経過 |
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1560年(永禄3)5月19日午後3時過ぎ。今川軍が逃げ去った桶狭間には、死傷した今川の兵が溢れていた。織田信長は続々と届けられる名のある今川方の武将の首にその都度目を向けるが、それ以外は今川家に伝わる松倉郷義弘の名刀が添えられた今川義元の首を見つめていた。偶然の大雨が信長に勝利をもたらしたのは間違いない。では天はなぜ自分に味方したのか。それを考える信長は勝利の喜びよりも大きな使命感を感じないわけにはいかなかった。
午後4時、信長は林秀貞が槍の穂先にくくり付けた義元の首を高々と掲げ、全軍に引き上げを命じた。敵の残党を警戒して来た進路を辿り善照寺砦へ戻った。そこではすでに味方の勝利を知った柴田勝家が、信長の姿を見て男泣きに泣いた。信長は合戦に加われなかった織田家随一の猛者の心中を酌み、勝家が鳴海城の押さえになってくれた故、勝利できたと言い聞かせた。善照寺砦を引き払うにつき、鳴海城に立て篭もる岡部元信に退去を促す使者を出した。しかし義元の首をもらいうけるまではここを動かないと返答して来た。信長は苦笑し鳴海城を警戒しながら帰路に着いた。 信長が熱田に到着すると町衆が歓喜で迎えた。それに応えて信長は左わきに控える近習に義元の首を渡し、「これなるが今川治部大輔殿の首なるぞ。とくと見よ!」と誇らしげに叫んだ。群衆が集まる中、信長は馬を降り、熱田神宮の社殿へ入って行った。そして大勝利の報告と熱田大明神への感謝、神社への援助を約束して熱田を出発、夜になり清須へ到着した。 翌日、城下では首実検が行われた。その数2千5百ともいわれる。この後、義元の首は今川家へ返還された。 |
【出陣 接近 決戦―田楽坪編/田楽狭間編】
【威風堂々―三河編/駿河遠江編 大高城兵糧入れ】 |
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