原合戦の前哨戦で織田秀信がここに本陣を置き、池田輝政軍を迎え撃った時(乱闘橋の戦い)に閻魔堂も閻魔像も焼失してしまった。だが1674年焼失したと思われた像が破損した状態だが見つかった。当主加藤新右衛門はこれを修理し、元あった場所にお堂を再建した。以降、現在に至るまで加藤家により閻魔堂は守り続けられている。
一方、岐阜城にも閻魔堂がある。由来は全く同じで違うのは加藤氏が出てこないことである。加藤家でお話を伺ったところ、加藤家より北のとある家に閻魔堂があったという。だがそれは加藤家の前にあるようなものではなく、小さな祠のようなものだった。その家の末裔の方は名古屋在住で、家も祠も管理ができなくなり、岐阜市へ寄贈したということである。だが記録や残された書状の閻魔堂は間違いなく加藤家のものである。
【探索のヒント】岐阜市立厚見中学校の北側の道@を東へ行くと閻魔堂Aがあります。中には閻魔様Bが鎮座しています。昔はこの道が川で土手の上にお堂が作られたという事です。乱闘橋の戦いはこの河原で行われました。岐阜城の閻魔堂Cは二の丸跡にあります。
【駐車場】なし 路上駐車
【鉄道】名鉄名古屋本線「茶所駅」
【バス】岐阜バス岐南町線「領下」
【寄り道】上茜部城―岐阜市茜部本郷2丁目【MAP】
信長、秀吉に仕えた堀秀政の居城跡。堀姓は藤原利仁から8代目季高が名乗ったという。池田郡堀村に住していたからとも言う。この5代あとの資重が本郷に屋敷を築いた。更に9代あとの秀重は道三に仕え信長の家臣となる、その子秀政も信長の小姓となる。小谷城包囲戦での決戦を申し込む使者、陸奥と出羽の使者の取次ぎと接待、安土宗論・相撲大会の奉行、中国戦線の秀吉の検使と事務方の仕事をこなす一方、雑賀攻めでは一隊を率い、有岡城攻めでは鉄砲隊を指揮、甲賀攻めでは近江衆を率いて信楽口から進軍と戦場での働きも見せている。雑賀攻め後、近江坂田郡に2万5千石を与えられ近習では出世頭である。本能寺の変後は秀吉のもとで北ノ庄城主となる。1590年5月27日小田原攻めの最中、38歳で病死する。その跡を継いだ秀治だが北ノ庄から越後春日山城へ国替えとなる。関ヶ原合戦では東軍に属し所領は安堵された。この時、祖父の秀重は健在で政務面で秀治を助けた。1609年5月秀治31歳、11月28日秀重75歳でこの世を去る。
秀政は家臣領民に慕われた人物でその優しさを表すエピソードが伝わる。家臣に泣き顔の者が居た。秀政は他の家臣たちから陰気くさいから追い出してほしいと頼まれた。秀政はあの人相は葬式や法事にはうってつけだからそのために置いておこうではないかと家臣を説得したというものである。
【探索のヒント】遺構は全く残っておらず秀政没後4百年にあたる1990年、地元自治会により建てられた顕彰碑と解説看板があるだけです。「バロー茜部本郷店」の国道157号線を挟んで向かい側です。路上駐車はしにくいのでバローの駐車場に止めました。
【駐車場】なし
【バス】岐阜バス茜部三田洞線「上茜部」
@A
BC
【寄り道】加納城―岐阜市加納丸之内【MAP】
加納城の前身は1445年斎藤利永が革手城守備のため築いた沓井城で1538年頃、斎藤道三が本拠を稲葉山城へ移すまで斎藤氏が代々守った。船田合戦の際、石丸軍に攻められるが撃退している。
鎌倉時代、美濃の目代となった斎藤帯刀左衛門尉親頼(竹田基重が目代、その子基成が斎藤を称した説あり)を美濃斎藤氏の始まりとし、美濃の国人として勢力を伸ばした。
土岐氏が守護となり美濃各地に一族を配すると斎藤氏はその配下となる。だが1389年土岐康行が将軍義満の策謀にかかり反乱を起こしたため、土岐家は解体されてしまい美濃の統治ができなくなった。康行の跡を継いだ頼忠・頼益は地縁のある富島氏守護代としたが、実力に勝る斎藤氏はこれに不満を持った。1415年9歳の持益が守護となると斎藤氏と富島氏は美濃の覇権めぐり対立を始め、それは30年近く続いた。
嘉吉年間、富島氏は外戚関係にある長江家から高景を養子として迎えると、斎藤氏と富島氏の美濃での主導権争いが激化した。1444年6月京の土岐屋形で高景が斎藤斎藤入道宗円(利明、利政?)に殺害される事件が起こり、富島氏と長江氏は美濃へ兵を送り斎藤氏を攻める。だが決着はつかず、以降両軍睨みあったまま美濃は不安定な状況となる。1450年京で宗円が富島氏・長江氏に暗殺され、家督は利永に継がれた。利永は弟妙椿と協力して富島氏・長江氏との戦いに勝利し、守護に成頼を擁立して美濃の実質支配者となった。
1460年利永が死ぬと嫡男利藤が守護代となるが実権は妙椿が握っていた。妙椿は持ち前の政治力・統率力で美濃周辺の国々に影響力を持った。応仁の乱でも東軍に属した旧敵富島・長江氏を撃破し、東軍に妙椿を何とかしなければ乱は収まらないとまでいわしめた。1480年妙椿は死去するが、下剋上の厳しさを知るが故、わが子利国(妙純。利藤の弟で妙椿の養子)の行く末を案じて、成頼宛に利国の重用を頼む遺言を残した。半年後、これが原因で利藤と利国が戦う「文明美濃の乱」が起こる。
この戦いで利藤は敗れ近江へ逃れる。1487年に幕府の執り成しもあり、利藤は守護代へ返り咲くが実権はなかった。1495年の船田合戦、1496年の城田寺城の合戦で再び兄弟は戦うことになり、またもや利藤は敗れ今度は隠居させられる。ようやく美濃国内に安定が訪れたと思われた1496年12月7日、六角高頼討伐のため近江に出陣していた利国と嫡子利親が土民に襲われ死亡してしまった。利親の嫡男勝千代は幼少だったため、利親の弟又四郎が家督を継ぐ。1499年又四郎の死があり三男彦四郎が跡を継いだ。1509年土岐政房が守護所を革手城から福光へ移した。3年後、彦四郎は反政房勢力を集めて合戦を挑むが敗北して尾張へ逃れる。そのあと守護代に新四郎利良がつく。利良こそ勝千代の成長した姿で、斎藤氏の庶流長井利隆が養育していた。政房の跡目争いに敗れた利良の記録は歴史上から消える。この後、美濃斎藤氏は道三が名乗り、妙椿からの持是院家は利茂(斎藤利藤の養子となった利為の子)、正義(藤原植家の子で道三の養子となる。金(兼)山城主)と続いて断絶する。
【探索のヒント】江戸時代の加納城本丸だけが残り、土塁に囲まれた公園@となっています。荒田川から水が引き込まれ本丸の堀となっていました。二の丸A本丸南東の土塁上Bからそれは確認できます。天守台Cなど本丸の石垣も残っています。町中には「○○跡」の石碑はありますが今回は見に行きませんでした。県道1号岐阜環状線から城の方へ入ると右側の堀跡が無料駐車場となっています。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「加納駅」
【バス】岐阜バス岐阜川島線、城田寺団地線「加納中学校前」
@A
BC
DE
B大垣城―大垣市廓町2丁目【MAP】
『大垣御城主歴代記』によれば1544年信秀により織田播磨守が城主に任じられた。信辰ともいわれる人物で小田井城主織田藤左衛門寛故の子と言われる。だが寛故は小田井城主ではない。ちなみに信長の近習菅屋長頼の父も織田信辰だが『信長公記』でこの戦いの前の記事「小豆坂の戦い」で織田造酒丞(正しくは「造酒正」)としているので違う人物である。
蘆舎那仏完成の4年後の756年聖武天皇が東大寺に施入した大井荘が後の大垣である。「おおがき」の名は1340年の大井荘花厳会料名寄帳の「大柿殿」が初見である。1445年2月年貢の上納を怠り改易された石包名代官の大垣中務丞氏信がもう一つの「おおがき」として現れる。なお氏信の館が東大寺城といいこれが大垣城の前身といわれる。
1535年土岐氏は大井荘を支配下に置くため一族の宮川吉左衛門尉安定にその舅である大垣彦五郎家長を討たせた。安定は東大寺城を拡張して新たな拠点大垣城を築いた。これが宮川築城説である。1500年竹腰尚綱が築いた牛屋城が大垣城とする説もある。竹腰氏は羽栗郡竹鼻城・柳津城、本巣郡只越城、各務郡岩田城などを本拠とする土豪である。岩田城の重綱・尚綱兄弟が牛屋郷へ移り館を構えた。城主は尚綱といわれるが『寛政重修諸家譜』には道三に仕えた重綱が出家して道鎮と名乗り大垣城主となったとする。尚綱の跡を継いだのは重綱の子摂津守重直である。直重城主の時信秀の美濃攻めがあり城を奪われた。
1547年11月道三は先の美濃攻めで大敗した信秀が態勢を立て直す前に大垣城奪還を目論んだ。近江からの援軍を得て大垣城を包囲したものの、信秀の予想外の反撃に退却を余儀なくされた。だが翌年の城攻めで奪還に成功している。信秀が小豆坂で今川軍に敗北したのが原因かもしれない。大垣城主は再び竹腰氏が任じられたが、それは重尚の叔父尚光または摂津守重吉とされる。『新撰美濃志』では重吉は1559年まで城主だったとしているが、重吉=重尚と考えられ重尚は1556年長良川の戦いで道三軍と戦い討死しているので、重吉説は無理がある。西美濃三人衆の氏家卜全(直元)の城としても有名。
なお先に挙げた『大垣御城主歴代記』には信秀の大垣城領有について「1544-1549」説、「1546-1548」説、「1544-1548」説を載せている。
【探索のヒント】大垣城の専用駐車場はないので大垣公園の南にある「市営丸の内駐車場」を利用します。大垣城は有名な城なのに町の中にうずもれた感じが非常にします。天守が見えるのは建物少ない西側です。江戸時代城主となった戸田氏鉄の騎馬像と天守のツーショット@が見られます。
都市化が進み縄張り図Aにある曲輪は姿を消しましたが外堀だった川は現在も残り、総構えの規模は把握できます。資料館である天守へは、表門の東側は旧柳口門B(元は城の南側にあったものを移築)から鉄門跡Cを、西側は櫓門D(復興整備の時に作られたもの)から、北側は水の手門Eを通って行きます。
私が行ったのは2007年春だったと思いますが、この翌年から城を中心に据えた大規模な都市整備が開始されています。2011年には天守、表門、多門櫓の復元が完了しています。
【駐車場】市営駐車場
【鉄道】JR東海道本線・養老鉄道「大垣駅」
【バス】名阪近鉄バス「廓町」
@A
B
【寄り道】牛屋山大日寺遮那院―大垣市清水町【MAP】
大垣城を囲んだ美濃勢の中に陰山掃部助という武将がいた。掃部助は寺内を放火するため大日寺遮那院に本陣を構えていた。そこへ大垣城から無数の矢が放たれた。そのうちの一本が掃部助の左目に刺さった。急いでこれを抜いた掃部助だが今度は右目に矢が当り両目を失明した。
掃部助は先の信秀の美濃攻めで討死した千秋季光から「あざ丸」なる太刀を奪った。この太刀は後に丹羽長秀が所有することになったが、この太刀を手に入れてから長秀は眼病に悩まされることとなった。
そこで「あざ丸」の事を調べてみると源平合戦で敗れた平景清が持っていたものだった。景清は日向国に流されたが頼朝に許され領地まで与えられた。景清は頼朝に二心を抱かぬ誓いに両目をくり抜いたという。この因縁から「あざ丸」を手に入れたものには目に災いが起こると考えられ熱田神宮に収められた。すると長秀の目はたちまち治ったという。
これは『信長公記』にある話であるが上方落語に「景清」というネタがあり、主人公が両目を患い清水寺(景清は頼朝暗殺に失敗して源氏の世は見たくないと両目をくり抜いて清水寺に奉納したという言伝えがある)に願掛けに行くものである。また宮崎にはくり抜いて飛んできた景清の眼を祀った生目神社があり眼病を治すという。
663年の白村江の戦いで滅亡した百済の王子沙門金珠が一族をつれ日本に逃れてきて、大垣城本丸の西にあった牛屋村に草庵を結んだ。牛尾坊といい天武天の祈願所でもあった。百年以上経ってここを訪れた空海は真言密教の経典がすでにここに祀られていたのに驚き、真言密教の霊地とし牛尾山大日寺遮那院と名を改め、大日如来・不動明王・愛染明王を本尊とした。
1540年頃、寺は大垣城築城にあたり現在の場所へ移された。1784年時点では729坪あった。関ヶ原合戦の前哨戦となった杭瀬川の戦いの首実家はここで行われた。江戸時代は御朱印地として保護されたが、明治元年の神仏分離令により遮那院と八幡神社を司っていた別当牛屋氏が八幡神社の宮司となったので遮那院は廃寺となった。
その八幡神社は1331年〜1336年頃勧進された。東大寺荘園だった大垣(当時は安八郡大井荘)では東大寺鎮護神・手向山八幡を氏神に迎えようと考えた。そして大井荘十八郷を代表して藤江新八が藤江村の「皀夾(さいかち)の森」に八幡神社を勧進した。現在の地に移るのは1451年のことである。
【探索のヒント】遮那院跡@は市営清水駐車場の西、「ホテルグッディ大垣」の裏の墓地です。国道258号線「伝馬町交差点」を東へ100m行くと藤江神明神社A【MAP】があり、「皀夾之森元八幡宮」の説明看板が設置されています。ここよりさらに東へ行った回向院の南の八幡橋辺りに八幡神社があったとも言われています。現在の八幡神社B【MAP】は大垣城の北西、堀の外にあります。
これらの場所は大垣駅を起点にして徒歩で十分に行ける距離にあります。車の場合は駅周辺の駐車場に車を止めることをお勧めします。
【鉄道】JR東海道線・養老鉄道・樽見鉄道「大垣駅」
●遮那院跡:【駐車場】なし 路上駐車可
【バス】名阪近鉄バス川並、ソフトピア線「別院前」
●藤江神明神社:【駐車場】なし 路上駐車不可
【バス】名阪近鉄バスソフトピア線「藤江町3丁目」
●八幡神社:【駐車場】専用駐車場
【バス】名阪近鉄荒尾、赤坂、岐垣線「宮町」
@A
C竹ヶ鼻城―羽島市竹鼻町【MAP】
竹ヶ鼻は江戸時代、美濃街道の富田で分かれ駒塚の渡しで木曽川を渡り、大垣へ向かう竹鼻街道の途中にある商業の町であった。竹ヶ鼻のある葉栗郡は信秀時代、織田伊勢守家の領地であったが土岐氏も進出し、ここを本拠とする竹腰氏は織田土岐両氏に誼を通じていた。天正14年の大洪水で木曽川の流れが大きく変わり葉栗郡は分断、これを羽柴秀吉が尾張国葉栗郡と美濃国羽栗郡に分割した。現境川が昔の木曽川と言われる。
竹ヶ鼻は竹腰一族の本拠のひとつで竹ヶ鼻城は竹腰伊豆守が応仁年間に築いたと『美濃古城史』にある。伊豆守を尚隆とするものもあるが、尚隆は道三・義龍に仕えた西美濃18将の一人竹腰摂津守守久(尚光)の子で時代的に合わない。羽島市歴史民俗資料館のHPでは尚孝としている。次の城主は長井豊後守利隆で長井新左衛門尉を土岐氏小守護長井長弘に紹介した人物と言われる。また新左衛門尉の受領名豊後守から利隆と同一人物との説もある。利隆が加納城へ移ると長井隼人正道利(利隆の子、道三の弟または子の説あり)が城主となる。道三・義龍・竜興に仕え、信長の美濃攻略後もそれに従わず敵対し続けた。信長時代には美濃の三不破と言われた不破権内綱村、その子不破源六広綱が城主となる(『武功夜話』)。ただ『武功夜話』より信ぴょう性の高い史料では不破河内守が初見とされる。この河内守を府中三人衆の一人不破光治とし権内綱村は光治とする方もいる。広綱は光治の次男である。
竹ヶ鼻城が史料に残っているのは秀吉の水攻め、関ヶ原合戦の前哨戦での攻防戦で最後の戦いで落城して廃城となる。
【探索のヒント】現在は羽島市歴史民俗資料館前に竹ヶ鼻城の碑@が建っておりこの付近が本丸であったと考える新説が出たからだそうです。もとは名鉄竹鼻線を挟んで西側の丸の内町3丁目が城跡とされていました。ただ両方とも城跡を示すものは発見されておらず、絵図でその姿を見ることができるだけです。資料館の周辺には堀跡だったらいいのにと思わせる水路Aはあります。先に書いた攻防戦の舞台となった記述が史料に見られるので城はちゃんとあったと考えられています。
【駐車場】羽島市歴史資料館駐車場
【鉄道】名鉄竹鼻線「羽島市役所前駅」
【バス】羽島市コミュニティバス市内線青バス「昭和町」
@A
B
D茜部神社―岐阜市茜部寺屋敷3丁目【MAP】
病の床にあった桓武天皇の娘朝原内親王は自分の死が近いことを悟り、残される桓武天皇と母酒人内親王のため大般若経と金剛般若経を唱えてもらうため、自分の所領を東大寺に寄進して欲しいと遺言した。茜部荘(960年厚見荘から改称)はその所領の一つである。
830年宇佐八幡宮の10番目の分社として茜部神社が創建され、832年には空海が神宮寺である成就寺を建立した。加納城の守護神として土岐氏の信仰も篤かった。江戸時代、10月15日の祭礼には加納城から30余騎の騎馬行列が参拝に来て、流鏑馬や走馬式を行った。
道三が聖徳寺で信長と会見した帰りここで一服したという。1556年長良川の戦いの戦火に遭い焼失。その後織田家により再建された。
【探索のヒント】茜部地区は北は加納高校・加納中学校、東は境川、南は岐阜市食肉地方卸売市場、西は天王公園までとする地域です。県道183号線岐阜街道の境川1丁目交差点を左折すると神社@はあります。カーナビでの案内で行くと参道Aの方へ連れて行かれました。寺屋敷公民館横に車を止めることができます。空海が開いた成就寺は神仏分離令で廃寺となりましたが参道には弘法大師の碑が建ったお堂Bがあります。
【駐車場】あり
【鉄道】名鉄竹鼻線「西笠松駅」
【バス】岐阜バス茜部三田洞線「寺屋敷」
@A
E利政の娘
道三の娘は美濃の姫を意味する濃姫がもっとも知られた呼び名で他に帰蝶(後世の創作とも)、鷺山殿(実際生まれたのは稲葉山城)、安土殿(安土城にいたか不明)がある。信長に嫁いできたのは15歳の時といわれる。その時信長は16歳。天文3年(1535)生まれで母は斎藤道三の正室小見の方。信長の正室ではあったが二人の間に子供は無く、やがて資料からその名は消えていった。
そこで濃姫のその後がクローズアップされてくる。本能寺の変で信長とともに死んだという話は最近では見かけなくなった。道三が死んだことでもはや濃姫の役割が終わって美濃に帰されただとか、信長に殺されたとかの話はある。一説には本能寺の変後、蒲生氏郷がかくまった女性たちの中に「安土殿」と呼ばれる人物が居り、それが濃姫ではないかといわれている。ちなみに大徳寺總見院には濃姫の墓といわれるものがある。それによると死亡したのは慶長17年(1612)7月9日享年78歳だった。
【探索のヒント】濃姫の銅像@は清須城の広場にあります。濃姫の墓Aは大徳寺總見院の特別拝観期間内に見学する事ができます。
●清須城【MAP】
【駐車場】清須城専用駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「新清洲駅」
【バス】きよすあしがるバスオレンジルート「清州市民センター」
●大徳寺總見院【MAP】
【駐車場】大徳寺専用駐車場
【バス】京都市バス「大徳寺前」
@A
B
F万松寺―愛知県名古屋市中区3丁目【MAP】
信秀の葬儀での信長の奇行は誰でも知っているところである。まだ尾張統一もままならず、さらに今川氏との争いも決着がついていない状況で急死した信秀に対する怒りと理解者を失った悲しみから抹香を信秀の位牌に投げつけたのだろうか。
ところで『信長公記』の「備後守病死の事」が一般に信秀の葬儀の様子と言われているがこれに異を唱える見解がある。{信長公記}には信秀の叔父大雲永瑞大和尚が「銭施行」を開き3百人僧侶が集まったと確かに書かれている。そこへ現れたのが信長と信勝とその宿老であり、その他の一族の記載がされていない。それ故葬儀のような重大な式典ではなかったのではと推測される。そして信長の抹香投げは結局尾張統一を果たせなかった信秀の影を断ち切り、尾張統一は自分が成し遂げてやると言う信長流決意表明だったと考える事もできる。また何かと問題ありとされる「武功夜話」には「葬儀は執り行われずその死は3年間秘された」とある。
また『絵本太閤記』にある信秀の死に関する出来事としてある時信長は自領を通る僧侶をことごとく捕らえ監禁した。信長のうつけぶりを知っている僧侶達は死を覚悟した。4月下旬なり信長は捕らえていた僧侶に対し「亡父の四十九日である本日、千僧供養をしたいためそなた達を留め置いた。父のためどうか読経供養をお願いしたい」と申し出たと言う話を紹介している。
一方宣教師の話として信秀が病に倒れた時、信長は僧侶達に祈祷すれば信秀公は助かると言われた。しかし祈祷の効果なく信秀は死んだ。すると信長はその僧侶達を寺院に監禁して「お前達の命乞いを仏像にしてみろ」と言い放ち、その寺を包囲して弓鉄砲を撃ち掛けた。これにより数人が死亡したと言う事である。
万松寺は元は中区錦から丸の内付近にあったが名古屋城造営に当たって今の場所に移された。天文8年(1540)、信秀によって建立。開祖は現瀬戸市赤津の雲興寺の八世だった信秀の伯父、大雲永瑞大和尚。信秀が夢で見たのとそっくりな場所に建てられた。そこには縁起のいい亀が多く棲む森だったことから亀岳山万松寺と名づけられた。徳川家康が幼少時人質として尾張にいたとき、ここで過ごした事もある。
【探索のヒント】万松寺@のある大須は名古屋のど真ん中にある繁華街です。北には名古屋の商業の中心栄があるので交通の便はいたって良好です。商店街にお寺があり、お堂の横の階段を下り地下道を進むと信秀のお墓Aがあります。なお本堂の上のほうで毎日十時、十二時、十四時、十六時、十八時に信秀の葬儀と敦盛を舞うシーンの信長のからくり人形Bが見ることが出来ます。
【駐車場】周辺の有料駐車場
【鉄道】名古屋市営地下鉄名城線「上前津駅」
【バス】名古屋市営バス栄系統・中巡回「上前津」
@
AB
【寄り道】桃巖寺―愛知県名古屋市千種区四谷通2丁目【MAP】
信勝は信秀の菩提を弔うためその法名を付けた曹洞宗の寺を創建した。最初、穂並町にあったが松竹町へ移転。だが山崎川の源流である猫ヶ洞の氾濫に度々見舞われたので1712年に現在の場所へ再度移転した。
桃巖寺の信秀廟所はもとは月見坂町にあったものを移したものである。廟所(信秀塚)といっても信秀の墓石と小さな五輪塔3基があるだけだった。そこで信秀没後4百年にあたる1951年、墓石と五輪塔を境内に移すことになった。その際、墓石は現在の大五輪塔に作り変えられ、さらに墓石下から見つかったお骨は経文と一緒にその下に埋められた。
信秀は流行病のため天文18年または天文20年または天文22年に死去したとされる。だが19年11月1日以降信秀の発給文書がないこと、20年9月20日付信勝発給文書に法名でない「備後守」とあること、21年10月21日付織田玄蕃允宛判物で法名「桃岩(巖)」が使われていることこと、命日が3月3日または9日であることから、天文21年3月が死亡年月とするのが今では通説となっている。ところで天文13年の美濃攻め失敗、天文16年の後援者だった清須織田の離反、天文17年の小豆坂での敗北、天文18年の安祥城陥落と信秀の凋落ぶりは誰の目にも明らかであった。信秀はこの事態に織田家臣団の結束を固めるため身を引いて信長を後継者に指名した。その後ろ盾が道三であったのが決断を後押ししたといえる。
【探索のヒント】桃巌寺は名古屋駅の南、国道19号線と平行に走る県道60号名古屋長久手線を東山公園方面へ向かいます。「本山交差点」で左折。陸橋を過ぎた左に専用駐車場があります。入口はその少し先です。山門@をくぐってすぐ左が信秀の廟所Aで奥に五輪塔Bがあります。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名古屋市営地下鉄名城線「本山駅」
【バス】名古屋市営バス千種巡回「四谷通2」
@A
BC
D
G平手政秀
政秀はドラマなどで描かれる四角四面の人物ではなく、風流人として和歌や茶道にも造詣が深く派手好みだった。また政秀の屋敷(勝幡城時代)は招かれた山科言継が書き残すほど見事な美しさを持つ作りであった。
1540年後奈良天皇が禁裏修理を幕府に申し出て幕府が全国の大名に献金を募ったもののなかなか献金が集まらなかった。1543年2月になり信秀は金4千貫(1千貫説あり)の献上を決め名代として政秀を上洛させた。今川義元ですら5百貫しか献上しなかったのに、守護代の陪臣の身でこれだけの金子を用意した信秀という人物は上方で話題となった。その名代と言う事で政秀は各所で歓待され、畿内での滞在は3カ月に及んだ。『天文日記』には5月17日大坂本願寺で門主証如と対面、「門徒に対して一段の悪勢の者」ゆえ本願寺側が丁重に酒肴で接待したことが書かれている。
信定時代より織田家に仕える政秀は外交・財政・文化面に才能を発揮した。また幼い時より接してきた信秀も政秀を高く評価し信長の傅役とした。傅役筆頭の秀貞は織田家の将来のため信長排斥に動いたが、政秀は信秀のため信長を立派に育て上げようとした。
だが信秀存命中に信長を一人前にできなかった。その責任を感じ政秀は自害して果てた。果たしてそうなのか。自刃の前年、政秀は信長が赤塚と萱津で合戦して結果を残したことを知っているはずである。にも拘らず素行を問題にして「盛り立て験なく候へば」(『信長公記』)と自害しているのは疑問である。
信勝派が優位になったので立場が悪くなった政秀は自害したとする説もある。これも先の合戦の結果や信長の叔父信光が清須城奪取まで信長の味方だった事を考えると信長派に属する政秀が自決するほど不利であったとは言えない。
信長を理解できなくなった政秀は秘かに信勝陣営に寝返ったが、先の二合戦で自分の判断が間違っていたと気付いた。信長の許へ戻ろうとした政秀だったが信勝派の政秀裏切りを信長に知らせるという脅しに進退極り自害したとする説もある。政秀ぐらいの人物なら信長に謝罪したであろうし、信長が裏切りに厳しくなったのはかなり後のことで許された可能性は高い。
政秀長男五郎右衛門は信長から馬を譲るように言われたがこれを拒否。政秀はこの無礼を詫びるため自決したという説は諌死説や露見説よりは説得力がある。信長と我が子の諍いに自決という手段をとったことで信長は政秀への謝罪の気持ちで政秀寺を建て平手一族は政秀の死を無駄にしないよう信長と和解したと考えられるからである。
【探索のヒント】志賀城とも言われる平手政秀の屋敷は志賀公園@【MAP】にありました。というより屋敷跡を公園化したのでかなり広い敷地だったと思います。現在ある池も屋敷内にあったものが元になっているのかもしれません。
平手氏は小牧市小木の小木城(織田小宰相宅)を本拠に5代100年間過ごしました。その跡地に政秀寺が建てられました。開山は沢彦和尚。所在地は世尊寺A【MAP】の東側と想像されています。ただ政秀寺の瓦が発掘されたり、平手氏から宇都宮神社B【MAP】に木製狛犬奉納されているので平手氏と小木は縁があるのは事実です。小牧長久手の戦いで政秀寺は焼け、1585年清須で再興、1610年清州越えに伴い現在地C【MAP】へ移りました。
太平洋戦争後の復興計画で名古屋市中心部の寺院の墓は平和公園へ移されました。それに伴い政秀寺にあった政秀の墓D【MAP】も平和公園へ移されました。平和公園には各寺院の区画があり、猫ヶ洞池近くに政秀寺の墓地区画があります。その区画の名古屋市内を見下ろす丘の上に墓はあります。
●志賀公園
【駐車場】公園内駐車場
【バス】名古屋市営バス黒川14系・北巡回「志賀公園前」
●政秀寺
【駐車場】若宮パーク(貸し自転車サービスあり)
【鉄道】名古屋市営地下鉄名城線「矢場町駅」
【バス】名古屋市営バス名駅17系「若宮」
●平和公園
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名古屋市営地下鉄東山線「東山公園駅」
【バス】名古屋市営バス星丘11系「平和公園南」
H正徳寺(聖徳寺)―愛知県一宮市富田大堀【MAP】
信秀が死んだ年の6月22日、道三は信秀の叔父織田玄蕃允秀敏に「信秀の死で弾正家が混乱していると美濃にも伝わっている。信長は若く色々噂のある人間だが、どうか見放さず良き相談相手となってほしい。当方に相談事があればいつでも使者を送ってもらって構わない」という手紙を送っている。
戦国乱世に放り出された10代の婿が道三は心配でならなかった。だが信長はこの手紙の後の萱津合戦で清須勢に勝利している。道三はうつけと呼ばれ、古参の家臣からは白い目で見られながら、戦いには類稀な統率力を発揮する信長の器量をその目で確かめたくなり会見を申し込んだ。
これに対し信長は今の手勢だけでは戦い続けられないのは自覚していた。道三の会見申し込みは渡りに船だった。
会見場所は濃尾国境に近い富田聖徳寺。富田は本願寺の寺内町として栄え、濃尾領国から干渉されない特権を与えられていた中立地帯であった。そのためこの地が選ばれた。
【探索のヒント】名神高速道路の脇の道を一宮方面から西へ向かいます。「富田交差点」を右折、県道129号線へは入りません。750m走った左側に史跡はあります。この近辺に車を止める所はないので、史跡前にできるだけ左へ寄せて車を止めました。さっさと写真を撮って退散しました。
【駐車場】なし
【バス】一宮市循環バス尾西南コース「聖徳寺前」
【寄り道】天神の渡し
正徳寺の会見後、道三は美濃路を尾張へ戻る信長をここで見送ったという。木曽八流の一つ萩原川(原日光川)の渡しだったが、現木曽川ができた天正14年の洪水により、萩原川は板橋で渡れる程度の狭さとなり、渡しは起へ移った。
【探索のヒント】天神の渡し跡は、県道136号一宮清須線の「西萩原交差点」を東へ400m行った天神神社@(一宮市西萩原葭山【MAP】)と日光川を挟んで南東500mにある天神社A(一宮市萩原町萩原松山【MAP】にあります。天神社に碑文Bがありますが、道三が見送ったのは、美濃街道に近い天神神社の方だったと思います。
【駐車場】路駐
【鉄道】名鉄尾西線「二子駅」
【バス】名鉄バス起線_03_on「西萩原」
SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO