| @柏井―春日井市柏井 |
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| A濃姫―西春日井郡清須町 濃姫の墓―京都市北区紫野大徳寺町 濃姫が信長に嫁いできたのは15歳の時といわれる。その時信長は16歳。天文3年(1535)生まれで母は斎藤道三の正室小見の方。信長の正室ではあったが二人の間に子供は無く、やがて資料からその名は消えていった。そこで濃姫のその後がクローズアップされてくる。本能寺の変で信長とともに死んだという話は最近では見かけなくなった。道三が死んだことでもはや濃姫の役割が終わって美濃に帰されただとか、信長に殺されたとかの話はある。一説には本能寺の変後、蒲生氏郷がかくまった女性たちの中に「安土殿」と呼ばれる人物が居り、それが濃姫ではないかといわれている。さらに大徳寺總見院には濃姫の墓Aといわれるものがある。それによると死亡したのは慶長17年(1612)7月9日享年78歳だった。 |
| 【散策のヒント】濃姫像@は清須城の裏にある公園の片隅に建っています。お墓Aは總見院にあるので特別拝観日に合わせて見に行かれるとよいと思います。ともに観光地ですのでマイカーでも電車でもいけます。 |
| ●清洲城
【MAP】 【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】名鉄名古屋本線「新清洲駅」 ●大徳寺總見院 【MAP】 【駐車場】専用駐車場 【最寄りのバス停】京都市バス「大徳寺前」 |
| @ B ![]() |
| B信秀墓所―名古屋市中区3丁目・名古屋市千種区四谷通2丁目 信秀の葬儀での信長の奇行は誰でも知っているところである。まだ尾張統一もままならず、さらに今川氏との争いも決着がついていない状況で急死した信秀に対する怒りと理解者を失った悲しみから抹香を信秀の位牌に投げつけたのだろうか。 ところで「信長公記」の「備後守病死の事」が一般に信秀の葬儀の様子と言われているがこれに異を唱える見解がある。「信長公記」には信秀の叔父大雲永瑞大和尚が「銭施行」を開き3百人僧侶が集まったと確かに書かれている。そこへ現れたのが信長と信勝とその宿老であり、その他の一族の記載がされていない。それ故葬儀のような重大な式典ではなかったのではと推測される。そして信長の抹香投げは結局尾張統一を果たせなかった信秀の影を断ち切り、尾張統一は自分が成し遂げてやると言う信長流決意表明だったと考える事もできる。また何かと問題ありとされる「武功夜話」には「葬儀は執り行われずその死は3年間秘された」とある。 また「絵本太閤記」にある信秀の死に関する出来事としてある時信長は自領を通る僧侶をことごとく捕らえ監禁した。信長のうつけぶりを知っている僧侶達は死を覚悟した。4月下旬なり信長は捕らえていた僧侶に対し「亡父の四十九日である本日、千僧供養をしたいためそなた達を留め置いた。父のためどうか読経供養をお願いしたい」と申し出たと言う話を紹介している。 一方宣教師の話として信秀が病に倒れた時、信長は僧侶達に祈祷すれば信秀公は助かると言われた。しかし祈祷の効果なく信秀は死んだ。すると信長はその僧侶達を寺院に監禁して「お前達の命乞いを仏像にしてみろ」と言い放ち、その寺を包囲して弓鉄砲を撃ち掛けた。これにより数人が死亡したと言う事である。 万松寺は元は中区錦から丸の内付近にあったが名古屋城造営に当たって今の場所に移された。天文8年(1540)、信秀によって建立。開祖は現瀬戸市赤津の雲興寺の八世だった信秀の伯父、大雲永瑞大和尚。信秀が夢で見たのとそっくりな場所に建てられた。そこには縁起のいい亀が多く棲む森だったことから亀岳山万松寺と名づけられた。徳川家康が幼少時人質として尾張にいたとき、ここで過ごした事もある。 もう一つ信秀の墓所は信秀の法名から名付けられた桃巌寺である。信勝が信秀の菩提を弔うため末盛城の南、穂並町に建立した。その後松竹町へ移ったが猫ヶ洞の度重なる洪水のため現在の四谷通に移った。曹洞宗の寺である。 |
| 【散策のヒント】まず万松寺のある大須は名古屋のど真ん中にある繁華街です。北には名古屋の商業の中心栄があるので交通の便はいたって良好です。商店街にお寺があり、お堂の横の階段を下り地下道を進むと信秀のお墓があります。なお本堂の上のほうで毎日十時、十二時、十四時、十六時、十八時に信秀の葬儀と敦盛を舞うシーンの信長のからくり人形Bが見ることが出来ます。桃巌寺は名古屋駅の南、国道19号線と平行に走る県道60号名古屋長久手線を東山公園方面へ向かいます。「本山交差点」で左折。陸橋を過ぎた左に専用駐車場があります。入口はその少し先です。山門をくぐってすぐ左に信秀のお墓があります。 |
| ●万松寺
【MAP】:【駐車場】周辺の駐車場を利用 【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄名城線「上前津駅」 【最寄りのバス停】名古屋市営バス栄系統・中巡回「上前津」 ●桃巌寺 【MAP】:【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄名城線「本山駅」 【最寄りのバス停】名古屋市営バス千種巡回「四谷通2」 |
| @ B ![]() |
| C平手政秀関連 平手政秀は清須勢との和睦や道三との同盟、濃姫の輿入れなどで政治力を発揮した。平手氏は清和源氏新田氏が祖といわれる。尾張の豪族として力をつけ、山科言継が尾張を訪れた際に平手屋敷の見事な造りに感嘆した。織田家中でも重きをなした政秀がどうして切腹したのかは不明である。信長の「うつけ」ぶりを諌めての自刃説は最近ではあまり聞かなくなった。信長公記にある政秀の長男の駿馬を信長が望んだが譲らなかったという話から主従関係が悪化して立場が悪くなったため自決したと言う説や信長に見切りをつけた政秀がクーデターを計画したが露見したため切腹したとする説まである。ただ政秀の死を悼んで天文22年政秀寺Aを建て、その後も平手一族が織田家に仕えていた事を考えると両家に回復不可能な諍いがあったとは思われない。しかし政秀の死で信長に変化はなかった。 |
| 【散策のヒント】平手政秀の屋敷跡は名城公園の真北、志賀公園にあります。名城公園の東、大津通りを北へ進み、「志賀公園前交差点」を左折、金城コミュニティセンターの横から公園内に入るとすぐ左に駐車場があります。グラウンドの北、池の東の木立の中に碑があります。 政秀寺は大宮通に面する白川公園の東にあります。信秀の墓所万松寺も近いので駐車場を利用して一緒に見学することをおすすめします。 政秀の墓は平和公園にあります。行き方は色々あります。公園内に入ると「猫ヶ洞池」を目標にしてください。駐車場もありますし広いので路駐も可能です。池の近くが政秀寺墓地となっています。そこから石段を天辺まで登るとお墓があります。標高63メートルの所なので名古屋市内を一望できます。 |
| ●志賀公園(名古屋市北区平手町2丁目)【MAP】 【駐車場】公園内駐車場 【最寄りのバス停】名古屋市営バス黒川14系・北巡回「志賀公園前」 ●政秀寺(名古屋市中区栄3丁目)【MAP】 【駐車場】若宮パーク(貸し自転車サービスあり) 【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄名城線「矢場町駅」 【最寄りのバス停】名古屋市営バス名駅17系「若宮」 ●平和公園(名古屋市千種区平和公園2丁目)【MAP】 【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄東山線「東山公園駅」 【最寄りのバス停】名古屋市営バス星丘11系「平和公園南」 |
| D正徳寺 |