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@境川―豊明市と刈谷市境界【MAP】
池鯉鮒を出た義元は鎌倉街道を西へ進み、境川を渡って沓掛城へ入った。ところが沓掛城以東の鎌倉街道が不明なので、どこで渡河したのかは不明である。刈谷藩家老浜田與四朗の調査報告によると、東海道が作られた1600年代初め以前はそれより北の刈谷市西境が渡河点であったとしている。確実なのは現国道1号線より南は入江になっていて渡河は不可能であったということである。東海道開通後、境川を越える為に境橋がかけられた。当初、橋の真ん中より西(尾張)側は板橋で、東(三河)側は土橋であった。洪水で橋が流されてから全面土橋に改修された。
【探索のヒント】国道1号線の境川@にかかっている新境橋と並んでかかている橋が境橋です。橋の豊明市側には藤原朝臣光廣の「うち渡す尾張の国の境橋 これやにかわの継目なるらん」の歌碑Aが建っています。それほど車が通る道ではないので路駐はできそうですが、ラウンド・ワンのそばの方が道幅も広く路駐には適していると思います。
【駐車場】なし 路駐
【鉄道】名鉄名古屋本線「豊明駅」
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AB
A信長出陣―清須市朝日城屋敷【MAP】
1557年に鳴海神社と八幡神社へ義元が神田安堵の朱印状を発行しているように、すでに愛知郡の一部が今川の勢力下に入りつつあった。鳴海城とそれと連携する大高城はその拠点であったが、信長は村木砦攻めで見せた果敢な攻めを見せなかった。この時期、信長は尾張統一のため反対勢力を排除している最中で、城攻めによって義元を刺激したくなかったのだと思う。
1559年春、水野信元から義元が尾張出兵の準備をしているとの知らせが入った。それを裏付けるように大高城強化を図った城主交代や兵糧移送が行われた。ようやく国内統一の道筋が立ったのに、今川に対し無策で国人たちが離反する事態は避けたかった信長は、ようやく両城の対処に乗り出した。だが攻撃を仕掛けるのではなく、砦を孤立させる手段を取った。それは早晩義元と決戦するのに、兵力を温存する狙いがあり、兵糧攻めで城が落ちればいい程度に考えていたのではないだろうか。信長の狙いは義元との決戦と考える人は、落城させると義元が尾張へ来なくなるから、兵糧攻めで義元をおびき寄せたとし、決戦場も桶狭間と決め、下見や間道の敷設を行っていたと想像する。
水野から間もなく今川先遣隊、尾張侵入の知らせをを受けた信長は、簗田広正と各砦に水野と連携しつつ、また各自でも情報収集するよう命じた。次々に入る情報から、桶狭間の丘陵に今川軍がバラバラに布陣している、その中に本陣らしきものを構築中と分かった。その後しばらく情報が途絶え、信長も焦るものがあった。それを紛らわすため、城に集まった家臣と雑談を交わしていた。そんな18日夕刻、沓掛城での評定で19日早朝松平元康と朝比奈泰朝の部隊が丸根・鷲津砦を攻めるとの報告があった。数万と言う今川軍だが桶狭間と大高城に部隊を分散するので、義元本隊との戦力差はかなり縮まったと信長は思った。また丸根・鷲津砦を攻略するのは、義元が安全に大高城入るためと判断した。信長は一撃で相手に大打撃を与える、すなわち義元に狙いを定めた「一点突破全面展開」を狙っていた。それを仕掛けるのは大高城へ入るまでの間。
一世一代の大戦に興奮する頭脳を無理に休める為に、信長は床に就いた。明け方近く今川軍が丸根・鷲津砦を攻めているとの知らせが入った。信長は単騎城を飛び出した。つき従うのは、『信長公記』によれば、岩室長門守・長谷川橋介・賀(加)藤弥三郎・佐脇藤八・山口飛騨守の小姓たちであった。
ちなみに岩室長門守は翌年の小口城の戦いで戦死したとされるが、『甫庵信長記』、『松平記』、『総見記』などでは佐々・千秋隊に加わり戦死したと書かれている。長谷川橋介は赤塚の戦いにその名が見られるが本人かどうか不明。加藤弥三郎は熱田の加藤順盛の二男。大河内城攻めに従軍。佐脇藤八は前田利家の弟。山口飛騨守は加藤弥三郎と信長の古参近習赤川景弘(坂井道盛と同一人物か)を切り殺したため、信長の勘気を蒙り追放となった。この一件には佐脇藤八・長谷川橋介も関わっていたのか同じく追放されている。その後、4人は徳川家康の客将となり、三方ヶ原の戦いで全員戦死した。
【探索のヒント】清須城の駐車場へ行くには国道302号線「清州中学校前交差点」の西の側道からか、県道67号名古屋祖父江線から五条川の北の川沿いの道を使います。
清須城の展示内容は変わるので、信長出陣の展示@は現在ありません。おなじみなのは清須公園の信長像Aですが、2013年正月に行った時、以前清須城にあった濃姫像Bがこちらで信長を見守っていました。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「新清洲駅」 JR東海道本線「清洲駅」
【バス】きよすあしがるバス「清州市民センター(清須城東)」
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B熱田神宮―名古屋市熱田区神宮1丁目1【MAP】
熱田神宮の大宮司は古来より尾張氏であったが、11世紀半ば、その職にあった尾張員職は、尾張国司となった橘俊綱に挨拶に出向かなかったことで怒りを買い、その所領を没収されかかった。尾張で幅を利かせていた熱田神宮大宮司家であっても、中央政府にとっては特別な存在ではないと員職は実感させられた。そこで尾張目代の藤原季兼に娘を嫁がせ、中央とのパイプを築いた。その子季範は員職から大宮司職を譲られ、以降藤原家が大宮司となった。ただ大宮司であっても在京が基本なので、在地である尾張氏の祭祀権と社領経営権は相変わらずだった。
藤原季範の男子中、季忠(範忠)・範信・範昌(範雅)の家系が大宮司職を継承する。信秀の稲葉城攻めで戦死したの季光、桶狭間合戦で戦死した季忠(季光の三男)の千秋氏は範信の長子範朝が始まりである。なお季忠の次男清季は野田二郎を名乗り、これが尾張野田氏の祖となる。
千秋氏は鎌倉時代は六波羅評定衆、室町幕府では、三番と五番の奉公衆を務めた。三番は駿河守を名乗り、斯波氏と姻戚関係があった。知多郡羽豆崎城を本拠とし、大宮司職を継いだのはこの系統である。季通の頃、織田弾正忠家と結びついた。
天正2年、季忠が討死した時、母の胎内にいた季信が元服した。信長はその父と祖父が織田家のため討死したことにふれ、「熱田神宮の宮司は非常に重い職であるから、この血筋を絶やしてはいけない。今後は戦に出ず、本来の仕事に専念すればよい」と話した。なお後継者の決定については、異母兄五郎季重と争いになり、信長が季重を追放して決着させたと『塩尻』にある。季重を叔父とするものもある。
【探索のヒント】熱田神宮は日本武尊の死後、遺品となった草薙剣を祀るため建てられました。専用駐車場は神社の東側に多くあります。本殿@の手前に信長塀Aがあります。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】JR東海道本線「熱田駅」名鉄名古屋本線「神宮前駅」
【寄り道】日置神社―名古屋市中区橘1丁目3【MAP】
熱田社へ向かう信長は日置神社へ立ち寄った。ここで戦勝祈願するとともに敦盛を舞って後続部隊の到着を待ったと伝えられる。戦に勝利した信長はお礼に1千株の松を神社に植えた。以降、千本松日置八幡宮と呼ぶようになった。当時はかなり広い敷地だったが、寛文年中(1661〜1672)に一部宅地となり、天和年中(1681〜1683)には寺院建設のためさらに狭くなった。信長の松も伐採や枯れたりしてどんどん減って、明治29年最後の一本が枯れて消滅した。
【探索のヒント】名古屋市のど真ん中にある神社ですが、国道19号線から少し奥まった所にあるので非常に静かです。大須通りの「大須交差点」から国道19号線へ行く門前町通の「門前町交差点」を西へ、すぐに南へ行く一通の道を左折します。駐車場は次の辻を右折します。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名古屋市営地下鉄鶴舞線「大須観音駅」
【バス】名古屋市バス中巡回系統「橘町」
C源太夫殿宮―名古屋市熱田区1丁目1【MAP】
清須城を単騎飛び出した信長は、追従する小姓に熱田神宮への集合を伝言として残した。このタイミングで出陣したのは、両砦への攻撃がガセネタではない事が分かったからであろう。今川軍がここへ兵力を割かなければ、織田軍との兵力差が大きいままだからである。信長が元々両砦を放棄する気だったのは、満潮時間が迫っているのに、出陣前に敦盛を舞ったり、熱田神宮で小細工をした戦勝祈願をしていることからもわかる。
【探索のヒント】熱田神宮を南へ行った右にある上知我麻神社のことです。日本武尊の妃、宮簀媛命の父、乎止與命を祀っています。現社殿は昭和40年12月に移されたもので、それ以前も数度移転しています。本来どこにあったのかは不明で、知我麻(ちかま)から南区千竃と推理されておられる方もいます。とにかくどこかにあったのですが、その時火災に遭い本殿が焼失しました。そのあと現在地より南へ3百メートルの市場町(熱田区伝馬1丁目)の文殊堂には配祀されました。昭和24年12月、道路建設のため正参道入口の左側に移転。その後、現在地へ移りました。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】JR東海道本線「熱田駅」 名鉄名古屋本線「神宮前駅」
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