@桶狭間山―豊明市栄町付近【MAP】
 
桶狭間山はどこかわからない。田楽狭間古戦場公園の横の急な坂を上ると(ホントに急)ここへ出る。小和田哲男氏は標高64.7メートルの丘を桶狭間山と推定しいる。この件で非常に役に立つホームページがある。それによると64.7メートルの山は雑木林になっていて陣を張れるような場所でなかったとしている。また「成功記」「桶峡合戦記」には桶狭間山の北の松原に陣を張ったとあるので「信長公記」の「おけはざま山」は「おけはざま山のあたりで」と読み替えた方が正しく感じる。それに義元が乗った輿を山の上へ運び上げるのを考えるとある程度見通しの利く高い場所に陣を張ったのではないだろうか。
桶狭間村周辺の有力者たちから提供された酒や食料を兵たちに分け与えるために義元は昼食休憩に入った。そこへ佐々政次・千秋四郎の首が届けられ
ると「我が槍先には鬼神も恐れて退散するであろうと」大いに喜び、謡を三番謡った。小和田氏はここで昼食休憩に入ったのは既定にことだったとしている。「伊束法師物語」と「三河国郡志」によると前日の18日、この付近に先鋒が陣を構えていたらしく、その跡を利用したと考えられるからとしている。
【探索のヒント】本当は車で来たほうが楽だったでしょうが自転車で来ました。付近は町工場がたくさんあるので車だと邪魔になってたかもしれません。一番高い場所は泉団地と言って住宅地です。周りに建物があって下の様子は見えませんでしたが当時はきっと視界が開けていたと思います。
【駐車場】なし 【最寄の駅】名鉄名古屋本線「中京競馬場前」
 
@A
B義元本陣の西側【MAP】
義元は織田軍に備えて本陣の西に部隊を配置した。まず本陣のある高台のすぐ下に一族の瀬名氏俊を置いた。南北朝動乱期駿河・遠江守護だった今川範国の子了俊(貞世)を祖とする遠江今川の流れを汲むのが瀬名氏である。この戦いの後今川氏が没落すると氏俊は浪人となる。孫の政勝は家康に仕え、小牧・長久手の戦いに出陣して功を挙げ三百石を与えられた。のち加恩を受けて五百石となり、代々徳川旗本として続いた。
氏俊の陣の西側、巻山には井伊直盛(井伊谷城主で井伊家22代目)が布陣していた。直盛は義元を救おうとしたが戦死する。その後を継いだ直親は2年後家老の小野但馬守の「直親は家康に内通している」という讒言を信じた今川氏真の命によって朝比奈泰朝に殺害された。その子虎松にも命の危険が迫ったので重臣真新野左馬助親矩が匿い養子として育てた。この子がのちの井伊直政である。
この巻山の北にある幕山には二俣城主松井宗信がいた。信長の奇襲を受けたことを知ると宗信は救援に向うがすでに義元は討ち取られたあとだった。それにも拘わらず宗信は一族と供に200人あまりで織田軍に斬り込み全滅している。宗信のあとは宗常が継いで今川、徳川、武田と主家を変えながら松井家を維持したが、武田家滅亡と供に松井宗家も歴史上から消えた。ただ一族のうちで徳川の旗本として取り立てられた者もいた。
【探索のヒント】氏俊の陣地跡@と大池を挟んだ反対側に義元が氏俊を交えて戦評議をしたとされる場所に戦評議の松Aがあります。この周辺には駐車場はありませんので大池のそばに路駐するか長福寺の駐車場を利用したほうが良いです。
【駐車場】長福寺駐車場 【最寄のバス停】名古屋市バス「桶狭間寺前」「幕山」
 


C桶狭間古戦場田楽坪―名古屋市緑区有松町大字桶狭間字ヒロツボ
桶狭間古戦場跡は2ヶ所ある。こちらはおけはざま山の西側。「続明良洪範」には義元は馬に乗って島田左京・沢田長門守ら12、3人と大高城へ向かって走り出したが織田の兵に味方が次々討取られ独りになったところを服部小平太、毛利新介に首をとられたとある。小和田氏はこちらが義元戦死の地と判断されている。
ここでエピソード。駿河城下にいるときに今川の家臣を5人切り殺してしまい今は桑原村に隠れ住んでいる武田の臣原加賀守の子供で桑原陣内というものが信長に謁見、自分は義元を見知っているので協力したい、さらにこの戦いで手柄を立てたら家臣にして欲しいと訴えた。信長はこれを承諾、陣内は知人に会うためと義元の本陣に入り込んだ。信長の突入を合図に陣内は今川の兵を切り殺し服部小兵太を義元のもとに導いたという。だが陣内は乱戦の中で戦死してしまった。
【探索のヒント】大池の横の道を北へ向かって行くと公園があります。きれいに整備されていて散策に疲れたら休んでいきましょう。
【駐車場】なし 【最寄のバス停】名古屋市バス「幕山」 【MAP】
 
@A
D桶狭間古戦場―豊明市栄町南館(高徳院)【MAP】
ここは義元の本陣跡として知られている。しかし最近では「おけはざま山」が有力地となっているのでここには瀬名氏俊隊と同じ本隊の警護部隊を配置していたのではないだろうか。そして義元が襲われたとき沓掛城へ逃げようとした兵や逆に助けに行こうとした兵と織田軍とが乱戦になった地点かもしれない。
高徳院は810年高野山に開創され明治中期にここへ移転して来た。入学、就職、良縁、安産などの御利益のある龍神がまつられている。また夏の丑の日には無事息災、病気平癒を祈願するきりう弘法が行なわれる。
【探索のヒント】桶狭間古戦場として有名な高徳院@には桶狭間関連の史跡や遺物が多くあります。義元の木像・義元の墓・仏式義元の墓A・七石表・松井宗信の墓・弔古碑・お化け地蔵・徳本の名号塔・義元本陣跡があります。
【駐車場】専用駐車場 【最寄の駅】名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」
 
@A
服部小平太最後の地― 服部小平太の墓―
義元に一番槍をつけた服部小平太のこの後の足跡は不明であるが本能寺の変で信長が死んだあと家康に仕えたとする説がある。家康は現在の細江町辺りを治めさせたがもとは今川領だったことから小平太を快く思わない者によって天正15年(1587)6月18日見回りで丁度ここへさしかかったとき暗殺された。A墓(静岡県浜松市細江町)はここから数十メートル下にある。ところが別の資料だと本能寺の変後は秀吉によって伊勢3万石を与えられたが秀次事件に連座して1595年切腹しているとある。同じ服部姓だが別人なのではないだろうか。
【探索のヒント】姫街道に最後の地の碑@があります。県道391号細江浜松線「根洗い松」交差点を西へ向います。三つ目の信号を右折、県道261号磐田細江線に入りますがしばらくすると道が二股に分かれます。左の道を進んでいくとまた二股に道が分かれています。今度は右の道を行きます。ここから姫街道に入ります。左手に大日堂があれば正解です。そのまま進むと巨大なお姫さんの絵の書いてある貯水タンクに前に着きます。ここへ車を置き、あとは徒歩ですがすぐにあります。
●服部小平太最後の地【MAP】:【駐車場】なし
●服部小平太の墓:
【MAP】
 
@A
B
E長福寺―名古屋市緑区有松町桶狭間【MAP】
長福寺@は浄土宗の寺。天文7年(1538)に善空南立上人が開山。今川軍がこの付近に陣を張るのを聞いて上人は周辺の住民を代表して歓迎した。今川義元の首実検Aを命じられた林阿弥が境内の杉の付近で行った。林阿弥の持参した阿弥陀如来が本尊。また合戦で死亡した兵の供養塔Bもある。
【探索のヒント】「本陣の西・・・」の所で書きましたが駐車場があるのでそこを使いましょう。
【駐車場】長福寺駐車場 【最寄のバス停】名古屋市バス「桶狭間寺前」「幕山」
 
F戦人塚―豊明市前後町【MAP】
大脇・曹源寺二世の快翁龍喜がこの戦いでの両軍の戦死者2,500余人を供養した塚。昔は「駿河塚」と呼ばれていた。塚上の碑は元文4年(1739)、180回忌の供養祭に建碑されたものといわれている。地名も初めは「戦人塚」だったが印象が悪いと言う理由で「仙人塚」と言う地名に変更された。
【探索のヒント】国道1号線に表示が出ていますがゆっくり走らないと見過ごします。
【駐車場】なし 【最寄の駅】名鉄名古屋本線「前後駅」
 
@A
B
G大聖寺―豊川市牛窪【MAP】
首を取られた義元の遺骸は駿河へ引き上げる兵たちによって運ばれていたが真夏のことで腐敗も進んだためにここに埋葬されたA。そのとき墓石の代わりに石の手水鉢が使われた。永禄6年氏真によってここで三回忌法要が営まれ、義元の位牌所として寺領を安堵された。
大聖寺はもとは永享の乱で鎌倉から逃れて来た四職のひとり一色刑部時家Bが1439年築いた一色城@の本丸だったとされる。時家は1477年家臣の波多野全慶によって殺害された。1493年今度は牧野古伯が全慶を討ち城主となるが今橋城(吉田城)築城で次男成勝を新城主に迎え、この時から牛久保城と名を変えた。これが一般的な話である。しかし郷土史をみるとはじめ城跡は現在しないとしていたのに最近では大聖寺がそれに当たるという記述が増えている。全慶の墓が一色城本丸にあったとする資料があるがそうするとこの寺に全慶の墓もあるはずだが確認されていないことから、大聖寺≠一色城の本丸が推定される。この件に関して非常に参考になるのがこちら→
AB
【探索のヒント】義元の墓を見学するためにこの地を訪れただけだったので正直一色城に関する知識はなく、すぐに牛久保城へ向かってしまいました。しかし帰宅後一色城がここではなくもう少し離れた所も候補になっていると知って行く前にちゃんと下調べしとくんだったと後悔しています。お寺の周辺は道が狭く、地元の人なら平気で入ってくるでしょうが私は自信が無かったので八幡宮で車を停めて歩きました。お寺に隣接した土塁が本丸の土塁といわれています。
【駐車場】境内に駐車可能 【最寄の駅】JR飯田線「牛久保駅」
 
@A
H義元塚―新川町須ヶ口【MAP】
信長は20日に今川方の首実験が終わると遺骸を集めて丁重に葬るように命じた。戦人塚が両軍の戦死者を弔うのに対してこちらは今川の兵のためと言われている。「武徳編年集成」によると今川の全戦死者は2753人でうち驍士(勇猛な武士)583人、名のある武将は45人としている。
【探索のヒント】名鉄「須ヶ口」西出口からでて最初の信号を左に曲がると写真の民家@があります。こちらに正覚寺三誉上人が建てた石碑Aがありますが一般の方のご自宅なので連絡をしたほうがいいでしょう。ちなみに私は正月に行ったのでお留守でした。また行きます。
【駐車場】
【最寄りの駅】名鉄名古屋本線・津島線「須ヶ口駅」