経過 |
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織田弾正忠信秀は因幡守・藤左衛門と共に守護代清須城①織田大和守達勝の奉行という身分であった。だが勝幡城②を本拠にした父織田信定が伊勢湾の一大港町津島③を支配していたのを受け継いだ信秀はその経済力を背景に他の奉行、さらには守護代を凌ぐ実力を付けてきた。
天文3年(1534)5月12日(11日、28日説あり)その信秀と正室土田御前の間に織田信長(吉法師)が誕生した。信秀にとっては三番目(二番目の説あり)の子であったが、嫡子であったので織田弾正忠家の跡継ぎとして育てられることになる。 天文7年(1538)信秀は尾張の今川勢力を排除するため、那古野城④の今川氏豊を放逐し城を手に入れた。那古野城を手に入れたことで尾張のもう一つの港湾都市熱田も支配することとなった信秀の勢力はさらに増した。そして次の標的を三河としたのだが、内紛が起こっていた美濃へ軍事介入しようとする尾張守護斯波義統の命令で美濃へも出兵を余儀なくされた。その後、三河では今川義元が参戦、足元尾張では信秀の台頭に反発した清須城代坂井大膳が敵対し、信秀は身動きが取れなくなった。これを打開するため天文17年(1548)宿老平手政秀を美濃へ遣わし、斎藤道三と和睦しその娘帰蝶と信長の婚儀をまとめさせた。道三と同盟すると尾張国内の反信秀勢力も静まった。この年信秀は対今川に専念するため、天文13年(1544)に信長に那古野城を譲ったのち居城として来た古渡城⑤から新たに築いた末盛城⑥へ移ったのであった。 |
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