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@丹下砦―名古屋市緑区鳴海町丹下【MAP】
古屋敷を改装して砦とした。水野帯刀忠広(信長の黒母衣衆)、山口海老丞廣憲(のち明忠院を創建)、柘植玄蕃頭友顕、真木与十郎・宗十郎、伴十左衛門尉が守る。兵は約3百ほど。
【探索のヒント】山王山と同じ丘陵の南端に位置します。光明寺@が砦跡です。『新編桶峽合戦記』に東西46間(83m)南北43間(78m)とあるので、南北は光明寺の墓地Aまで東西は県道222号緑瑞穂線から寺の東の道までが城域です。 標高は9mですが今でも熱田・名駅方面はよく見えますB。よって低地である鳴海城方向も今と違いよく見えていたと思います。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「鳴海駅」
【バス】名古屋市営バス新瑞12系「浦里2丁目」
A成海神社―名古屋市緑区鳴海町乙子山【MAP】
成海神社は688年創建で日本武尊を祀る。「熱田の東宮」という意味で東宮大明神と言われ、1557年の義元の安堵状にもそう記されている。1395年頃、成海神社が鎮座する地に鳴海城を建てる事になり、安原備中守範宗は乙子山に奉遷し、社殿・御供所・篭所・鳥居・神輿を新たに作り直した。廃城となった鳴海城は飛び地境内となっている。
安原氏は足利氏・新田氏と同じく、源義国(八幡太郎義家の子)の子孫である。足利義満に仕えた備中守範宗は鳴海を領有した。
【探索のヒント】丹下砦(光明寺)の東250mの森です。駐車場は神社の東側です。
【駐車場】専用駐車場
【電車】名鉄名古屋本線「鳴海駅」
【バス】名鉄バス鳴海・有松地区「白山」
@A
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B鳴海城―名古屋市緑区鳴海町城
山口父子が成敗された後、岡部元信が守っていた。兵は5百から8百詰めていたという。善照寺砦から5百m西にある。信長公記には「兵は砦の東側に3千勢ぞろいした」とある。善照寺砦の東側は鳴海城からは全く見えないのを利用した。
義元の死後、佐々成政の兵が鳴海城を攻たが、義元に殉じる覚悟の元信の抵抗に戦いはこう着状態となった。消耗戦を嫌った信長の度重なる開城勧告にも従わなかった元信だったが、駿府から氏真の帰国命令が届き、ようやく開城を決断した。この後、元信は義元の首を持って帰国の途に就くが、首の受け取りに関し、元信の要求、清須城へ来た元信の使いの口上に感じ入った信長の好意との意見がある。
今川氏が滅んだあと元信は武田家に仕えた。1574年勝頼は徳川の高天神城を落とすと元信を守将に任じた。だが翌年の長篠合戦で勝頼が敗れると徳川の反撃が始まり、1581年高天神城は包囲された。元信は勝頼に救援要請をするが、余力のない勝頼はこれに応えられなかった。諦めた元信は敵陣に切り込んで討死した。
【探索のヒント】旧鳴海神社に鳴海城の碑@A【MAP】があります。その斜め前にある圓龍寺B【MAP】は鳴海城二の丸であったとされ、圓龍寺の発掘調査で二の丸南側の堀跡と思われる東西に延びる溝が見つかっています。圓龍寺は昔は「善照寺」という名で善照寺砦の地にありました。桶狭間合戦で消失、今の場所に再興されて名前が変わりました。
圓龍寺には専用駐車場がありますが、鳴海城近くは路駐できないので、「なるぱーく」の駐車場を利用するのも手です。
●鳴海城:【駐車場】なし
●園龍寺:【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「鳴海駅」
【バス】名鉄バス「鳴海駅前」
【寄り道】刈谷城―刈谷市城町1丁目【MAP】
義元の首を携え引き上げる岡部元信だったが、途中の刈谷城から追撃を受ける可能性を考え斥候を放った。しばらくして戻って来た斥候は、城主水野信元は兵を連れ城を出ており、城には信元の弟信近とわずかな兵しか残っていないと知らせて来た。
元信は「此度の戦いは、屈辱以外の何物でもない。駿府に手ぶらで帰るわけにはいかないので、城方が油断しているのに乗じて人暴れするぞ」と刈谷城攻撃を命じた。元信配下の伊賀・甲賀衆が浜手から城へ侵入、方々へ放火して回ると、岡部軍も門を突破してなだれ込んできた。不意を突かれた水野の兵は次々討取られ、ついには信近が伊賀衆に突き倒され、首を取られてしまった。この変事を聞きつけた水野信元の老臣上田玄蕃が兵を連れて城へ駆け、城内の敵を倒し、次いで伊賀衆も討取って信近の首を奪い返した。
元信は「味方も失ったが、信近を討ちとれたのは何よりだ」と満足して刈谷城をあとにした。駿府へ帰った元信に、氏真は鳴海上で抵抗し続けた忠誠心と、信近を討取り城に火をかけた武勇を称え感状を与えている。
水野氏は水野十郎左衛門貞守から始まり、忠政の頃に佐治氏・戸田氏の領地を除いた知多半島の領有化を成し遂げた。その過程で一族を各所に配置、刈谷もその一つである。刈谷水野として確認できるのは、和泉守守近・藤九郎守忠で、信近は守忠の養子であった。
1533年に緒川城主水野忠政は、従来からあった刈谷城とは別に新たな城を築いて移った。これは守忠が死去した時、信近が幼少でそれを後見するためだったという意見がある。信近が成長すると刈谷城主となった。信元が親織田という立場で、信近もそれに倣ったが、一方では斎藤道三や今川義元から親密な文書のやり取りがあり、これは信近が元信の外交窓口になっていたからという見解もあるが、刈谷水野家として独自の外交を展開していたのはとも言われる。
だが1549年織田方の安祥城が太源崇孚率いる今川軍により落城してから、この地域の状況が変わってくる。どうやら刈谷城が今川方の手に落ち、松井宗信が城代となったようである。
これに対し信秀が城を水野氏へ戻すよう義元に要請し、信近が城主として復帰するが、以降刈谷城は今川方の城となったと言われる。それを裏付けるような「今夏、尾張に出兵を予定している。その前に尾張国境の砦にこちらから兵を送る。前線での活躍を期待している 4月12日 義元」という書状ある。朝比奈備中守が十郎左衛門に届けたもので、一般的に永禄3年のものといわれる。
【探索のヒント】
【駐車場】亀城公園駐車場
【鉄道】名鉄三河線「刈谷市駅」
【バス】刈谷市公共施設連絡バス「体育館」
@A
BC
C善照寺砦―名古屋市緑区鳴海町砦【MAP】
ほとんどの史料は佐久間左京亮親盛(佐久間信盛の弟)が守るとあるが、『尾張雑記』には信盛の名もあり、守備兵は450としている。先行して来た丹羽長秀が砦の全兵を東の谷に集結させておくように伝え、間もなく信長の部隊がやって来た。ここで信長は部隊を二つに分けた。一隊は砦にそのまま残し、信長率いる部隊は中島砦に向かおうとした。これは作戦になかったのか、重臣たちがあわてて引き留めようとしている。
砦に残った部隊の動向、メンバーが史料によりまちまちであるために、様々な推測がなされる。『新編桶峽合戦記』は絶対に書き漏らすことのない柴田勝家と池田恒興の名が奇襲部隊にないのは、善照寺砦に残ったからだとする。確かに中島砦へ向かおうとする信長を押し止める中に、勝家は居るがそれ以降は名前は出ていない。同じようにこれ以降名前の出ない丹下砦・善照寺砦・中島砦を守った武将も残ったとしている。また砦に残った部隊の役割は鳴海城への備え、沓掛方面から攻める別働隊と言われる。砦に残った兵は最大で2千名。
【探索のヒント】特に遺構はありませんが鳴海城と同じ丘陵の東端の砦公園@が砦跡です。砦の東Aは10mも低くなっているので、鳴海城からは死角になります。駐車場はありませんが、路駐している車がたくさんあります。この辺りから南へ低くなっているので今川軍が布陣していた可能性のある左京山や漆山は一望Bできます。砦を出た織田軍は六条田面を通って中島砦へ向かいますが、焼田橋への道Cを進んだと思います。
【駐車場】路駐
【鉄道】名鉄名古屋本線「鳴海駅」
【バス】「鳴海小学校」「緑市民病院」
名古屋市営バス 幹鳴子1・鳴子13・14・15、新瑞12、緑巡回
@A
BC
D中島砦―名古屋市緑区鳴海町中下【MAP】
梶川平左衛門高秀(重実、正嗣)が守る。平左衛門はここの住人と言われ、大脇城梶川五左衛門の兄。善照寺砦の東の谷を出た信長一行は、南の六条田面を通って中島砦の東側へ向かった。田園地帯の一本道で鳴海城から丸見えだったが、善照寺砦に残した兵が鳴海城の動きを封じ込めた。
『東照軍鑑』には義元討死を大高城の松平元康に知らせた浅井六ノ助は、水野信元からここへ派遣されていたとある。
【探索のヒント】扇川と手越川の合流地点@にあり、潮の干満の影響を受けやすかったといいます。江戸時代の記録では、砦のあった所には家が建ち並んでおり規模の確認はできなかったとあります。でも梶川平左衛門の碑はあったといいます。今は民家に中島城の碑Aが建っているだけです。今は建物がたくさん建っているのでどの程度目視できたかは判断はしかねますが、中島砦側Bからも南の丘陵(画像は左京山)Cからも相手の陣地は見えたと思われます。
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「鳴海駅」
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