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@今川塚―新川町須ヶ口【MAP】
信長は20日に今川方の首実験が終わると遺骸を集めて丁重に葬るように命じた。戦人塚が両軍の戦死者を弔うのに対して、今川塚は今川の兵のためと言われている。「武徳編年集成」によると今川の全戦死者は2753人でうち驍士(勇猛な武士)583人、名のある武将は45人としている。1661年正覚寺6世三誉上人と念仏講同行14名が自らの名を刻んだ生前供養のための今川塚供養碑を建てたと言われる。
【探索のヒント】2007年までは民家@の裏にありましたが、現在は正覚寺に今川塚Aは移されています。
【駐車場】正覚寺専用駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線・津島線「須ヶ口駅」
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A長福寺―名古屋市緑区桶狭間【MAP】
寺伝に今川軍がこの付近に陣を張るのを聞いた上人は周辺の住民を代表して酒肴の差し入れを行ったとある。長福寺の院号「天沢院」が義元の法号「天澤寺秀峯哲」に由来していることから、寺と今川家の関係が深く、鳴海城以東に今川の影響が及んでいた証にもなる。貢物に義元はこれを実感する事になり、さらに気分を良くしていたであろう。ただ住民のこの行動―織田方の計略も指摘されるが、義元を予定よりも長く足止めする結果を招いた可能性もある。
境内で首実検が行われたと伝わるが、『信長公記』をはじめ複数の史料が首実見は清須としているので、それが正しいのであろう。下方九郎左衛門に捕えられた義元の同朋衆権(林)阿弥(伊丹康直?)が首実検で氏名の照合に協力した。これが終わると信長は、権阿弥に感謝のしるしに熨斗付きの刀と脇差を与えた。そして義元の首を持って駿河に帰国させた。この時、僧侶10人を随行させたという。
長福寺は浄土宗寺院である。天文7年(1538) に善空南立上人が開山というが、上人は江戸時代の人という矛盾点がある。この地に南朝の落武者が逃げてきた頃、日観という法華僧が長福寺境内の東に小さなお堂を建て法華寺と名付けた。その後、日観がこの地を去り無住となった法華寺は荒廃した。長福寺はその跡地に建てられたとも言われる。
【探索のヒント】田楽坪古戦場周辺には駐車場がないので、駐車場を有する長福寺は史跡巡りの拠点となります。山門@をくぐり境内に入るとすぐ桶狭間合戦戦死者の供養塔Aと杉の木の下に首実検の地の碑Bがあります。画像は2003年当時で2013年春訪れた時は境内がきれいになっていました。
こちらの本尊阿弥陀如来像Cは帰国したのち権阿弥が運んで来たと言われます。名古屋大空襲の時、真っ先に本尊が運び出されましたが焦げ跡が残ってしまいました。本堂に安置されている今川義元像Dも権阿弥の寄進と言われます。1661年より前の事と考えらています。隣の松井宗信像Eは不明です。厨子には1849年(嘉永2)と松井家七名の名があります。ちなみに義元の厨子には1852年(嘉永5)と施主梶野三左衛門とあります。これは1859年3月13から19日に行われた3百回忌法要に間に合わせたものと考えられます。
長福寺の境内を奥へ進むと弁天池Fがあります。血刀濯ぎの池といわれ、合戦後、この池で血の着いた刀を濯いだと伝わります。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「桶狭間寺前」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
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B曹源寺―豊明市栄町内山【MAP】
快翁龍喜和尚が塔頭寺院東光庵の明窓宗印和尚に命じて、両軍の死傷者を介抱または弔ったのを縁に、曹源寺の歴代住職は戦人塚で供養を行うようになり、現在でも6月第一土曜日に法要を行っている。曹源寺の開山堂には今川義元と松井宗信の位牌が安置されている。宗信の位牌は、宗信の子孫で尾張藩士松井重武が安置した。
鎌倉時代、天台宗寺院として始まるが、1505年西明寺三世実田以耘和尚の時に曹洞宗に改宗。快翁龍喜は桶狭間村を作った落武者の中山氏の子孫である。快翁和尚の甥重時(兄中山五郎左衛門の子)の子五郎左衛門勝時は、於大(家康の生母)の妹を妻とし岩滑城主である。中山氏は緒川水野氏に仕えたが、中山氏と同じ落武者の梶野氏と青山氏は桶狭間に土着、そうした縁から曹源寺は梶野氏の菩提寺となった。山門は梶野清右衛門が寄進されたものである。
【探索のヒント】昔の曹源寺は現元屋敷にあったので川の氾濫にたびたび遭い、1654年の大火で伽藍が全部焼けたのをきっかけに現在の場所に再建されました。この火事では山門@の扉2枚が残っただけという事です。義元、宗信、合戦の戦死者の位牌が安置されています。『尾張名所図会』には宗信の鞍、泥障も残されているとありました。
【駐車場】専用駐車場
【バス】豊明市ひまわりバス1号路線「曹源寺」

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C今川塚―東海市高横須賀町戌亥屋敷【MAP】
地元の人は「今川さん」と呼ぶ。元はここから北50メートルの田圃の中にあった。日頃この「今川さん」を信仰している常滑の今谷要蔵という漁師(船頭とも)が、1864年6月伊勢湾で遭難しかけたが助かった。これは今川さんのおかげと塚のある土地12坪を買い上げて祠を建立。さらに祠堂料として10両を寄進した。この後漁師や船乗りは「今川さん」をより厚く信仰するようになったという。
義元の土地の伝承では、義元の遺体をかつてあった永昌寺に葬った今川の落武者たちが、その墓を守るため百姓として横須賀村に土着したというものがある。
ただ『尾張八丈』はここが今川という地名なので義元と関連付けたと書き、『蓬州旧勝録』には苔むした五輪塔は今川時代より古いと見受けられると書き、江戸時代より義元との関連は疑問符が付けられている。
【探索のヒント】諏訪神社のすぐ北、今川集会所の隣に鳥居とお堂@があります。車は諏訪神社の駐車場を利用しますが、見つけるのに難儀しました。横須賀小学校との間の一方通行の道に面してあります。
お堂の向かって左側、今川義元墓の碑A側には五輪塔B、右の今川義基墳C側には祠Dがあります。「元」が「基」なのは織田家を憚っての事と言われます。
【駐車場】諏訪神社駐車場
【鉄道】名鉄河和線「高横須賀駅」
【バス】「高横須賀」
東海市循環バス南ルート、知多乗合バス横須賀線
【寄り道】大田七塚―東海市大田町畑間【MAP】
大田村には落武者の墓と言われる七つの塚があった。桶狭間合戦で敗れて大田村に隠れ住んでいた今川の武将が、この塚に国に残した妻子の無事と再会の願をかけ、毎日一切経を石に刻んだ。ようやく刻み終えた石は塚のそばに埋められた。その後も武将は塚に願掛けをした。その後、妻子が大田村にやって来て再会を果たした。以来、「意の如く来たる」を意味する「如意来大士」と呼ばれるようになり、出征した夫や子供の無事な帰還を祈る対象となった。
【探索のヒント】七つ塚は現在常蓮寺に残る一基だけとなりました。
【駐車場】
【鉄道】名鉄常滑線「太田川駅」
D東光寺―西尾市一色町一色南屋敷【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
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F大聖寺―豊川市牛久保町岸組【MAP】
首を取られた義元の遺骸は駿河へ引き上げる兵たちによって運ばれていたが、真夏のことで腐敗も進んだために大聖寺に埋葬された。そのとき墓石の代わりに石の手水鉢が使われた。永禄6年氏真によってここで三回忌法要が営まれ、義元の位牌所として寺領を安堵された。
大聖寺はもとは永享の乱で鎌倉から逃れて来た四職のひとり一色刑部時家が1439年築いた一色城の本丸だったとされる。時家は1477年家臣の波多野全慶によって殺害された。1493年今度は牧野古伯が全慶を討ち城主となるが今橋城(吉田城)築城で次男成勝を新城主に迎え、この時から牛久保城と名を変えた。これが一般的な話である。しかし郷土史をみるとはじめ城跡は現在しないとしていたのに最近では大聖寺がそれに当たるという記述が増えている。全慶の墓が一色城本丸にあったとする資料があるがそうするとこの寺に全慶の墓もあるはずだが確認されていないことから、大聖寺≠一色城の本丸が推定される。
この件に関して非常に参考になるのがこちら→AB
【探索のヒント】義元のお墓@Aを見学するためにこの地を訪れただけだったので正直一色城に関する知識はなく、すぐに牛久保城へ向かってしまいました。しかし帰宅後、一色城がここではなくもう少し離れた所も候補になっていると知って行く前にちゃんと下調べしとくんだったと後悔しています。お寺の周辺は道が狭く、地元の人なら平気で入ってくるでしょうが私は自信が無かったので八幡宮で車を停めて歩きました。お寺に隣接した土塁が本丸の土塁といわれています。とりあえず一色刑部時家のお墓Bの写真も撮っておきました。
【駐車場】境内に駐車可能
【鉄道】JR飯田線「牛久保駅」
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