経過 |
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永禄3(1560)年5月18日未明、松平元康は織田方の①丸根・②鷲津砦に攻撃をすると見せかけ注意を引き付けると守備兵に守られた小荷駄隊を③大高城へ送り込むことに成功した。
大高城で一旦休息をとった元康は、19日午前3時ごろいよいよ丸根砦に対する攻撃を開始した。元康率いる三河勢は1千(一説には2千5百)。先鋒は石川家重、「正兵」は形原松平家広、「遊兵」は能見松平重吉が率い「馬廻衆」には酒井忠次、石川数正がいた。砦の兵は4百あまりなので籠城すると思っていた攻撃軍に対し砦側は討って出てきた。このため攻撃側は対混乱に陥った。元康は兵たちを鼓舞して体勢を整え再び攻撃に移った。一方鷲津砦も午前3時ごろ朝比奈泰朝が率いる6千の兵が攻めたてた。鷲津砦側は籠城策に出て弓鉄砲で抵抗した。所詮無勢に多勢、午前9時か10時ごろ両砦は陥落した。 払暁からの戦闘に疲れた元康らは大高城へ戻り休息したのち、今川義元を迎える準備に入った。その後船団を組んで④鯏浦から服部左京亮友貞が到着し、城内はさらに活気づいた。だがその状況が一変する。城に駆け込んできた兵が、義元の討死を伝えて来たのだ。城内は大混乱に陥った。左京助は地団太を踏み、大高城を出航すると腹いせに熱田の町に火を放とうとした。元康は敵襲に用心し日が暮れるのを待って城を出発した。 【前:「出陣」へ戻る 次:決戦―「田楽坪編」/「田楽狭間編」へ進む】 |
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