@A
@今川義元の進軍ルート
駿府から沓掛までの行軍は細かく書かれている史料があるが、沓掛から大高城までのルートが不明である。それが桶狭間合戦の古戦場跡論争にも影響している。ただ大高城入りが目的であるなら、大高道の利用はほぼ間違いない。
【探索のヒント】県道220号阿野名古屋線「沓掛交差点」を南へ下り、「前場交差点」「中ノ坪交差点」を通り国道1号線を横断、伊勢湾岸道路手前で皆瀬川を渡ってニ差路の左側が大高道のです。ここまでの道は東浦道と言うそうです。大高道は曹源寺の北東@を通り、栄中学校の南を西へ行き、「栄町大根交差点」でバイパスを横切り細い道へ入ります。さらに街道は東池沿いの北側の道を進むのですが、桶狭間へ行くため義元は池の北西端から近崎道Aへ入ったと考えられています。現在この先は行き止まりですが、昔は長福寺の東側まで道がありました。
【駐車場】曹源寺駐車場 路駐
Aおけはざま山―豊明市栄町南館【MAP】
昭和44年に出版された『信長公記』の一節、「おけはざま山に人馬の息を休めこれあり」が通説を大きく変えた。孫子の兵法、「凡そ軍は高きを好みて下(ひく)きを悪(にく)み云々」を実践しているとされ、低地を本陣とする従来説は少数派となった。
「おけはざま山」なるものが絵図で見られるのは、1745年の『大脇村絵図』である。だがそれは『寛文村々覚書』の「武路廻間山」であると言われる。結局、太田牛一のいう「おけはざま山」は不明のままである。だが小島広次氏が緑区と豊明市の境界にある丘陵の標高64.7(64.9)メートル地点を「桶狭間山」と推定すると、多くの歴史家がこれを支持するようになった。
【探索のヒント】かつては64.7メートルあった地点も、宅地開発のため50メートル程の高さになったと言われます。
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」
【バス】「舘保育園」豊明市ひまわりバス2号
@A
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DE
B義元本陣
義元の本陣と「おけはざま山」は密接につながっているが、「おけはざま山」が不明のため、本陣の所在も諸説ある。
山頂説。64.7メートルの地点にあったとする。周辺の見晴らしに文句はない。だが当時ここは森林で斜面も急で登る道もない。昼食をとるだけに陣を設置するには不向き。また織田と今川が戦うだけの広さがない。
中腹説。64.7メートルの丘陵の西側とする。丘陵の西側を通る近崎道を使って桶狭間に入った義元が、輿に乗って登れることを考慮した結果。斜面も比較的なだらかで、北へかけての平坦地なら戦闘も可能。近崎道は軍が通れるほどの道か、佐々・千秋隊の突撃は見れないのではないかという疑問が出されている。
生山説。北西への展望、『信長公記』の「東へ向かって攻めかかった」の記述を満たす。この説の場合、信長が中島砦から現国道1号線を一直線に進んで来たと仮定している。敵がいつまでも同じ場所にいるとは限らないので、一気に敵陣に迫るためだった。しかし本陣の前には前衛部隊がおり、丸根・鷲津砦の兵を犠牲にしてまでも温存した本陣攻撃兵で攻めることをするだろうかという疑問がある。
漆山説。『桶狭間合戦之図』と『丸根古城図』を現在の地形に当てはめ導き出した。また『信長公記』では中島砦を出た信長がすぐに義元の本陣近くに来たと読め、漆山だとそれも可能とする。逆にこれでは本陣が敵に近すぎるという批判もある。設楽ヶ原の合戦で、勝頼が指揮を執るために本陣を前に置いた例を挙げ反論するが、今回は義元が指揮する意図はないので説得力はない。また『合戦之図』には古戦場までの距離が書かれている。古戦場を信長が突入した場所ではなく、義元戦死地のことと解釈するならこの説も成り立つがちょっと無理がある。
【探索のヒント】桶狭間古戦場保存会が中心となり、史跡の整備が進められています。その中で新たにおけはざま山の碑@が建てられました。ただしここが本陣跡というのではありません。この高さなら輿でも登れるし、西側の展望Aも悪くないというのを見てもらうためのもので、本当の本陣はもう少し北にあった可能性を否定しているものではありません。ただしここから東は急に標高が高くなっているので、山頂説は否定しています。ではなぜここに碑があるのかと言うと、保存会顧問の梶野渡氏の所有地だからです。
生山Bは宅地開発で最も高い地点Cに行っても当時のような展望は望めません。
漆山Dも宅地開発で名古屋方面の展望は不可です。反面、丸根砦や鷲津砦は見えます。両砦と漆山の間には青山(当時は武者山)Eという丘陵があり、朝比奈泰朝が陣を張っていたとされます。ある方は両砦を落とした今川軍が、中島砦へ向かうのをここで待機していた前田利家らと戦いになり、その時挙げた首を持って利家らが中島砦にやって来たと推測しています。
●今川義元本陣の碑【MAP】
【駐車場】長福寺駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」
【バス】「幕山」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
●生山【MAP】
【駐車場】なし 路駐
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」
【バス】「高根」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
●漆山【MAP】
【駐車場】大高緑地公園駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「左京山駅」
【バス】「平部」
名古屋市営バス鳴子11・13・14系、要町11系、高速1、緑巡回
●青山【MAP】
【駐車場】大高緑地公園駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「左京山駅」
【バス】「緑区役所」
名古屋市営バス鳴子11・13・14系、要町11系、高速1、緑巡回
@A
【寄り道】諏訪神社―名古屋市緑区鳴海町諏訪山【MAP】
この山は平部山ともいい、1381年大徹禅師が庵を結んだ。1396年善師を開山に安原備中守が瑞松寺を創建。この時すでに諏訪社(社務所が旧本殿)はあった。従って創祀は鎌倉時代と思われている。
【探索のヒント】青山鉄工所の横@から入って行きます。本殿Aは昭和12年、拝殿は昭和32年改築されました。
【駐車場】大高緑地公園駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「左京山駅」
【バス】「平部」
名古屋市営バス鳴子11・13・14系、要町11系、高速1、緑巡回
@A
BC
C有松神社(高根山)―名古屋市緑区有松町大字桶狭間高根【MAP】
佐々・千秋隊(以下「突撃隊)」は山際の兵を攻撃したと書いてある史料がいくつかある。「有松桶狭間観光振興協議会」は高根山をその山とし、松井宗信が陣取っていたとの案内看板を設置している。『新編桶峽合戦記』に宗信は義元本陣の10町(1.09キロ)前に布陣したとあり、高根山は二つある古戦場のどちらからもこれに近い場所である。
劣勢の佐々政次と千秋季忠が突撃を行ったので、奇襲作戦の一環であるとする説が現在主流だが、佐々と千秋の功名争いの結果というのも捨てがたい。『桶挟間合戦記』ではこの行動を見た信長が勝手な行動を禁じたとあるし、史料を見る限り信長が突撃隊壊滅に乗じた行動をしていないからである。有松から大高道へ長坂道があり、高根山の麓を通って桶狭間へ行くことができた。突撃隊は最前線にあって、義元が桶狭間に居ることを掴んだ。そこで高根山の敵を突破して、義元に攻撃しようとしたとは考えられないだろうか。
突撃隊が「信長善照寺へ御出でを見申」し出発した場所も不明のままで、善照寺砦、中島砦、砦の外が候補である。善照寺砦以外は現国道1号線を東へ行ったとする意見が多い。これ以外の進路と善照寺砦からのものは中島砦の東の丘陵を通りぬけるものである。これは今川の前軍が中島砦付近には居なかったことを意味する。
義元にとって丸根・鷲津砦は大高城入りに障害であったが、鳴海城の付城は尾張中央部を制圧して、清須と分断してしまえば片付く問題だった。そのために兵を温存しておきたかった。また今更信長が出て来たところで何も出ないと考えていたのかもしれない。突撃隊は意図した結果を残せなかったが、義元を油断させ、信長に今川軍は高根山より北に展開していないことを知らせたので無駄死にではなかった。
【探索のヒント】善照寺砦から直線で2キロの高根山は目視@できます。高根山の下を通る長坂道は、国道1号線「長坂南交差点」の西の細い道が入口Aです。高根山は標高55メートルの山で、昭和30年に本殿が建てられた有松神社Bがあります。西と南と東から登れますが非常に急な坂です。周囲に建物がなかった昔は非常に良い展望が得られた事と思います。画像Cは中島砦方面を見たものです。付近に駐車場はないので「イオンタウン有松」の駐車場を利用しましょう。
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「三丁山」名古屋市営バス有松11系
「高根」名古屋市営バス鳴子13・要町11・高速1・緑巡回
@A
BC
【寄り道】幕山・巻山
井伊直盛隊が布陣したと伝わる。井伊直盛は徳川四天王と謳われた井伊直政の祖父である。遠江には井伊谷井伊氏と渋川井伊氏があった。井伊谷井伊氏は早くから今川家に属し、1513年の今川氏親による遠江侵攻で甲斐に逃れた渋川井伊氏に代わり、遠江井伊氏の惣領家となった。1542年当主井伊直宗が三河田原で戦死するとその父である直平は直宗の子直盛ではなく直宗の弟直満に跡を継がせた。だが、これに異を唱える直盛の家臣小野和泉守の「直満・弟直義に謀反の疑いあり」という讒言を信じた義元が二人を成敗した。これとは別に今川家での待遇の悪さから武田家へ寝返ろうとしていたのが露見して成敗されたという説もある。これにより直平は直盛を当主にせざるを得なくなった。桶狭間で直盛が戦死して養子の直親(直満の子)が跡を継ぐ。義元の死によって元康が今川家から独立すると井伊家の家臣小野但馬守が今川氏真に「直親が元康と結ぼうとしている」と知らせた。氏真は真偽を問い質す為、直親を駿府に呼んだ。だがその途中、掛川で朝比奈泰朝によって殺害された。その子虎松にも命の危険が迫ったので重臣真新野左馬助親矩が匿い養子として育てた。これが直政である。驚きはこの間、直平が存命していたことである。1563年陣中で没した時は85歳だった。
【探索のヒント】推定桶狭間山と谷を挟んで西にある丘陵@Bを指します。かつては幕山に松井宗信布陣とされていましたが、今では井伊直盛の陣地となっています。両方とも桶狭間合戦にちなんだ地名です。幕山は陣のあった山、巻山は織田軍に包囲され直盛が自刃した山ということから名付けられたと言います。残念ながら史跡はありません。
2013年6月現在、幕山は宅地開発で大きくその姿を変えています。通りかかった人は、これが最後の開発と言ってました。建物が建つと今かろうじて見える有松神社Aも見えなくなるでしょう。巻山の最も高い所に桶狭間小学校Cがあります。残念ながらここからは東の展望は利きません。
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「地蔵池」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
●巻山【MAP】
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「桶狭間寺前」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
【寄り道】瀬名氏俊の陣地―名古屋市緑区桶狭間【MAP】
瀬名氏俊隊2百名は義元出陣より2日早く駿府城を出発、朝比奈肥後守父子らと先に桶狭間入りした。ここで本陣を置くのに適した丘陵を見つけ、本陣と義元の輿を運び上げる道の設置に取り掛かった。それが終わると一部の兵を残し氏俊は一足早く大高城へ向かった。
瀬名氏は南北朝動乱期駿河・遠江守護だった今川範国の子了俊(貞世)を祖とする遠江今川の流れを汲む。この戦いの後今川氏が没落すると氏俊は浪人となる。孫の政勝は家康に仕え、小牧・長久手の戦いに出陣して功を挙げ3百石を与えられた。のち加恩を受けて5百石となり、代々徳川旗本として続いた。
【探索のヒント】セナ(センナ)藪とも言われる氏俊の陣地は、この奥にあり、東西15m南北38mの大きさだったとの言い伝えがあります。元はトチの木の林でしたが竹林に変わりました。昭和61年の大池の堤防工事によりその林は伐採されました。氏俊の陣地であるというのは、土地の言い伝えで史料にはありませんが『伊束法師物語』の一節に「義元が池鯉鮒に来た時に、おけはざまに本陣を構えた」と読める個所があり、それが言い伝えの傍証とされています。
【駐車場】長福寺駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「桶狭間寺前」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
【寄り道】鞍流瀬川―名古屋市緑区桶狭間【MAP】
今の古戦場公園の片隅に泉が湧いていて、その水が近くの小川に流れ込んでいた。この小川は戦いの後、鞍や鎧が放置され戦死者の血で真っ赤に染まっていた。これを見て村人は鞍流瀬川と呼ぶようになった。長福寺では死者を極楽浄土へ導く意味で、その川を越えて寺に行けるよう浄土橋という橋を掛けた。昔は川の上に「はぐろトンボ」が飛び交っていたという。地元の人は義元の「鉄漿」にかけて「おはぐろトンボ」と呼んでいた。だが義元の亡霊だということで捕まえることはなかったといい。
【探索のヒント】川は埋め立てられ暗梁となっています。長福寺へ行く手前に碑が建ち、右に水路がありますがそれが鞍流瀬川の今の姿です。
【駐車場】長福寺駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「桶狭間寺前」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
【寄り道】桶狭間神明社―名古屋市緑区桶狭間神明【MAP】
瀬名氏俊が戦勝祈願した時に奉納した酒樽が社宝として残されている。桶狭間村の氏神として創建されたという。1340年代に南朝の落武者20数名が、長福寺の南50メートルの林に隠れ住んでいた。落武者たちは梶野系・青山系・中山系に分かれていて、梶野・青山系は土着して桶狭間村を拓いた。中山系は緒川水野氏に仕え岩滑城主になった。
【探索のヒント】桶狭間公園にある神社です。駐車場は南側入り口にあります。
【駐車場】専用駐車場
【バス】「桶狭間寺前」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
@A
【寄り道】戦評の松―名古屋市緑区桶狭間神明【MAP】
この松の下で戦評が行われた。碑には「義元公戦評の松」と彫られているが、今は瀬名氏俊が評定をした所と説明されている。初代の「大松」は伊勢湾台風で、二代目は2007年に松喰い虫により倒れ現在は3代目。
昭和8年桶狭間史蹟保存会が発足して、この付近は古戦場として整備が始まった。この時江戸時代から生えている大松の下で義元が評定を開いた、という地元伝承からその碑が建てられた。ところが義元の本陣が桶狭間山にあったと分かると、梶野渡氏は本陣でない場所で評定があったという伝承に疑問を持った。そしてここに近いセナ藪と桶狭間神社の奉納酒樽が瀬名氏俊と関係があることから、戦評の地伝承も氏俊とした方が筋が通るとした。昭和50年以降、義元到着の二日前に桶狭間入りした氏俊が評定をした場所というのが定着した。
旧暦の5月19日の真夜中に、熱田の問屋から刈谷へ戻る途中の漁師弥助が大松の下で休んでいた。すると暗闇から白装束の立派な武士が現れ、「我は今川義元である。わしに出会ったことは決して口外してならぬ。約束を違えた時は命を奪う」と言って、蹄の音を立てながら暗闇に消えた。その後、弥助は秘密を守っていたが、それが原因で塞ぎこむようになった。その様子を心配した漁師仲間が、景気づけに酒宴を開いた。酔いが回った弥助は大松の下の出来事を喋ってしまった。それからというもの、白装束の義元が常に目の前に現れ、ノイローゼとなり死んでしまった。この後、桶狭間の村人は5月19日の夜は外出を控えるようになった。
【探索のヒント】JAみどり桶狭間支店の北側です。 
【駐車場】長福寺駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「桶狭間寺前」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
@A
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D信長の進路
善照寺砦に勢ぞろいした兵を見た信長は、それを攻撃隊と砦守備隊に分けた。砦守備隊は鳴海城のけん制と退路確保の任務が与えられ、決して砦から出ないように信長から申しつけられた。そして攻撃隊には中島砦へ移動することが告げられた。敵に最も近い中島砦へ行くことを林秀貞・柴田勝家らが反対した。それでも信長は2千に満たない兵を連れ善照寺砦を出発した。
中島砦を起点にすれば、大高道で義元を待ち伏せ、あるいは側面攻撃するのに時間がかからなかった。そこで最も危険だが有益なこの砦に来たのであった。信長が到着して間もなく簗田出羽守がやって来た。桶狭間山で昼食休憩している義元は、佐々と千秋の首が届けられさらに上機嫌となり、当分の間は動きそうにないというのだ。信長はこの機を逃す訳にはいかないと決断。中島砦の全員に出陣を命じた。信長がまさに砦を出発しようとした時、再び林秀貞が今度はさっきとは比較にならないほどの力で信長を引き留めた。この様子を兵達は不安げに見ていた。すると信長は「朝からの勝ち戦に義元は完全に油断している。今を逃しては尾張を守ることはできない。高根山の敵は朝から戦い疲労しているので恐れることはない。我々は義元の本陣に討ちいり、その首のみを目指す。それ以外の首は必要なし。勝てばこの戦いに加わったことが、代々語り継がれる非常な名誉となりる」と初めて自分の意図を述べた。兵達の顔に自信がよみがえって来た。その時、前田利家らが討取った敵の首をもってやって来た。信長は利家らに今からは義元以外の首は不要」と伝えた。
簗田の案内で信長達は中島砦の東の森の中の小道を東へ進んだ。砦を出た時小ぶりだった雨が少し勢いを増しだした。だが森を抜ける信長達にはあまり影響はなかった。数日間、ここで過ごした簗田は迷うことなく義元本陣へ信長達を導いた。勢いを増した雨に加え、突風が吹き荒れる中、丘陵を駆け上り駆け下りしながら一行はようやく森を抜け、谷筋を通り義元の本陣に連なる丘の麓に到着した。まだ雨は降り続いていた。
【探索のヒント】郷土史家梶野渡氏の『桶狭間合戦始末記』を参考に信長の進路を辿りました。まず信長は中島砦のを出ると扇川沿い@に東へ向かい、焼田橋Aで南東方向へ丘陵を登ります。坊主山Bの北側を東へ行って細根Cへ出ます。細根から南へ下り、東丘小学校のある有松裏Dに行くと桶狭間山方面が一望できます。ここで坂を下りて大将ヶ根で名鉄を渡り、手越川にほぼ沿って国道1号線を渡ります。シティハイツ有松1〜4号館前を通る道が近崎道とどこかで見ました。この道をそのまま進むと桜花学園大学が左側にあります。右に生山のあるこの谷筋が釜ヶ谷Eです。付属の幼稚園と駐車場の間に信長が義元本陣目指して駆け上った道Fがあり、テニス場から建物の陰になっている史跡おけはざま山を見るGことができます。
●焼田橋【MAP】
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「左京山駅」
【バス】「下焼田橋」名古屋市営バス緑巡回
●坊主山【MAP】
【駐車場】なし
●細根【MAP】
【駐車場】イオンタウン有松駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「東陵中学校」名古屋市営バス徳重14系
●有松裏【MAP】
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「名鉄有松」名古屋市営バス徳重14系・有松11系
●釜ヶ谷【MAP】
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」
【バス】「地蔵池」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
●信長の道【MAP】
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」
【バス】「地蔵池」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
@A
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【寄り道】桶狭間古戦場公園―名古屋市緑区桶狭間北3丁目【MAP】
昼の休憩に入った義元の元には、近隣の村長や寺社から祝の酒肴が届けられた。朝の戦いに勝利に続いて、三尾国境辺りの諸勢力が自分を新支配者として受け入れている事に義元は謡を三番舞うほど浮かれていた。だが佐々・千秋隊の突撃の知らせに一瞬、義元も緊張した。これも間もなく片付いたと知らせがあり、佐々と千秋の首が義元の前に届けられるともはや自分を止める者はいないと今まで以上に有頂天となり、酒を喰らい謡を舞った。
酒宴開始から1時間ほどしたころ、さっきまで晴れ渡っていた空に黒雲が広がって来た。これはひと雨きそうだなと義元は思った。しばらくすると予想通り雨が降り出した。ムッとする熱気が地面から沸き起こり、兵達は涼を取るために武具を外した。汗と埃にまみれた体に雨が心地よかった。だが間もなく雨粒が大きくなり、さらに強風が吹きだした。幔幕が飛ばされそうになり近習が義元を木陰に連れ込んだ。本陣を守っていた兵達も我先にと木陰を探して逃げ込んだ。
この状態が30分ほど続くと雲が晴れ、太陽が顔をのぞかせた。義元も雑兵も木陰からごそごそと出て来た。「興ざめした。出発の準備をせよ」そう義元は命じた。その時ずっと離れた所で騒がしい声がした。
信長ははやる気持ちを抑え、雨が止むのを待った。それは義元を正確に捕捉するためであった。斥候から義元は塗輿の乗っていたということである。ようやく雨がやんだ。信長の突入命令に全軍は斜面を駆け上がり、丘の上を義元本陣目指して突き進んだ。目の前には旗本の前軍の兵がいたが、雨宿りから出て来たばかり完全に油断していた。織田軍は大声をあげてこれに攻めかかった。不意を突かれた前軍は迎撃する間もなく、討取られたり逃走した。この騒ぎは義元の耳には喧嘩に聞こえた。
声の方をしばらく見ていた義元のもとに、息も絶え絶えの兵が駆け込んできた。「敵の奇襲です。お逃げ下さい」。事態が飲み込めない義元をさっと3百の兵が取り囲んだ。「殿、敵襲です。この下の馬まで我らがお守りするので、大高城までお逃げ下さい」。もみくちゃになりながら義元は戦線からの離脱を開始した。
前軍を蹴散らした信長達は義元を探してさらに突き進んだ。すると戦場に似つかわしくない塗輿があった。「義元の塗輿発見!ここが本陣だ。義元を探せ!」信長の叫び声に一同周辺を見渡した。すると西の坂を下る一団があった。「義元発見!」
【探索のヒント】桶狭間古戦場公園@は桶狭間合戦450周年記念事業として2010年に整備されました。シンボルとして日本でここにしかない甲冑姿の織田信長像と「お歯黒殿」と揶揄された姿を払拭した今川義元像Aが作られました。モデルに実際に甲冑を着けてもらい、それを細部まで再現しています。決戦に臨む信長と泰然自若とした義元の心情の差を兜と烏帽子で表現したとのことです。公園内は合戦までの道のりをジオラマBにして分かりやすくしています。できれば少し高い位置から眺めれればもっと楽しめると思います。
【駐車場】長福寺駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「桶狭間寺前」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
E義元公駒繋杜松―名古屋市緑区桶狭間北3丁目【MAP】
『信長公記』は義元の馬について「青の馬の五寸計なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける」と書く。義元は沓掛城をする時に落馬したため、輿に乗ることになったという。駿府出発前後の霊的な出来事同様、義元の敗死を予感させる不吉な出来事とされる。
合戦当時は深田であった田楽坪は、尾張藩の命令により開墾された。だが触れると熱病になると言われたのでねず塚は手つかずで残された。昭和34年の伊勢湾台風でここが一週間水に浸かってしまい、塚の杜松は枯れてしまった。その後歴史の証人として枯れ木のまま公園に移された。
【探索のヒント】「幕山交差点」から古戦場公園に入った右側にあります。 
【駐車場】長福寺駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「桶狭間寺前」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
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F深田―名古屋市緑区桶狭間北3丁目【MAP】
義元を逃がす時間稼ぎのため、義元の警護兵団から数十人が追撃する織田軍の前に立ちはだかった。だが勢いに乗る織田軍はこれを瞬く間に壊滅させた。これが繰り返され義元の警護兵はどんどん減っていった。
ようやく坂を下りた義元には50人ほどの兵が付き添うだけだった。それをめがけ織田軍が迫って来たので、義元は馬に乗る余裕もなく、目の前の深田を突っ切ろうとした。だが先程の豪雨のため、深田はいつも以上にぬかるみ、義元も警護兵も歩行に難儀した。これを追う織田軍も状況は同じだが、数が多い分うまく抜け出せる者もいた。その一人が服部小平太である。
【探索のヒント】尾張藩による開田奨励までは、『織田真記』にあるように「此-功耶桶狭間阡-陌淤田(泥田が千も百もあり)」という状態でした。古戦場公園はそこへ作られたので、首洗いの泉@は今も地下水が湧き出しています。
ここ以外にも今も泉が湧いている場所があります。例えば長福寺の境内の東にあるものA【MAP】で、桶狭間村発祥の地とされます。1340年代「ホラバサマ」と言われたこの地は、何度か呼称を変え「オケバサマ」となりました。そして泉に浮いた桶が廻る様子から、「桶廻間」の漢字が当てられました。「桶狭間」は明治11年からの表記です。
【駐車場】長福寺駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「桶狭間寺前」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
@A
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F義元戦死の地―名古屋市緑区桶狭間北3丁目【MAP】
自慢の赤地の錦の鎧直垂も胸白の具足も泥だらけにして、足場の悪い泥田の中を義元は必死に逃げた。もう警固の兵は全滅しているかもしれないが、振り返る余裕も勇気もなかった。だから背後に小平太が近づいていることなど全く気付いていなかった。「義元公とお見受け致す!」その言葉に続いて義元はが脇腹に衝撃を感じた。見ると泥だらけになった小平太が槍を突き出していた。「下郎め!」。義元はそう叫ぶと、愛刀宗三左文字で槍を払い、返す刀で小平太の膝を斬り割った。小平太は泥田の中に崩れ落ちた。義元が刺された脇腹に手をやった時、今度は背後から毛利新助が組みついて、義元をねじ伏せようとした。その手を振りほどこうと義元は新助の手に力一杯噛みついた。義元の歯は新助の指の関節をとらえ切断した。だが興奮している新助はそれに気付かず、ついに義元を組み伏せた。「御免!」。脇差を義元の首に当てさっと引いた。
「敵大将討取ったり!」新助の大声に織田軍は一瞬静まり、歓喜の叫びがそこここで上がった。本陣の異変に気づいて駆け付けた今川軍もこの声に戦意を喪失して、戦場を離脱し始めた。それに対し織田軍は追撃を始めた。沓掛城へ戻ろうとする者は石塚山の麓で、大高城へ向かうものは街道へ出る前に討取られた。
信長の前に新助が義元の首を差し出した。手を合わせた信長は、その口に指が咥えられているのを見つけた。ひざを負傷した小平太に肩を貸す新助をみると、その手から血が滴り落ちていた。「天晴れ」。信長はそうつぶやいた。
【探索のヒント】桶狭間古戦場公園の南には桶狭間古戦場田楽坪の石碑と小さな標石@が建っています。石碑は長福寺の扁額と同じく、南京事件の責めを負ってB級戦犯として処刑された松井石根陸軍大将の筆によるものです。松井大将は宗信の子孫です。隣の標石は表に「桶狭間古戦」、裏に「1816年(文化13)」と彫られていて下の部分は欠損しています。この付近の小川で見つかりました。江戸時代にはこの付近(「いけうら」から「ひろつぼ」に変わる)が古戦場と認識されていた可能性を示します。
公園の西側に義元戦死の地の碑ABが建っています。小さな方はその隣の駿公墓碣Cが発見されて作られました。駿公墓碣は、手つかずだったねず塚を公園建設のため調査していて偶然見つかったものです。何時のものかは不明ですが、義元戦死の地の証拠とされます。
【駐車場】長福寺駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「桶狭間寺前」
名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
【寄り道】服部小平太最後の地と墓
浜松市北区細江町に服部小平太の墓と最期の地の碑がある。この服部小平太は服部中保次(要介)と言い、家康の伊賀越えに随行した一人である。服部半蔵と同じ伊賀者であるが、半蔵とは別に服部仲配下の齊藤・寒河・眞井らを率いて伊賀越えに加わった。この功績から鉄砲同心50余人を預けられた。現地説明板によれば、細江町を治めていた保次は見回りでここへ差し掛かった時に今川旧臣に襲われ死亡した。1587年(天正15)6月18日の事である。『寛政重修諸家譜』には同年4月28日没とある。嫡男保正は父の残した同心77人を受け継いだ。
桶狭間で活躍した服部小平太の諱は系図によって春安・忠次・一忠・寿安とある。弟小藤太と共に桶狭間で活躍したといわれるが、津島服部氏の二代治郎兵衛後家の書上では、小藤太が兄で弘宗といい小平太は弟としている。小藤太は本能寺の変で殉死し、小平太は秀吉に仕えて秀次付となった。その後、伊勢3万石を領した小平太だったが秀次事件に連座して没落した。
【探索のヒント】姫街道に最後の地の碑@があります。県道261号磐田細江線(姫街道)の「湖東交差点」から北西へ750メートル進むと二差路になっています。これを左へ入り信号を越えて道なりに850メートル行くと再び二差路があります。今度は右の道を行きます。これが旧姫街道です。千日堂を過ぎて400メートル程行くと巨大なお姫様の絵の書いてある貯水タンクに前に着きます。ここへ車を置き貯水タンクの脇の道(これも姫街道)を進んでゆくとすぐにあります。ここから数十メートル下った所には小平太の墓Aがあります。
●服部小平太最後の地【MAP】:【駐車場】なし
●服部小平太の墓:【MAP】
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