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@丸根砦―名古屋市緑区大高町丸根【MAP】
佐久間盛重が守る。大高城を封鎖するために築かれた。元康の大軍を前に侍大将の服部玄蕃と相談、籠城せずに討って出ることにした。砦の兵は全滅するが佐久間盛重の行方がわからなくなっている。討取られてはいないようである。ちなみにこの戦いが本多忠勝・鳥居元忠の初陣であった。
【探索のヒント】「丸根」バス停から急な坂を登っていきます。その右手に砦への入り口があります。小高い丘の上に史跡の碑@慰霊碑Aがあります。その周りに小径があって民家の駐車場から大高城を望むBことができます。駐車場はないので砦の横の急な坂に路駐できますが、大高緑地に車を止めてゆっくり散策することをお勧めします。
【駐車場】なし
【鉄道】JR東海道本線「大高駅」
【バス】名古屋市営バス鳴海11・鳴子14・緑巡回「丸根」
A鷲津砦―名古屋市緑区大高町鷲津山【MAP】
織田信平、飯尾定宗・信宗父子が守る。城兵は520名ほどで大半が戦死した。しかし生き残った兵は丸根砦の生き残りの兵と共に中島砦に収容された。
【探索のヒント】県道50号線に沿ってある鷲津公園。車は隣の長寿寺に止めることもできますが心置きなく散策するにはやっぱり大高緑地がお薦め。
【駐車場】なし
【鉄道】JR東海道本線「大高駅」
【バス】「大高駅東」名古屋市営バス鳴海11・鳴子14・緑巡回
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B大高城―名古屋市緑区大高町城山【MAP】
信長から離反した鳴海城の山口教継は、謀略により手に入れた大高城と沓掛城を手土産に今川家へ帰属した。義元は鵜殿長照を送り込み、信長と知多半島の分断と海西郡の反信長派服部氏との連携のための拠点とした。その後城主は、永禄2年8月から朝比奈筑前守輝勝に代わったが、合戦時は再び鵜殿長照が城主となっている。また10月には奥平定勝と菅沼九助が人と物資の補充を行い、大高城の強化にあたっている。
このような尾張国内での表立った今川の動きは、信長を挑発する結果となった。岩倉織田に勝利し一応国内を安定させていた信長は、次の目標を自領の今川の拠点を潰すこととし、大高城と鳴海城封鎖作戦が開始された。これが功を奏して、大高城は深刻な食糧不足になった。その窮状を救うため、合戦の前日、松平元康が三河衆を率いて「大高兵糧入れ」を敢行した。これが通説だが『総見記』には、18日にはすでに義元は大高城へ入城しているとある。この通りだとすると『信長公記』の解釈は、18日夜、「明日の兵糧入れを円滑に行うため、明朝敵砦を攻撃する」とするとなる。これに対し『新編桶峽合戦記』は、「大高城へ入った義元が来た道を戻って、桶狭間山の北で陣を張ったというのはどう考えてもおかしい。出陣するなら鳴海城を封鎖する砦の排除し、熱田を制圧するのが普通であろう。また18日移動説は土地の古老も間違っていると言うし、19日沓掛から大高へ向かう途中、義元は討たれたという住人の言い伝えもある。このような間違いは、三河勢と共に駿河勢も大高へ兵糧入れを行ったのを、駿河勢=義元と勘違いしたのが原因である」と書いてある。
両砦を落とした後、城内で兵を休めていた元康の許へ、夕刻義元討死の知らせが伯父の水野信元によってもたらされた。物見がそれを確認してくると、信元の使者浅井六之助を生け捕りにして道案内にして三河へ向けて出発した。この後はこちら
大高城は正確ではないが永正年間(1505〜21)築城とされる。花井備中守が城主だった。緒川水野氏が知多半島に勢力を拡大する中、忠政の弟和泉守忠氏が城主となり、大高水野氏と言われる。
【探索のヒント】2013年4月、10年ぶり3回目の訪問となります。初めて行った時は勝手に人の駐車場に止め、2度目で駐車場はなく路駐も不可能と分かったので、今回も自転車で訪問しました。
本町公会堂の前の道を北東へ行くと右に案内板があり、民家の横の細い道を抜けると大高城の入り口で、通常はここから入ります。南の大高保育園裏からも入れます。
現在は公園となっている城跡へ入ると、大高城の碑@があり道が左右にあります。左側を登っていくと鷲津砦と丸根砦のある棒山Aが見られます。坂を登りきった広場が二の丸Bです。右の土塁が本丸で、顕彰碑C城山八幡社Dがあります。
八幡社は花井備中守が鎌倉から分霊したと言われ、江戸時代は武士だけが参詣を許されて、庶民は現大高北小学校の南にある八幡社へ参りました。1616年に城跡に館を建てた尾張藩士志水忠宗の子忠時は、1670年城山八幡社前に一対の石灯籠を寄進しました。
二の丸を通って南西へ行くと土橋E三の丸F両側が土塁G虎口Hとなって民家の裏に出ます。ちなみに入口の右の道を行くと本丸横通じていて空堀Iがあります。
【駐車場】なし
【鉄道】JR東海道本線「大高駅」
@A
【寄り道】春江院―名古屋市緑区大高町西向山【MAP】
大高城主水野大膳が父和泉守の菩提を弔うため、尾張横須賀の長源寺四世峰庵玄祝大和尚を開山に迎えて、1556年(弘治2)創建された曹洞宗の寺院である。春江院は和泉守の法名から付けられた。
山口教継の寝返りに信長が戦を仕掛けた赤塚の戦いが1552年(天文21)4月で、そのひと月前に信秀が死んでいる。そのため信秀の死後すぐ教継が裏切ったような印象を受けるが、天文19年12月義元が丹羽隼人佐に沓掛・高大根・部田村を与えていることから、この地の領主近藤景春が義元配下になっている事が分かる。その景春を今川方に寝返らせたのが教継なので、信秀存命中に教継は離反したと考えられる。沓掛城と一緒に大高城も今川方に寝返らせたと言われるので、やはり天文19年水野氏は織田家から離反していると思われる。
緒川水野氏を宗家として、刈谷・常滑・戸部・大高に一族を配して知多半島を支配下に置いていた。だが各水野家は基本的に独自の外交政策を行っていた。緒川水野が親織田に対して、刈谷水野は今川方であった。従って大高水野家が信秀を見限りった事も十分考えられる。大膳の春江院創建が今川時代であったなら、ここにあったかもしれない砦は、当然大高城の出城と考えた方が良いのではないか。水野大膳のその後は不明で、鳴海城と同様結局は今川家家臣に城主の座を取って代わられている。
【探索のヒント】大高城祉公園の南、大高保育園の真向かいです。山門へ行く階段@の横の道を登っていくと駐車場があります。本堂Aも山門も1830年再建の国の有形登録文化財に指定されています。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】JR東海道本線「大高駅」
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【寄り道】氷上山砦―名古屋市緑区大高町火上山【MAP】
『張州雑志』に「村ノ西−南九−町計ニ在」と所在地を示すが、その役割については記載がない。そこで『天理本信長公記』の「大高の南、大野・小河衆置被」と関連付けられている。確かに大高城の封鎖を考えるなら、この方が効果的ではある。
今川軍が大高城から知多半島の西海岸を陸路南下できないようするのがこの砦の役割であったと思われる。
【探索のヒント】県道59号名古屋中環状線の南側を平行して走る「大高駅西交差点」と「蓮池交差点」を結ぶ市道の「折戸交差点」の西の信号を南へ入ります。400mほど行くと丘陵@の中の道になり、間もなく「←氷上姉子神社→元宮神明社」の看板Aがあります。砦は元宮神明社にあったとされます。道幅が狭く路駐は無理なので、車は氷上姉子神社に止めた方がいいでしょう。
元宮のある火上山には、尾張氏の娘で日本武尊の妃となった宮簀媛命の館Bがありました。地元の人が散策するための道が整備されていますが、そこを外れると人工的な平坦地Cのような地形があちこちにあります。火上山全体が砦なら、規模は大高城よりも大きくなってしまうので、館跡より東に陣地を構えていたのでしょう。なお火上山の西の鉄塔の所は取手山といい、暗示させるものはありますが、火上山から斎山の丘陵の鞍部になるので、ここには砦はなかったと思います。
【駐車場】氷上姉子神社駐車場
【鉄道】JR東海道本線「大高駅」
【バス】名古屋市営バス緑巡回「折戸」
【寄り道】正光寺砦―名古屋市緑区大高町西正光寺【MAP】
『張州雑志』に「村ヨリ東南5町計ニ有ト云」との記載がある。これをみると伝聞らしいので、本当にあったのかどうかは不明である。大高城の大手は東にあったとされるので、正光寺砦はそこを封鎖するのが目的であった。また丸根砦と連携して、大高道の封鎖も可能である。
氷上山砦と共に知多半島の親織田の佐治氏と水野氏が立て籠ったと推定されている。西三河の国人が今川へ寝返る中、知多衆は織田家との関係を重視した。それは織田家が知多の国人の独立性を認めていたのに対し、今川は全ての権益を一手に握ってしまう可能性があったからと言われる。なお大野城主佐治氏が信長方になったのは、桶狭間合戦後という説もある。
もう一つの当事者水野氏は織田方であるのは知られている。ところがこの年と推定される4月に、「水野十郎左衛門」に宛てて三尾国境の警固を命じる書状が義元から出されている。これにより水野氏が織田家からの離反も考えられ、『天理本』とは食い違ってくる。ただ「十郎左衛門」については、水野信元説とその弟信近説がある。信元説は緒川水野家の祖貞守が十郎左衛門を根拠とし、信近説は『張州雑志』、『東浦雑記』による。信近は確かに今川方なので、十郎左衛門が信近と理解した方がいいのかもしれない。すると信元が大高城包囲に参加していたことになる。
信元は義元出陣を信近から知らされ、信長の了解のもと退去した。緒川城へ戻った信元は、信長に味方しないと誓約して攻撃対象とはされなかった。それでも安心できない義元は、信近に信元の監視を命じた。信元は砦退去にあたり、今川軍の陣容や行軍予定を信長に伝える密約ができていた。沓掛城での様子が信長の知る所となったのは、こうした事情があったからである。これに関して信近は全く関わりはなかった。だから警戒することなど全く考えていなかった。この無警戒ぶりが、忸怩たる思いで帰国する岡部元信の心に火を付けた。信長と和睦した以上、尾張では騒動を起こすわけにいかなかったので、三河ならという思いから刈谷城襲撃となった。その結果、信近を討取るという大金星を挙げた。これを今川氏真は信近の裏切りに岡部が鉄槌を下したと判断し褒め称えた。このように考えられないだろうか。なお、十郎左衛門を地理的に大高城主だった水野和泉守とする考えもある。
【探索のヒント】砦の正確な場所は分かりません。大高幼稚園・大高中学校の道を挟んだ南側の高台があったとされる所です。
【駐車場】路駐
【鉄道】JR東海道本線「南大高駅」
【バス】名古屋市営バス鳴海13系・鳴子11系「森の里団地」
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C城の腰―弥富市五明町築留【MAP】
城の腰を本拠に河内(海西郡)を治める服部左京亮(進)友貞(定)は河内の農産物以外に港から上がる利益で潤うこの地を尾張に併合しようとする信長に抵抗していた。そんな時、義元が河内の西にある蟹江城を攻めて占拠した。天文23年(1554)信長と同盟する知多半島の水野氏を攻めるため義元が設けた村木砦が信長に急襲、落城した。その一年後、義元は海東郡を占拠して東西から信長を挟撃するため、知多半島を迂回して蟹江城を攻めたのである。今川軍の海東郡進出は友貞にとって願ったり叶ったりで、すぐに友貞は今川氏に協力することにした。だが蟹江城は3年後の永禄2年、織田方に奪い返され、再び友貞の服部党は信長の脅威にさらされることになった。
服部党の今回の大高城入りについては、義元が死亡したためにその詳細は不明である。『信長公記』によれば1千艘の船団で大高城へ来たというのだから、物資輸送だけが任務ではなく兵員輸送が十分考えられる。ではどこへ兵を運ぶのかという事で、ひとつは蟹江城。本格的に東西から信長を攻めるためである。もう一つは熱田。海と陸から尾張の中心部を制圧するため。大高城から戻る途中で、熱田へ火を掛けようとしたのは、単なる腹いせだけではなく、当初の計画を実行しようとしたためとも考えられる。だが町衆の反撃にあって退却している。これについては、服部党が1千艘も持っているはずはなく、近隣からかき集めた可能性がある。それが人づてに熱田に伝わり、義元の尾張侵攻と関連があるかもと言う事で町衆が備えていた結果、服部党を撃退できたという見解がある。また、服部党が用意できたのは20艘ぐらいではという意見もある。
この後、美濃を手に入れて北伊勢に侵攻を開始した信長に対し、友貞は北伊勢の国人と協力して抵抗した。だが永禄11年(1568)正月、上饗庭に出かけた友貞は謀略に遭い自刃したといわれる。「伊勢名勝史」には「年賀の挨拶のため多気城(霧山城)の北畠具教を訪問中、織田軍に襲われ上相場村米野の陰涼庵で自刃、ここに葬られた。諱は「道円」とある。元亀2年(1571)から始まる信長の長島一向一揆攻めで長島城代服部左京亮戦死の記録があるが友貞の子供と考えられる。一揆は天正2年の総攻撃で壊滅、長島一帯は焦土と化した。翌年(天正末説あり)、浪人となっていた服部弥右衛門尉正友は宇佐美氏・佐藤氏・伊藤氏と共に家来を連れこの地へ戻り、農民を集めて開拓を始めた。正友は祖先の地荷之上城に居を構えた。その年の津島天王祭を見物していた信長が鎌倉時代より出ていた市江車が無いのを不審に思い問うたところ、市江車の関係者が滅んだことを知る。そこで市江島に復帰した四家に市江車の再建を命じた。これにより四家は「車屋」と呼ばれた。江戸時代には尾張徳川家八代藩主宗勝の幼少期の養育係を服部弥兵衛定元の妹く乃が勤めるなど荷之上村庄屋として服部氏は発展する。このような尾張徳川家との繋がりから、その縁の品々を現在に至るまで所蔵している。
河内服部氏の祖先は伊賀国服部郷の服部伊賀守宗純である。七名字(吉野十一党のうち公家の庶流を指す)の一人であった宗純は1386年征夷大将軍に任じられた尹良親王に従い各地を転戦した。1424年下伊那浪合で敵に襲われ自刃した尹良親王の子良王親王を子を守り、吉野十一党と三河から津島へ逃れた。その後、良王親王は津島天王社の神主宅へ移りその跡をを継いだ。七名字は社家となり土着、宗純も荷之上に居を構え河内(海西郡)を治める土豪となった。1440年には曹洞宗宝珠山興禅寺の末寺として竜宝山雲居寺を創建している。ちなみに義元に一番槍をつけた服部小平太の菩提寺である。
1480年代に入り中世日本の村の形態である惣村制に目を付けた蓮如は、その支配層を一向宗徒(真宗本願寺派)にし講を組織して惣全体を取り込んでしまう方式で、信者を一気に増やしていった。荷之上でも一向宗が広まり、それまで天台宗寺院であった興善寺は真宗本願寺派に改宗し、蓮如の孫実正を住職に迎えている。その大檀那の服部氏が土豪として河内での一向宗拡大に大いに貢献しているのは言うまでもない。「信長公記」の「荷之上の坊主」の「坊主」とは土豪などの支配層であり、一向宗の教えを広める僧の役割をする者のことである。
【探索のヒント】城の腰は「イオンタウン弥冨」の南の住宅地@Aにあったと『中世城館跡調査報告T』にあります。県道458号一宮弥冨線の「海老江交差点」から「小島新田交差点」へ行く途中で東へ入るとその住宅地です。遺構は全く残っていません。
弥富市の重文服部家住宅は弥富市歴史民俗資料館(月・火、年末年始休み)で予約すれば見学可能です。私は正月に行ったので中には入れませんでした。天正年間に建てられたこの家は江戸時代に修復、改造がされています。昭和49年表門B・主屋・離れ座敷が重文に指定され、55年には文庫蔵と掘割Cに囲まれた敷地、土塀、所蔵する古文書・古図も重文に追加されました。昭和51年にから55年まで改装工事が行われ江戸時代の様式から建築当時の姿になっています。名鉄尾西線「五の三駅」の東500mほどの所に服部家住宅はあります。駐車場はないので道路わきのスペースに駐車しました。
【駐車場】路駐
【鉄道】JR関西本線「弥冨駅」近鉄名古屋線「近鉄弥富駅」
【バス】弥冨きんちゃんバス東部・南部・北部ルート「イオンタウン」
●服部家住宅【MAP】
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄尾西線「五の三駅」
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