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| 清須城―西春日井郡清須町【MAP】 18日信長の傅役だった林秀貞はなかなか方針をはっきりしない信長に対し籠城戦を主張した。これは小瀬甫庵「信長記」にある記述で最近ではあまり支持されなくなった義元上洛説を採っている。秀貞は戦力的に野戦は不利なので上洛を急ぐ義元を清須城で迎え撃ったほうが織田家が生き残る可能性があると判断して籠城論を主張した。しかし義元の軍事行動の目的が鳴海城以南の尾張を支配地にするためのものだったとしたら、信長が動かなければ自国を守れない国主に見切りをつけた家臣が次々と離反すると思う。それを防ぐには信長は動くしかなかった。別の見方をすれば信長の出陣は義元上洛説の否定でもある。すると秀貞の籠城話もうそ臭い。それに村木砦の攻撃の時に秀貞は言を左右に出陣しなかったことから、もし籠城すればかつてこの城であった叔父織田信光の乗っ取りの様に今川に寝返る可能性もあり籠城はありえなかったと思う。 それでも信長が方針をはっきりしなかったことに家臣は不安を隠せなかった。「運も尽きるとさすがの信長もいい知恵が出ないのだろう」と嘲笑しあった。それでも今回の義元出陣から義元討死まで裏切り者が出なかったのは、信長という人物に家臣が離れられない魅力を感じていたためではなかろうか。 19日出陣に際して敦盛を三度舞った信長は単騎清洲城を出た。後に従うのは近習の佐脇良之(「利家とまつ」でやっと日の目を見た)・岩室長門守・長谷川橋介・山口飛騨守・賀(加)藤弥三郎だけだった。ところでこの近習たちのその後の人生は悲惨だった。岩室は犬山城攻略戦の中の小口城の戦いで戦死、佐脇・長谷川・山口・加藤は信長の古参近習赤川景弘(坂井道盛と同一人物か)を切り殺して出奔、家康に拾われたが全員三方ヶ原の戦いで戦死している。 |
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| 【探索のヒント】名古屋方面から車で行かれる時は県道67号線を北へ向かい、五条川にかかる清須橋を渡ってすぐに左折、川に沿って一方通行の道を直進すると「ふるさとのやかた」へ到着します。そこの駐車場を利用しましょう。また電車では名鉄の「新清洲」から同じく川沿いに東へ15分行くと清須公園に来ます。ここに信長の出陣の像Aがあります。清須城の2階に桶狭間出陣コーナー@があり、音声案内してもらえます。清須城は大人300円です。 | |
| 【駐車場】専用駐車場 【最寄り駅】JR「清洲駅」 名鉄「新清洲駅」 |