@ A![]() |
| @善照寺砦―名古屋市緑区鳴海町字砦【MAP】 佐久間信盛、佐久間信辰が守る。兵約四百五十。丹下砦から700メートル離れたこの辺りで一番高い場所にあり桶狭間方面Aの展望もよい。丹下砦を出た信長の動きは鳴海城からは現在の鳴海小学校のある丘が邪魔になって見えなくなる。善照寺砦に信長が到着したとき兵は合計3千だったが人数以上の幟を砦に立てて5千に見せかけている。また中島砦に向かうときには兵1千を残したが信長は3千残っているように幟を残した。 ところで以前は信長はここから山を迂回して太子ヶ根から義元を奇襲したことになっていた。このコースは桶狭間古戦場跡まで約5キロあり、時間的には途中暴風雨があったことを考えて約1時間半。すると昼ごろに突入していることになる。しかし信長公記では未の刻(午後2時ごろ)本陣に攻め込んだとしていて合わない。さらに「信長公記」には信長は善照寺砦から中島砦に向かったとあり、今では善照寺砦からの迂回奇襲説は間違っているとされる。 |
| 【探索のヒント】砦公園@が主曲輪と推定されています。砦公園と鳴海城跡は同じ丘陵にあり、砦公園のほうが若干高い位置になるので鳴海城の監視にはうってつけの場所だったと思います。現在の鳴海小学校のすぐ東側に堀を設け、鳴海城からの攻撃に備えていました。 |
| 【駐車場】なし 【最寄の駅】名鉄名古屋本線「鳴海駅」 【最寄のバス停】市バス・名鉄バス「緑市民病院」 |
| @ A C |
| A鳴海城―名古屋市緑区鳴海町字根古屋(旧鳴海神社境内@) 山口父子が成敗された後、岡部元信が守っていた。兵は3千いたらしい。善照寺砦から5百メートル西にある。信長公記には「兵は砦の東側に3千勢ぞろいした」とある。善照寺砦の東側は鳴海城からは全く見えないのを利用した。つまり鳴海城では信長の動きが把握できない状態である。 元信は織田の手に落ちた主君の首を受け取るまでは絶対に城は明け渡さないと籠城した。清須での首実験が終わった20日信長は義元の首を元信に返した。これを受け取ると元信は意気揚々と尾張を後にしたが三河に入ると突然刈谷城を攻める。織田軍の勝利に油断していた城方では城主水野信近が討死してしまった。帰国後元信は「武士の鑑」と評され、今川氏真から感状をもらっている。 |
| 【探索のヒント】鳴海城@と園龍寺A周辺は路駐するスペースがないので「イトーヨーカ堂」の駐車場を利用するしかないでしょう。私は「大高緑地」に車を停めて自転車で行きました。園龍寺は鳴海城の二の丸と推測されています。昔は「善照寺」という名でした。もとは善照寺砦の地にあったためで桶狭間合戦の戦火で消失しました。その後今の場所に再興されて名前が変わりました。 刈谷城Bは亀城公園の駐車場を利用します。家康の生母於大の父水野忠政が築いた城です。このときに水野氏は織田氏にも松平氏にも誼を通じていた。天文12年忠政が死ぬと嫡男信元は今川氏に接近する松平氏と手を切り織田氏に協力します。これにより於大は離縁されました。その後信長にとって信元は西三河において大切な存在となります。そんな信元ですが天正3年佐久間信盛の讒言で自刃に追い込まれその後刈谷城は信盛の城となりますが忠重の時、信元の嫌疑が晴れて再び水野氏がこの地に戻りました。 |
| ●鳴海城【MAP】:【駐車場】なし ●園龍寺【MAP】:【駐車場】専用駐車場 【最寄の駅】名鉄名古屋本線「鳴海駅」 【最寄のバス停】名鉄バス「鳴海駅前」 ●刈谷城【MAP】:【駐車場】亀城公園駐車場 【最寄の駅】名鉄三河線「刈谷市駅」 【最寄のバス停】刈谷市公共施設連絡バス「体育館」 |
@ A |
| B中島砦―名古屋市緑区鳴海町字下中【MAP】 梶川平左衛門が兵2百50名と共に守る。「武徳編年集成」に「義元本陣を手薄にするため今川の部隊を前方に誘導した。そこで我々は密かに義元のいる山すそへ近づき本陣に奇襲をかける」と信長は作戦を披露したとある。佐々政次と千秋四郎の陽動部隊の目的はこれだと思う。 中島砦は扇川と手越川に挟まれ善照寺砦の間はぬかるんで700メートルしか離れていないが一列になって進まなければならなかった。簗田政綱から今川義元が桶狭間で休憩中との報告がなされたのはこの時点ではないだろうか。義元の位置が分かり信長は中島砦を出ようとしたが重臣たちは止めた。 「信長公記」にはとめる家臣に「今目の前にいるのは早朝から鷲津、丸根を攻めたもので疲れ切っているから恐れる必要はない。この戦いに参加したことを家の名誉とせよ」と言ったと書いている。 小和田氏によると中島砦は位置としては付城ではなく鷲津・丸根砦と丹下・善照寺砦との繋ぎの城ではないかということである。 |
| 【探索のヒント】中島城付近も駐車スペースはありません。始めて来た時はスーパーの駐車場にとめました。2度目は自転車で行きました。民家の庭に碑Aがあるのですがちょうど家の人が外へ出てきたので写真を撮らせてもらえました。写真の左の白い建物@の隣のお宅です。門には史跡の看板と案内の葉書がありました。 |
| 【駐車場】なし 【最寄の駅】名鉄名古屋本線「鳴海駅」 【最寄のバス停】名鉄バス「鳴海駅前」 |
| C今川の前衛隊 この突撃を小和田氏は鳴海城に行った陽動作戦としているが「信長公記」には「義元に向かって」とあるから今川本隊に向けてが正しいのではないだろうか。このとき佐々、千秋の首を取ったのは久野城主久野元宗といわれている。 |
| @ A |
| D桶狭間山へのルート 問題は信長がどのルートで桶狭間山までたどり着いたかだが「桶狭間合戦記」では太子ヶ根麓@から迂回したとしているし「信長公記」は単に山すそへたどり着いたとしている。 結局これらの資料をどの程度信用するかにかかっている。個人的には国道1号線に沿ったルート説を最近まで支持していたがそれでも敵から丸見えではないかという疑問がずっと付きまとっていた。一方中島砦から太子ヶ根麓に行くルートは相原村を通って行くルートと坊主山Aから細根Bを経由していく山の稜線を進むルートを考えた。山の稜線を行くコースは直線でみれば早そうだが起伏がありしんどかった。相原コースは1号線ルートより2キロ余分にかかるが丸見えよりましであろう。なお暴風雨で今川方の視界が悪いから1号線ルートでもいけるという意見もあろうが「信長公記」は「山際にたどり着いたときにひどい暴風になった」とあることから移動中は視界不良になるほどの天候ではなかったのではないだろうか。 |