| 経過 |
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| 永禄3(1560)年5月15日朝、曳馬城を出た今川義元はその日の夕方@吉田城へ入った。 16日A岡崎城へ入る。17日B池鯉鮒(知立)城へ到着。ここを過ぎるといよいよ尾張に入るが国境付近は今川の影響が多少あったと思われる。18日B沓掛城に入った。ここで義元は結果的に最後の評定をする。沓掛城へ到着すると大高城から救援を求めてきた。織田信長に城を封鎖されていよいよ兵糧が乏しくなっているというものだった。義元は松平元康に大高城へ兵糧を入れるように命じた。元康は今川の人質となって苦労したといわれているが実はそうでもなく義元はその才能を高く買っていたのではと小和田哲男氏は書いている。小和田氏は元康の「元」の字は義元から与えられたこと、元康の妻は義元の姪であること、それに今回の大高城兵糧入れという大仕事を命じたことはその表れだと述べている。元康は織田の砦の攻撃を巧みにかいくぐって兵糧入れを成功させた。 19日夜明け前に丸根・鷲津両砦への攻撃が始まった。午前8時ごろ義元は沓掛城を出発、大高城へ向かった。午前11時ごろ義元のもとへ丸根砦・鷲津砦の陥落が知らされた。この知らせに義元は桶狭間山付近で昼食休憩に入ることを決めた。大高城へ着いた後の義元の予定だがこの戦いの目的はあくまでも尾張国内での今川の勢力安定であって一気に清須城まで攻めることは無かったと思う。大高城から伊勢湾をはさんで向かいにある海東郡には今川方のC蟹江城がある。また桶狭間合戦で海西郡のD荷之上城・服部左京亮が大高城まで今川軍の手助けに来ている。大高城へ入った後義元はさらに信長に圧力をかけるため海を渡って海東郡の戦力を増強していたのではないだろうか。 次(桶狭間エリア)へ進む |