@吉田城―豊橋市今橋町【MAP】
駿河今川氏親が東三河に進出するにあたり渥美に勢力を持つ田原城主戸田宗光に備えるため永正2年(1505)年一色城主牧野古伯に今橋城を築かせたのが吉田城の始まりである。宗光の子憲光は今川家と和睦するが古伯には野望があると讒言、これを信じた氏親は古伯を攻め滅ぼしてしまう。古伯のあと今橋城は憲光の次男金七郎宣成に与えられた。しかし牧野氏が古伯への讒言が憲光の策略であることを告げると今度は宣成が城から追放された。再び牧野氏(成三・信成)の城となった。その後も今川・松平の争いのたびに城主が代わり、宣成が再び城主に返り咲いたりした。桶狭間当時の城代は大原資良(小原鎮実)であった。義元の死で三河統一に乗り出した家康によって永禄8年資良は追放、酒井忠次が家康が関東へ移封される天正18年まで城主を勤めた。
【探索のヒント】豊橋公園が城跡です。街中にある公園なのに土塁が残り、往時を偲ばせてくれます。石垣があるのは本丸だけです。吉田城の石垣は乱積(自然石を適当な大きさに割って使用)と算木積(長方形の石を算木のように積み上げたもの)になっています。
【駐車場】専用営駐車場
【電車】JR東海道本線・東海道新幹線「豊橋駅」
     豊橋鉄道東田本線「市役所前駅」
 
A岡崎城―岡崎市康生町【MAP】
義元が出発したあと岡崎城には駿河衆の三浦上野介(義保?)と飯尾某(弥次右衛門?)が残った。5月23日義元討死により尾張から引き上げてきた今川の兵たちに混じってこの二人もあわただしく岡崎城を退去し、岡崎城はもぬけの殻となった。すでに岡崎まで退却していた松平元康はこの機に乗じて岡崎城へ復帰を果たした。
【探索のヒント】岡崎城は岡崎公園にあります。駐車場も周辺にあるので車を停める点では不便はありません。
【駐車場】市営駐車場
【電車】名鉄名古屋本線「岡崎公園前駅」
     愛知環状鉄道戦「中岡崎駅」
【バス】名鉄バス「康生町」
 
B知立城―知立市西町西【MAP】
平安時代末から知立神社神主の永見氏が城主。桶狭間合戦時の城主は29代貞英。貞英の娘がお万の方。
大高城から逃げてきた元康は20日深夜池鯉鮒に到着。休憩後岡崎城へ向かおうとするが義元敗死に乗じた一揆勢に囲まれる。このとき道案内していた浅井六之助が「自分は水野信元の家臣だ」と名乗ると一揆勢は道をあけ元康は岡崎へ無事向かうことができた。
【探索のヒント】児童公園が城跡です。周辺は細い道が多いのですがこの公園の前の道は広いのでちょっと車を止めるぐらいならいいと思います。心配なら知立神社の駐車場にとめましょう。
【駐車場】なし 【電車】名鉄三河線「知立駅」
【バス】名鉄バス愛教大線「いわせ外科クリニック」
 
@A
BC
DE
FG

HI
C沓掛城―豊明市沓掛町東本郷【MAP】
大高城への兵糧入れは既定路線であったが、その障害となる棒山の砦(丸根砦と鷲津砦)への対処について話し合われた。『三河物語』を見ると義元が来る前に、丸根砦の佐久間教重に降伏勧告が出されていたようである。だがこれに応じないため攻撃に決したとある。ちなみに『三河物語』では、19日義元は大高まで来ており、敵砦を視察してから評定で攻撃を決めたとする。
この評定で大高城へ兵糧入れを命じられた元康が、これを成し遂げたというのが通説だが、『信長公記』は兵糧入れを邪魔されないように棒山の砦を攻略すると読め、砦攻略後の兵糧入れも否定できない。大高城の兵糧は不足していたが、夜を徹して運び込むほどの緊急性があったのか。明日兵糧が届くのは確実であったし、服部左京助も届けてくれる手筈になっていたかもしれない。秀吉の「鳥取城の餓え殺し」を知る後世の書き手は、大高城の兵糧不足を必要以上に深刻ととらえ、兵糧を最優先と考えてしまったのかもしれない。なお『桶狭間合戦名残』の「廿八 大高城」に元康は木の山村(現大府市共和町、大高城の南)から兵糧を運んだとある。翌朝出発する義元は、浅井小四郎・三浦三郎左衛門・伊保大学・大草七郎を沓掛城の守りに残している(『東照軍鑑』)。

現在日付がはっきりしている資料によると天文19年12月1日に義元が丹羽隼人佐助に沓掛・大高根・部田村を安堵している。この時、近藤九十郎景春(右京亮は同一人物か?)の領地であった。景春は松平広忠に仕えていたが、織田信秀の西三河進出を受けそれに従った。だが安祥城落城の天文18年〜19年頃、山口教継に誘われ今川方となったと考えられる。
奇襲を受け敗走する今川の兵は沓掛城を目指した。そのため追撃する織田軍により城は焼け落ちてしまった。戦後、奇襲作戦を成功に導いた第一の功労者として簗田出羽守に沓掛が与えられた。『信長公記』に出羽守の件が書かれていないため疑問視されることもあるが、里村紹巴が『富士見道記』に「沓掛城主でもある出羽守」と書いてあるので事実であると考えられる。ただこの出羽守とその子はここに在住しなかったし、その後領主となった織田越中守信照、川口久助も在地せず、城も再建されなかった。発掘遺構と発掘品が桶狭間合戦以前のものであるのはそのためである。従って廃城時期は不明で1590年以降であるとされる。
【探索のヒント】居館にすぎなかった沓掛城は、今川氏の手により連郭式の城へと変貌を遂げたと考えられています。廃城後、田畑に転用されていた城跡ですが、『尾張志』に「沓掛城は慈光寺の東にあった」という記述と『沓掛古城絵図』を参考に、本丸@二の丸A諏訪曲輪B侍屋敷跡C空堀DEが再現され城址公園となっています。廃城後の土地改良や住居建設により、絵図にあるような曲輪間の土塁や空堀は消滅していますが、『中世城館跡調査報告書1』がいう総面積5ha、外周900mの城域は、公園の東を通る道、三の丸の南側東本郷と西本郷を東西に走る道F正福寺の東側の道G、公園の北堀跡のような田畑Hに囲まれた区域が該当します。大手は慈光寺山門へ行く道Iかもしれません。
【駐車場】専用駐車場
【バス】ひまわりバス3号路線Aコース「沓掛城址前」
 
@A
【寄り道】慈光寺―豊明市沓掛町東本郷【MAP】
出羽守家臣槇野浄馬が桶狭間合戦の戦没者を弔うために1565(永禄8)10月3日祐福寺12世沢良教雲和尚を開基に創建したという。槇野家代々の墓がある。
【探索のヒント】沓掛城址公園の隣で、侍屋敷があった所のようです。元はここにあったのではないという事を他のお寺の住職から伺いました。駐車場は山門@の左側にあるのですが、寺Aの北側に広い駐車場があります。
【駐車場】専用駐車場
【バス】ひまわりバス3号路線Aコース「沓掛城址前」
 
@A
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【寄り道】聖應禅寺―豊明市沓掛町森元【MAP】
真言宗の本郷山聖禅寺が始まりである。1504年臨済宗に改宗、久護山慶昌寺となった。1568年荒廃した寺を津島の平野甚右衛門と沓掛領主となった簗田出羽守が再建。甚右衛門の母の法号を取り、曹洞宗平野山聖應寺として今に至る。沓掛は津島からの移住者も多くいたので、甚右衛門が再建に尽力したのである。出羽守は平野金左衛門の娘を娶ったので、甚右衛門とは義兄弟である。
簗田出羽守の諱は系図から「広正」とするのが正しいのだが、『改正三河後風土記』の「政綱」の方が一般に認知されている。『張州府志』の「出羽守、別喜右近に改称」を受け、寺では広正を別喜右近としている。だが『尾張志』は別喜右近を「広正」の子「正次」とし、『豊明市史資料編二』では「広正」=「別喜右近」だが、「広正」は「出羽守」の子という説を載せている。そもそも別喜右近とは
「簗田左衛門太郎」が天正3年7月3日に与えられた官位で、この時、明智光秀が惟任日向守、羽柴秀吉が筑前守、丹羽長秀が惟住、松井友閑が宮内卿法印、武井夕庵が二位法印主を賜っている。今度は「左衛門太郎」なる人物の登場である。簗田氏はこれ以外にも「鬼九郎」「弥次右衛門」が史料に見られ、結局は全てが不明のままである。『信長公記』によると天正3年8月別喜右近は対加賀一向一揆に参加し、加賀2郡の警固を命じられた。しかし再起した一揆を防ぐことができず尾張へ召還される。この後、天正6年になり播磨方面の海賊対策メンバーに「簗田左衛門太郎」の名が登場するが、これが『信長公記』では最後となる。天正7年5月に秀吉軍に加わり但馬方面へ出陣して負傷し、6月6日に死去したと言われる。聖應禅寺の出羽守の墓には、1832年(天保3)6月平野甚右衛門長守が別喜右近政次のため建てたと彫られている。
平野
甚右衛門は津島の平野土佐守金左衛門の子で信長の馬廻りであった。渾名は「津島小法師」。長篠合戦の軍律違反で追放となり、加賀一向一揆に身を投じるた後、上杉謙信に仕えた。その跡目争いの御館の乱で上杉景虎(北条氏康の子)に味方するが、その後の生死については諸説ある。手取川の戦いの後、小松左近将監と名乗って上杉家の斎藤信朝に仕える。のち教如の弟子となり法順と号し、1583年東本願寺派寂定山超願寺を開いた。
聖應禅寺本堂の裏には二つの堀が確認される。戦前、聖應禅寺は西の八幡前までを所有していた。ここに城がありその遺構が先の堀跡と言う見解がある。大府市在住の太田静夫氏は住職から教えてもらった遺構や寺伝から新たな説を展開されている。近藤景春は沓掛城を今川に明け渡し、高園城を建てて移ったとされる。その高園城の所在は不明であるが、薬師ヶ根が候補地である。それは『尾張志御用村方社人寺院書上書帳』(1847)の「近藤九十郎殿城跡<略>則字薬師ヶ根と申来候」の記述による。太田氏は聖應禅寺の遺構を見て、ここが高園城であると結論付けた。さらに沓掛城が正式名称で高園城は織田方がつけたものであると言う。従って復元された沓掛城址の名称は間違っており、「○○館跡」とすべきとの見解を持っている。沓掛城祉への疑問は住職も同じで、復元城址の根拠である「慈光寺の東」(『尾張志』)の慈光寺が、果たして今の寺を指すのかと仰っている。というのも現慈光寺が新しいものだからである。太田氏が沓掛城址に疑問を持つのは、戦国期の城にしては防衛力の低い平地である、『絵図』から導いた城の規模は総面積5haと言うのに城址は1haしかない、発掘調査で武具類が出土しなかった点で、それが居館程度だったと判断する理由にもなっている。また高園城薬師ヶ根説には、高地である点は評価できるが、薬師ヶ根遺跡の発掘調査で城関連のものは見つかっていない、薬師ヶ根の地名は1624年創建の長盛寺に由来しているので戦国期にはこの名はない、『絵図』の城は高園城(織田方の呼称)なのでその東に一之御前山(薬師ヶ根の西隣り)があるのはおかしいとの理由から否定的に見る。ただ住職と太田氏の地名の件は、史料が書かれた時点での地名と考えられるので、否定の根拠とはならない気がする。
以上から太田氏は聖應禅寺の西側の山に絵図の沓掛城があったと考える。鎌倉街道とそれが通る二村山、桶狭間方面、境川から三河方面が一望できる地形も理にかなっているとする。薬師ヶ根については、近藤景春が大和国広瀬郡宮田郷の七堂伽藍焼失で焼け出された薬師如来像を沓掛城に安置した(長盛寺寺伝)と言うので薬師ヶ根と呼ばれていたのではと考えておられる。
【探索のヒント】県道220号阿野名古屋線「沓掛交差点」から北東の沓掛小学校へ行く道へ入ります。最初の信号を左折、そのまま直進すると、参道を通ってお寺の前にある駐車場へ行きます。境内@に入って左に墓地があり、少し高い所に簗田出羽守の墓Aがあります。
本堂の裏へ回ると、はっきりとしたしかも深い堀2本Bがあります。一旦降りると登るのに難儀します。堀を北へ辿ってゆくと手前の方はジュクジュクした感じになり、その先に湧水が出ている湿地Cになっています。この先に土橋があり、寺の裏を走る道Dへ出ます。この道ができるまでは道を挟んだ反対側のまで繋がった森でした。寺と森を繋ぐ歩道橋がありますが、寺と森へ行けないよう閉鎖されています。昔は寺の敷地だった里山は一部農地になっています。畠にならなかった林には、太田氏の指摘される土塁状の土盛E
残っています。ここから北へ行った最高地の八幡前からは桶狭間方面F、沓掛城址公園G見ることができ、太田氏は本丸と考えておられます。
【駐車場】専用駐車場
【バス】ひまわりバス3号路線Aコース「沓掛城址前」
 
@
A
【寄り道】沓掛諏訪神社―豊明市沓掛町森元【MAP】
社伝によれば1425年(応永32)12月26日、沓掛城主藤原義行は鎮守の神として、諏訪大社より建御名方大神を戌亥の方角(空山)へ分霊した。桶狭間合戦後、領主となったがこの地に住む気のなかった簗田出羽守は、宝物等を持ち去りそれらが散逸する結果となった。沓掛城は捨て置かれて廃城となり神社も荒廃した。1705年(宝永2)天津彦根命、綿津見神が祀られる天神の杜がある現在地へ移転遷座、諏訪大明神として合祀した。
【探索のヒント】聖應禅寺の南に隣接しています@。駐車場は参道の左側にあります。最初に鎮座した空山とは沓掛城祉公園の諏訪曲輪Aです。現在の場所に遷座されて後、七つの摂末社が勧進されました。今は境内に合祀されている摂末社ですが、昔は高台や村の要所に置かれお参りする村人が周辺の監視を行っていました。現在もその名が残る八幡前もその一つで、石清水八幡宮から分祀された八幡社があった場所です。
【駐車場】専用駐車場
【バス】ひまわりバス3号路線Aコース「沓掛城址前」
 
@A
【寄り道】提灯山―豊明市沓掛町提灯山【MAP】
沓掛城が義元に接収され、近藤景春は高圃城を築いて移った。義元敗死で池鯉鮒城・重原城・大高城・鳴海城と同様に沓掛城の今川の兵は駿河へ引き上げたため、景春は沓掛城に戻ることができた。だがこの機会に尾張から反対勢力を一掃しようとする信長の標的とされ、織田軍2千の攻撃を受けることになった。館を改造しただけの沓掛城とわずかな兵では戦えないと、景春は近藤氏縁の祐福寺へ向かう事にした。そこで城の北東の山に城にある提灯を並べて、兵が潜んでいるように見せかけ、退却する時間稼ぎを行った。
【探索のヒント】県道236号春木沓掛線「徳田前交差点」の北東の山に提灯が灯され、提灯山@と言う地名になりました。沓掛城Aも一望できます。
【駐車場】なし
【バス】ひまわりバス3号路線Aコース「ひかり台団地北」
 
【寄り道】八ツ塚跡―豊明市沓掛町薬師ヶ根【MAP】
近藤景春と共に織田軍と戦い戦死した家臣を葬った場所。明治22年の土地整理図には8カ所の塚が記されていた。『尾張志御用村方社人寺院書上帳』(1847年)に「近藤九十郎の城跡は薬師ヶ根にあり」とあることから、今川氏に沓掛城を明け渡した景春が築いた高圃城はここにあったとも言われる。
【探索のヒント】県道236号春木沓掛線「沓掛小学校南交差点」を東へ向かい、小学校を過ぎてすぐ左へ入ります。左の道は一之御前社へ行くので、右の坂を上って行きます。最初の十字路を右へ行くと畑があります。ここが八ツ塚でした。
【駐車場】なし
【バス】ひまわりバス3号路線Aコース「沓掛小学校」
 
@A
BC
【寄り道】近藤景春の墓―愛知郡東郷町春木清水ヶ根【MAP】
沓掛村に入った織田軍はすぐに城に火を掛け、兵を模した提灯の灯にも惑わされず景春軍に襲いかかり、多くの兵士が討取られていった。その危機から脱した景春は、部田村の天神山で味方を鼓舞していたが瞬く間に織田軍に包囲されてしまった。5月21日、景春は天神山で討取られた。
【探索のヒント】近藤景春の墓@は県道56号名古屋岡崎線と県道57号瀬戸大府東海線が交差する「清水ヶ根交差点」の南にある山の中Aにあります。豊明市で教えてもらった登り口は、藤製作所の駐車場裏Bからでした。かすかに道があり、6月と言う事でクモの巣に引っかからないよう、右手にある高みを目指して進むとありました。さて戻ろうとすると・・・道が分からなくなりました。幸い登って来た反対側に道がありそれを下って行くと東郷製作所の南Cへ出てきました。
【駐車場】藤製作所の駐車場を利用
【バス】名鉄バス祐福寺線「清水ヶ根」
 
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