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@清須城―清須市清須3丁目 【MAP】
清須城の築城については永和元年(1375)説(海邦名勝志)、応永年間(1394から1427)説(張州府志清州志)、文明9年(1477)説(国府宮社記)がある。応永年間に富士遊覧に出かけた足利義教がその行と帰りに下津城へ投宿している記録があるので、清須城は砦程度のものであったと考えられている。
清須城を本拠とする織田大和守系の初代は敏定である。敏定を岩倉城の伊勢守敏広の弟とする説はあるがこれには確たる根拠がない。花押や記録から在京守護代常松または守護又代として尾張にいた常竹を祖先とするほうが確実である。いずれにしても大和守系と伊勢守系は同じ一族である。
足利義政が斯波家の家督について場当たり的な決定をしたため、斯波家中で義廉と義敏、家臣同士の対立が起こった。その中で義敏とその子義寛(義良)を支持したのが大和守敏定である。この争いは時期を同じくして起こった応仁の乱に巻き込まれて、義敏は東軍、義廉は西軍に属して戦った。
1475年西軍敗北で京から支持者の多い尾張へやって来た義廉に対し、翌(々)年幕府の命を受けた敏定が義廉のいる下津城を焼き払い、さらに1478年8月再度「尾張国凶徒退治」が命じられて敏定は9月に尾張に入る。この時、敏定が拠点としたのが清須城である。最初は優位に戦っていた敏定だったが、美濃の斎藤妙椿が娘(養女)婿敏広を支援したため、形勢が逆転、敏定は清須城に籠城せざるを得なくなった。文明11年正月、和議が成立、尾張6郡(尾張8郡中、知多郡・海東郡は一色氏のもの)のうち「2郡」または「1/3」が敏定のものとなったといわれるが明確な領地は不明である。そこで領地ではなく守護代職務の「1/3」の権限を得たと解釈する説がある。
こうして岩倉織田が清須織田に優位な関係で尾張国内は安定した。だが1481両家は再び争い今度は敏定が勝利する。この結果、岩倉織田が支持する義廉は越前に去り、敏定は新守護となった義寛を清須城に迎え、尾張守護代の主導権を握った。それでも支配領地は従来のままだったので1488年ごろから愛知郡に進出し出した。結果として清須織田は中島・海東・愛知郡を領有するようになる。
1495年6月に美濃守護土岐成頼廃嫡問題を発端にした斎藤利国(妙純)と石丸利光の戦い―船田合戦が起こる。斎藤氏には岩倉織田が石丸氏には清須織田が味方する構図で戦われた。9月に船田合戦は斎藤方の勝利で終わったが清須・岩倉の戦いは続いた。翌年4月利国仲介で両家は和睦した。この間敏定が病死、家督を継いだ寛定は戦死している。寛定の跡を継いだ寛村(敏定の子)の時代になりようやく尾張は落ち着いたが、寛村は3年で達定と交代した。その頃、斯波義達の分国遠江は1497年から始まった駿河今川氏親の侵攻により今川領になりつつあった。さらに西へ向かおうとする氏親に対し1510年義達は反撃を開始するが、1513年3月の戦いで敗北、尾張に逃げ帰った。この1〜2ヶ月後、義達と達定が対立して合戦に発展、達定が殺害される。8月に再度出陣した義達だったがまたしても敗北。義達は出家を条件に清須城へ送還され、以降斯波家は大和守家に保護される立場となる。
達定の死後、跡を継いだのはその嫡子達勝である。そして達勝が1516年に発行した判物に大和守家三奉行の記録が現れる。この三奉行とは1532年と1537年に三河松平家の尾張侵攻がきっかけに争いになっている。先の戦いはこの状況下に達勝が朽木谷の足利義晴帰京に兵3千を率いて加わったため織田信秀と達勝・織田藤左衛門の間で、後のものは松平信清の尾張守山侵入を受け、松平へ寝返ろうとした藤左衛門と達勝・信秀の間で行われている。この後、藤左衛門の名が各資料から現れなくなる一方、1538年8月から信秀は弾正忠を称している。
達勝の記録は1551年12月までで、1554年9月には大和守勝秀の名が出る(「尾張国寺社領文書」所収の写し)。勝秀は「信長公記」にある彦五郎信友とする説がある。諸説あり確定はされていないが、達勝には因幡守達広という弟(織田九郎広延の子説あり)がおり、その子が彦五郎で達勝の養子となっていたので大和守を継いだという仮説が分かりやすい。この彦五郎が大和守家の最後となる。
【探索のヒント】観光地化されているので駐車場の心配はありません。五条川の右岸が本来の城跡@です。13世紀末から14世紀かけて集落程度のものはありましたが、町の体裁が整うのは守護所となってからです。便宜的に守護所になってから織田信雄が清須に移ってくる1586年までを城下町開発の前期としています。現在摸擬天守Aのある付近は武家屋敷ありました。発掘調査では屋敷の周囲には3種類(15m・5m・1m)の溝が確認され、地位によりその幅が分かれていると考えられています。ただ、守護所時代と信長時代の区別は明確にはなっていません。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りの駅】名鉄名古屋本線「新清洲駅」
【最寄りのバス停】きよすあしがるバス「清須市民センター」 
 
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A勝幡城―稲沢市平和町城之内 【MAP】
敏定死後、当主が頻繁に変わる大和守家は守護代として役割を果たせない恐れが出ていた。それを補佐し代行したのが守護又代坂井氏や織田庶家であった。織田庶家の中で有力だったのが三奉行である。彼らは所領をもちその在地領主を配下とし勢力を拡大してきた。ちなみに三奉行のうち弾正忠家の序列は三番目であった。
その弾正忠家の系譜は1482年(文明14)の清須宗論の奉行としてその名がみられる織田良信(西巌<西岩>)が最初に確認できるがそれより前は不明である。良信は織田敏定と兄弟とも言われる。この頃は海西郡ではなく岩倉織田家の中島郡北部を領地としていた。その後を継いだ信定(月巌)は港湾都市津島に目をつけ1521年(大永元年)以降、武力で津島の支配を目論み津島衆と何度も戦いとなった。その拠点となったのが勝幡城であり、よって勝幡城の築城は大永年間以前と考えられる。1524年に信定と津島衆は講和し、弾正忠家の津島領有さらに岩倉織田領の海西郡を領地とした。そして1526年〜1527年の間に信秀が織田家を継ぐ。信秀は中島郡・海東郡の蔵入地と津島の経済力を背景に政治・文化・軍事面で着実に力をつけてきた。1531年(天文元)松平清康の尾張侵攻があるにも関わらず上洛した達勝とそれに同調する織田藤左衛門と信秀の間で合戦が起こる。これは和議が結ばれて終結したが、連合軍に負けなかった信秀の武勇は高まった。翌年、尾張を訪れた飛鳥井雅綱・山科言継一行は勝幡城と清須城に泊まったが、尾張下四郡の諸勢力はそのどちらかだけに出向くという行動をとった。信秀は清須織田家から離れることをしなかったが、その周辺では信秀派と守護代派が形成されていた。
【探索のヒント】県道121号津島稲沢線「那古良橋西交差点」を西へ曲がり、日光川手前の左側に碑@が建っています。以前は道端にあったのですが現在では整地された区画に看板付きで建っています。最近になって知ったのが嫁振橋Aから堤防を南へ230メートル行った土手の下にもう一つ勝幡城の碑Bがあることです。そこにある顕彰碑Cには「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」とあります。江戸時代に付け替えられた日光川Dにより勝幡城は東西に分断されましたが、本丸は西の1/3を失いながら東岸に残ったと考えられています。その場所が二つの碑のある所です。本丸の周囲には土塁、堀がありましたが宅地開発が進みその名残はもはやありません。
【駐車場】路駐 【最寄りの駅】名鉄津島線「勝幡駅」
 
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【寄り道】
小田井城―清須市西枇杷島町古城2丁目
【MAP】

織田藤左衛門尉家の居城。織田敏定が開催した法花宗論の奉行を務めた織田又七郎良縁が1490年(延徳2)藤左衛門尉を名乗ったのが始まりである。その子は筑前守良頼で1516年(永正13)12月の織田達勝の判物を補完する連署証状にその名が見られる。良頼は2度にわたり信秀と戦っている。一度目は達勝と組んで、二度目は本願寺派興善寺の支援を受けて達勝・信秀軍とである。『証如上人日記』の記述からこれ以降、藤左衛門家は一向衆に帰依したようである。
『言継卿記』には良頼は信秀の伯父とある。これを新井喜久夫氏は信定の兄弟の子と考えず、良頼の姉「いぬゐ」が信定に嫁ぎ信秀を生んだと考えておられる。『信長公記』にある三奉行の藤左衛門は良頼を指すとする説(柴裕之氏)、その子を指す説(新井氏)がある。『宗長日記』の「筑前守息藤左衛門宿所」という記述に関して、「筑前守」を良縁とするかどうかの違いである。この藤左衛門の子を虎寿、熊寿とするのは共通している。
なお「織田丹波守平常寛碑」は小田井城を築いたのは織田丹波守常寛とする。常寛は敏定の弟で尾張下四郡を支配し1506年(永正3)に没し、その後は藤左衛門寛故、藤左衛門寛維とする。
【探索のヒント】城跡公園@小田井城の碑Aが2基ありますが地籍図を見るとここは城跡ではなく西へ300メートル行った地点古城小学校付近Bになります。でも学校の地名は「城並」で、地籍図では「城並」の西の「古城」が城跡になっています。すると県道126号線の西Cとなりますが、二重堀の遺構らしきものはなく枇杷島公園DEまでを城跡と考えていいのかどうかわかりません。
城跡公園、枇杷島公園の周辺には駐車場がないので公園横に路上駐車することになります。城跡公園の方は比較的道幅もあり止めやすかったのですが、枇杷島公園の方は道は細く平日午前10時ごろでありながらすでに路上駐車だらけでした。
【駐車場】なし 路上駐車
【最寄りの駅】名鉄犬山線「下小田井駅」
【最寄りのバス停】きよすあしがるバス「城並二丁目」
 
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B津島―津島市
港町、門前町で栄えていたイメージの強い津島だが13世紀に著された『海道記』には養蚕業を主とする桑畑の広がった農村と記録されている。また伊勢と尾張との入口だった津島湊(12世紀ごろの名は馬津)もこの時代は船の係留地程度でしかなかった。
一方、927年成立の延喜式に名前のなかった津島神社が1175年『七寺一切経』巻末『印記』では津島社が尾張では熱田に次ぐ社格となっている。それは本地垂迹説により生まれた水の神・厄疫退散の神である牛頭天王を祀る津島社が、八坂神社以東の代表的神社となり多くの末社を持つようになったからである。以降、明治元年の神仏分離令が出るまで津島牛頭天王社といった。
津島が港湾都市として繁栄を見せるのは南北朝の頃になってからである。湊が物流の拠点となり人と物が集まりだすと、農村も桑畑から市で売れる農作物を作るようになり富を蓄えだした。折からの荘園崩壊を受け津島の農民は自治組織「惣」を形成した。五ヶ村(米之座・堤下・筏場・今市場・下構)と言われるもので、この惣村を中心に津島は発展していった。
【探索のヒント】津島には無料駐車場、有料駐車場がいくつもあるので駐車には困りません。私は天王川公園東にある無料駐車場を利用し約3時間歩き回りました。津島神社@A【MAP】は公園の北西5分ほどのところです。津島湊は天王川公園の摸擬常夜燈のところではなく城之腰付近B【MAP】であったと考えられています。
米之座(現米之座町、米町)は米を扱う市のあったところと言われます。ここには1381年創建された津島牛頭天王社の末社
市神社C【MAP】あります。祭神は宇賀魂神で津島神社の境内末社米之社(元は米御前社)と同じです。「米御前の神が座す所」から米之座という地名になったという説があります。
堤下(現本町2丁目)は五ヶ村で一番早く集落ができた所で、ここを中心に他の村ができました。津島社の鳥居の正面にあたるので、金燈籠(現在津島神社に保管)を置いて遙拝所とし、その後ここに祠が作られると
金燈籠社(現堤下社)D【MAP】という名にしました。ついでに町の表記は「燈下町」→「峠町」→「堤下町」と変わっています。
筏場(現筏場町)はその名の通り筏の繋ぎ場所でした。津島神社や寺院建築が盛んになりその資材は筏で運ばれ、
車河戸E【MAP】という入江で陸揚げされました。筏場には富裕層が多く住んでいたそうです。かつて浄阿弥寺のあった場所に筏場神社F【MAP】があります。
今市場(現今市場町)は馬の売買をした市があり、馬市場が転じて今市場になったという説があります。
橋詰G【MAP】を起点とする津島下街道の番所がありました。ここにある妙延寺H【MAP】の九世日順は幼少期津島にいた加藤清正に手習いを指導したと言われています。これが縁で清正は日蓮宗徒となり、領国肥後で日蓮宗寺院の建立に熱心だったと言われます。
下構(現南本町)は厨子・中島(現本町4丁目)が下村(上村は米之座)と呼ばれ、その南に作られた新在家だから「下村の前」「下ヶ前」といい「下構」と書いたのが名前の由来とする説があります。また下村と新在家の間には水路があり下村の堀の役割をしていました。こうした防御設備を「構え」と呼んだことから「下村の構」付近の村だから「下構村」となっという説もあります。
【駐車場】天王川周辺に無料駐車場
【最寄りの駅】名鉄尾西線「津島駅」
 
津島の発展に伴い鎌倉仏教が進出してきました。津島の有力者と結びついた各宗派の寺院が今も多く残っています。
津島駅の西にある
興禅寺【MAP】は曹洞宗で1381年創建、牛頭天王社筆頭社家堀田右馬太夫家の菩提寺です。
 
その隣、蓮台寺【MAP】は浄土宗で1262年堀田尾張守正重の創建とされますが、『浪合記』では正重が津島に来たのは1436年としています。信長・信忠から寺領安堵の判物が残され織田家に庇護されました。なお山門は赤目城(愛西市)の城門です。織田信濃守屋敷でもありました。
 
清林館高校前の弘浄寺【MAP】は永禄年間創建の浄土宗鎮西派の寺院です。平野治太夫の屋敷で長島攻めの際、信長が滞陣したため焼討ちに遭ったと言いま
 
清林館高校の東側、現中野町【MAP】 ・大政町・明天町が旧中野町で県指定無形文化財「くつわ踊り」の伝承地です。堀田道空邸で信長が「女おどり」を披露、このお返しに五ヶ村の年寄が清須まで出向いて踊った「おどり」を指すと言われます。この踊りは津島社と八剣社に奉納されました。
 
さらに西へ行くと蓮台寺を「東之御堂」と呼んだのに対し、「西之御堂」といわれた。堀田家の菩提寺西福寺【MAP】 があります。堀田家代々の位牌を安置しています。
 
西福寺の東向かいにあるのが瑞泉寺【MAP】です。良王親王が1492年死去し瑞泉寺殿と号したのが名前の由来です。1494年3月5日津島社に御前大明神として祀られ、同時に寺が瑠璃小路に創建されました。1517年寿慶和尚により現在の場所へ移されました。良王親王の他、大橋一族の菩提所です。
津島駅から西へ行く県道129号尾西津島線沿いも多くの寺があります。
 
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常楽禅寺@【MAP】は津島社神主氷室氏創建の曹洞宗の寺で氷室兵部少輔家の菩提寺Aです。また大橋家の菩提所でもあります。氷室家は良王君の子孫として代々津島社神主家を継いできました。元は紀氏だったといいます。織田家が津島を完全に支配していた証拠として氷室家との関係が取り上げられます。天文9年、天文11年、天文21年、元亀2年の判物で借金に苦しみ姿をくらます氷室家を助けようと色々手を打っていることが分かります。もはや津島社神主職は織田家の援助なしでは立ち行かない立場でした。ところで三重県鈴鹿市に桃林寺という寺があり、そこの銅鐘は三重県最古のもので県指定有形文化財となっています。この鐘は秀吉の亀山城攻めの時に常楽禅寺から持ち去られたものと判明しています。
 
常楽禅寺の西隣りは西方寺HMAP】です。現在天王通り4丁目のここは「布屋」という地名でした。湿地帯で「沼之谷」が転じて「奴ノ野」となった説があります。西方寺が建つ前は大橋三河守定高が築いた奴野城がありました。天正の頃廃城となり1747年に寺ができました。
 
さらに西へ行くと成信坊【MAP】があります。堀田新右衛門屋敷とのことです。真宗大谷派で長島合戦の時、住職だった祐念上人は門徒衆の加勢に行き五明で教如を守り戦死します。これを称え成信坊は本願寺より「津島御坊」の名を与えられました。
 
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成信坊の西の道が津島上街道@【MAP】で北へ行くと市神社と宗念寺A【MAP】があります。堀田正道が後援して1453年建てられた時宗の寺です。光浄庵という名前で1735年観音寺、1859年今の名前になりました。
 
上街道を北へ広い道を渡ってさらに進んだ左側にある大龍寺【MAP】は津島湊のそばで問丸も営んでいました。寺ではその利益を織田家の軍資金に用立てる代わりに、織田家から保護を受けていました。それは寺に残された信忠の禁制から窺えます。また尹良親王の菩提寺でもあります。
 
大龍寺前の道を東へ行くと雲居寺【MAP】 があります。1440年服部伊賀守宗純が創建した曹洞宗の寺です。服部小平太は宗純の子孫にあたります。そうした縁から服部家の依頼で義本の菩提をこの寺で弔っています。
 
東隣りは津島で最古の寺院の一つ不動院【MAP】です。1400年に真言宗寺院甘露王寺として創建。以降、大聖院→正覚院→清泰寺→清泰寺正覚院→松尾山清(昌)泰寺不動院と名前を変えます。宗長が尾張を訪ね、津島で泊まったのがここです。
 
信長関連として信長が天王祭を見物した天王橋【MAP】です。津島社への参詣橋として金銭が徴収されました。その長さは3町(327m)ありましたが古木曽川派川整理工事により徐々に短くなり、1760年から1785年に掛けて撤去されました。現在、橋は残っていませんが天王川公園の北、県道68号線が橋の架かっていたところです。
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津島が生んだ国際的文化人野口米二郎(ヨネ・ノグチ)は平手政秀の弟政利の子孫で12代目傳兵衛の四男です。天王川公園の浮島@にあるヨネ・ノグチ銅像の下にその旨が書かれた石碑Aがあります。
【寄り道】織田家と津島
織田信定が勝幡に城を構えた時代、津島は大いに繁栄していた。信定は津島を支配下に置くために何度も兵を送り込んだがその都度、津島15党(四姓四家七名字)の抵抗を受け目的を達せなかった。だが『張州雑志』や『大橋家譜』によれば1524年(大永4)春頃から夏ごろまでの間に津島は織田家に領有されていると判断できる。
『張州雑志』の1524年5月3日付で信定が津島牛頭天王社禰宜河村九郎大夫満政が辞職し空席だった九郎大夫職を息子の慶満に継がせた事は津島社に対し発言力を持っていた事を窺わせる。『大橋家譜』の1524年夏、織田軍の津島焼き打ちに対し15党が早尾城へ籠って戦いを続けるが間もなく和睦したとあるのは、『張州雑志』と併せて考えると津島をほぼ掌握していた信定は最後まで抵抗する15党に総攻撃をかけ屈伏させたと解釈できる。ちなみに津島が焼かれたという事実はない。
そして11月に信定は娘(くらの御方)を津島衆の中心人物大橋清兵衛重長に嫁がせることで津島衆を配下に置くことに成功した。
津島衆は信秀・信長の元様々な合戦に武功を立てた。小豆坂の戦いでは祖父江重治、桶狭間合戦で今川義元に一番槍をつけた服部小平太、西美濃・森部合戦で神戸将監を討取った河村久五郎、長井甲斐守を討取った服部平左衛門、日比野下野守を討取った恒河久蔵、長篠合戦で鉄砲隊を指揮した野々村三十郎、そして本能寺の変で信忠を守って討死した「御一門歴々宗徒の家子・郎等」61人中5人が津島衆である。
【駐車場】天王川周辺に無料駐車場ほか有料駐車場有
【最寄りの駅】名鉄尾西線「津島駅」 
 
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C那古野城―名古屋市中区二の丸 【MAP】
駿河・遠江守護今川氏の庶流今川那古野氏の居城。今川氏豊(竹王丸)は氏親の末男で那古野氏の養子となっていた。氏豊と信秀は日頃から連歌や蹴鞠などで交流があり、勝幡城と那古野城で往来があった。天文7年3月11日那古野城を訪れていた信秀は急病を装い勝幡城から家臣たちを集めた。その夜中、信秀は集まった家臣に城内に火を放たせ、城外で待機していた兵もそれに呼応して城下に火を放った。不意を突かれた氏豊は命からがら城を脱出、京へ逃れたと『名古屋合戦記』にある。この背景を「守山崩れ」(清須織田家の山田郡・愛知郡へ侵攻した松平信清が天文4年陣中で殺害された事件)とする説がある。すなわち三河勢の尾張進出が一旦止まった間に国内の他国勢力を排除してしまおうというものである。もちろん氏豊と松平氏との連携は不明ではある。天文5年時点で清須織田家でその力を持っていたのが信秀だった。那古野城のある愛知郡ならびに熱田を自領とすることを達勝に了解させた信秀は那古野城乗っ取りを実行した。那古野城に入った信秀は達勝の協力も得て、尾張国内に人足徴用を行い城を改修するとともに、兵火で焼けた天王社、若宮八幡社、安養寺の再建にあたった。そして天文9年菩提寺万松寺を造営した。
【探索のヒント】名古屋城二の丸が那古野城のあった場所ということで二の丸庭園に碑@が建っています。信秀が氏豊に招待されて泊まった所は「柳の丸」という曲輪ですが所在は不明です。1988年の発掘調査で那古野城と思われる遺構が発掘されています。
信秀の那古野城奪取で戦火にかかった天王坊は
那古野神社Aのことで那古野城のすぐ南にありました。焼けた年の9月に天王坊のあった土地と永代買得の田畠は安堵され(尾張東部における信秀最初の判物)翌年再建されます。1610年の名古屋城築城に際し三の丸に移されますが、1876年現在の場所へ移されました。
若宮八幡宮Bは那古野城に隣接していたため同じように焼け落ちました。社伝により再建は天文8年。旧説では那古野城攻略は天文元年とされていましたが天文2年に氏豊のが健在なのでそれ以降と考えられるようになり、若宮八幡宮の社伝と信秀の判物の日付から今では天文7年説が有力です。若宮八幡宮が現在の地へ移ったのも1610年、家康によってでその時に尾張の総鎮守と指定されました。
@名古屋城:【駐車場】名古屋城周辺に有料駐車場
【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄名城線「市役所駅」
【最寄りのバス停】
名古屋市営バス栄13・27系「名古屋城正門前」
A那古野神社【MAP】:【駐車場】なし
【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄鶴舞線、桜通線「丸の内駅」
【最寄りのバス停】
名古屋市営バス幹名駅1、名駅14「外堀通」
B若宮八幡宮【MAP】 :【駐車場】あり
【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄鶴舞線「大須観音駅」
【最寄りのバス停】名古屋市営バス名駅17「若宮」
 
@A
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D古渡城―名古屋市中区橘2丁目 【MAP】
通説は天文11年に古渡城へ移ったとするが、信秀の禁裏修理費4千貫献上の礼をしたためた女房奉書を託された連歌師宗牧が信秀と対面したのが那古野城で天文13年11月6日と『東国紀行』にあるのを根拠に天文13年説も唱えられている。天文15年13歳になった信長が傅役であった林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介を伴いこの城で元服、吉法師から三郎信長を名乗る。この信長の名は臨済宗妙心寺派の禅僧宗恩沢彦が選んだと言われる。
天文13年説に立つと信秀入城からわずか4年で廃城となったため詳細な記録というものがなく、「東西142メートル南北102メートル」(尾張徇行記)、「二重掘りを備えていた」(東御坊繁昌図絵)の記述を見る程度である。熱田と津島、美濃を結ぶ街道が通る古渡を信秀は政治経済の中心にするためここに拠点を移した。いざ戦闘となった場合は要害の那古野城が背後にあるため、古渡城は政庁として周囲に濠を構えた簡易な構造とした。
城が廃城になったのち田畑となった城跡だったが江戸時代、名古屋城築城の候補地として那古野城・小牧城と共に挙げられる。古渡が要衝であったのは事実である。こののち尾張藩主徳川光友により浄土真宗大谷派に寄進されたこの場所に、1690年東本願寺名古屋別院が建立された。
【探索のヒント】古渡城の碑@が建っているのは真宗大谷派名古屋別院Aです。東隣りの下茶屋公園B堀跡だった所です。天保年間に東本願寺別院新御殿建設に伴い、庭園Cが作られたのが現在に残っています。
【駐車場】東別院専用駐車場(要許可) 周辺に有料駐車場
【最寄りの駅】名古屋市営地下鉄名城線「東別院駅」
 

E末盛城―名古屋市千種区城山町【MAP】
名古屋市の東、東山丘陵の南端の標高43メートル地点に末盛城は築かれた。斎藤氏との講和により信秀は東の脅威今川義元に全力を注ぐことができるようになった。末盛城の北には弟信光の守山城、南は山口教継の鳴海城がありこれが対今川の防衛ラインであり拠点となる。
東西200メートル南北160メートルの平山城で現在の本殿前広場が本丸、西の昭和塾堂が二の丸だった。本丸の北には三日月堀があったが現在は残っていない。絵図面を見ると本丸と二の丸の周囲に堀が巡らされ、さらにその外側にも堀がある。また城域にはたくさんの畠があり堀にも田が作られていた。
勝幡城から始まった信秀の国取り人生はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで尾張下四郡中二郡を手に入れ、西三河への進出を果たした。だが末盛城へ移ってからその勢いに陰りが出てきた。1548年(天文18)11月西三河の拠点安祥城を
今川軍に奪われ、城主信広が捕虜となった。さらに翌年には今川軍の信秀領侵出を許してしまった。この年の11月、「藤原信長」署名の熱田への判物が発給されている。また信秀は「弾正忠」から「備後守」を名乗る。ここに織田家の家督は信長に譲られたとする。1550年(天文20)9月になると末盛城の勘十郎信勝の判物が現れる。この頃には信秀は病臥せっていたと考えられる。
【探索のヒント】2009年1月2日夕刻に行きました。県道30号関田名古屋線を守山区方面から南へ向い、「末森通2交差点」手前を左折、そのまま坂を登ると神社の駐車場へ到着です。かなり待たされるのを覚悟しましたがすぐに駐車できました。近くにコインパーキングもあります。以前平日に行きましたが車はほとんど停まっていませんでした。一の鳥居から本殿へ向かう女坂の両側、本殿の裏側に見事な空堀を見る事ができます。
【駐車場】城山八幡宮専用駐車場
【最寄りの駅】
名古屋市営地下鉄東山線「覚王山駅」、「本山駅」
【最寄りのバス停】
名古屋市営バス金山11・池下11・茶屋12系「末森通2」

 

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