@駿府城―静岡市葵区駿府城公園【MAP】
天文18年小豆坂での敗北と安祥城落城により、織田信秀の西三河進出がとん挫しただけでなく、尾張国内における信秀の威信も低下した。小豆坂で信秀与力として戦った鳴海城の山口教継が今川に寝返ったのがそれを示している。天文19年後奈良天皇からの勅書で義元と信秀は和睦するが、これは信秀の申し出による形式が取られた。この仲介が教継であったことは、織田側の土豪に動揺を与えた。信秀が天文21年死去し信長が家督を継ぐと、これらの土豪は今川へと寝返った。義元も信長を侮り、鳴海城・大高城・沓掛城を拠点に尾張併合の野望を抱いた。そこで東知多の親織田・水野信元に圧力を加える為に村木砦を築いた。だが築城間もない天文23年1月、信長の奇襲を受け砦は陥落した。信長に対する認識を改めた義元は、この年甲相駿三国同盟を成立させ、本格的な尾張侵攻を計画した。だが翌年10月軍師太源雪斎が死去。義元の尾張侵攻はしばらく棚上げとなった。
永禄2年になり義元の西上作戦の準備が始まった。この軍事目的は古来から尾張併合説と上洛説がある。尾張併合説では鳴海城・大高城への
信長の付城作戦で、大高城の兵糧不足が深刻になり、これを救援するのが主目的とする説とその後清須城まで攻め込むとする説、知多半島を占領する説と分かれる。上洛説には足利尊氏が上総介―治部大輔―武蔵守、義元が上総介―治部大輔―参河守とその官位変遷の類似性を根拠に天下取りを目的とする説があるが、三好長慶に京を追われた将軍足利義輝が前年戻って来ているのでこれはあり得ない。あるとしたら弱体化した将軍の補佐であろう。上洛説の一番の問題は、上洛を告知する今川家の記録がないことである。
【探索のヒント】今川時代は2百メートル四方の館で、現在の規模になったのは家康の改修後です。駿府城は徳川家康の隠居所とのしてのイメージが強すぎて今川家に関する史跡を探すのは無理です。私は駆け足で見ましたがじっくり見てもよかったです。駐車場は市庁舎のものを使いました。教育委員会で判子をもらってただでした。
【駐車場】専用駐車場
【電車】JR東海道本線・東海道新幹線「静岡駅」
     静鉄清水線「新静岡駅」
 
A藤枝―
【探索のヒント】
【駐車場】 【最寄の駅】
 
B掛川城―掛川市掛川【MAP】
掛川城主は朝比奈氏である。朝比奈氏は今川家中でも別格の重臣だった。義元の死後武田信玄が駿府城を攻略、今川氏真が頼ったのも朝比奈氏だった。朝比奈氏は掛川城を徳川家康に攻められた時も最後まで氏真を守り、落城後は小田原北条氏を頼った。朝比奈氏の後家康は石川家成を入れている。
【探索のヒント】完全な観光地なので車でも便利です。駐車場にも困りません。
【駐車場】市営駐車場
【電車】JR東海道本線・東海道新幹線「掛川駅」
 
C曳馬城―浜松市中区元城町【MAP】
曳馬の市と呼ばれる市がたつほど西遠州の経済の中心地であった。今川氏はここに飯尾氏を入れた。「浜松まつり」の凧揚げは曳馬城主飯尾豊前守連達が長男誕生を祝って揚げたのが始まりとされる。その連達も永禄8年今川氏真の謀略で殺される。その後の城主が徳川家康である。
【探索のヒント】現東照宮です。浜松城の東にひっそりとあります。広い道の裏手で私は駅前の貸し自転車を使って行きましたが、車の方が楽でした。この付近に駐車場はないので浜松城見学を兼ねて浜松城の駐車場に停めましょう。
【駐車場】浜松城駐車場
【バス】遠鉄バス街中東西ループ「東照宮入口」

 

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