@A
BC
DE
@今川義元の進軍ルート
伝説地を古戦場跡とする場合の義元進軍ルートは、沓掛城を出あと境川に並行する東浦道を南に下っていてはたどり着けない。東阿野村から西への道、東海道はこの時まだなかったからである。寛政(1789ー1801)に尾張藩が作らせた沓掛村のものを見ると、沓掛峠へ行く道(鎌倉街道)と分かれて間米村へ行く道がある事が分かる。この道が合戦当時にあったのかどうかは不明なので、伝説地付近まで行ける可能性も否定はできない。『桶狭間合戦名残』には沓掛村から間米村へ通じる道があって義元はそこを通ったと書かれている。
【探索のヒント】東郷町の祐福寺@【MAP】には桶狭間合戦の時に義元が本陣を置いたAという伝承があります。この伝承の出典は不明です。境内Bの本陣跡という立て札の周りに縄が張られて、石碑と宝筐印塔がありますが、義元には関係ありません。石碑は1837年製作のもの、宝筐印塔は豊明市薮田の法雲寺の裏山より移したものという事以外不明です。
沓掛城主近藤氏の祖で明知(みょうち)城主小野田長安が、傍示本(ほうじもと)城主加藤時利と達智上人に帰依して、1388年七堂伽藍の祐福寺を創建(または再建)しました。
義元の進路ついては『桶狭間合戦名残』の「戦人塚」の項目に、「沓掛村より間米村地へ懸り古戦場の辺りへ小縄手あり、義元も此道より本陣へ通行之由」とあります。その道は不明ですが、何人かの方の推定はほぼ一致していて、二村台の西「間米東交差点」C【MAP】を中京競馬場の方へ進み、「鶴根・榎山交差点」を右へ入り、「中京競馬場南東交差点」D【MAP】を直進して国道1号線の「三ツ谷交差点」E【MAP】へ出ていくものです。「間米東交差点」を県道237号新田名古屋線へ入り、少し行くと右側に田圃が広がっています。ここにも道があったと考えられています。
●祐福寺【駐車場】専用駐車場
【バス】東郷町巡回バス南北コース「祐福寺」
@A
BC
【寄り道】二村山―豊明市沓掛町皿池上【MAP】
二村山頂より南へやや下った沓掛峠は尾張と三河を結ぶ鎌倉街道の通過点で、平安時代より交通の要衝であるとともに伊勢湾を望めた名勝地でもあった。永禄10年3月24日九之坪城から沓掛城へ向かった里村紹巴が簗田出羽守の家臣に出迎えられたのもここである。
『信長公記』他に沓掛峠で強風で巨木が倒れたと書かれているが、この目撃談が織田別働隊の存在を裏付けると言われる。目撃者について太田牛一ならば中島砦で信長と別れたと思われ、中島砦から山の麓まで進路が書かれていない理由が分かる。ただ本陣突入後の描写が伝聞とは思えない描写なので、牛一は倒木を目撃後、山裾の信長と合流したことになる。別行動の目的より、時間的に可能であったのかという疑問が湧きこれはあり得ないと思う。では他の別働隊か。今川軍の動向を探るため簗田出羽守一派が要所を監視していたのは確かであろう。その中で鎌倉街道は鳴海城救援部隊が来る可能性が一番高く、絶対に監視すべきルートである。鎌倉街道の今川軍について、藤本正行氏は蓬左文庫の江戸時代の戦場絵図(橋場日明氏は『桶狭間之図』とする)に桶狭間の北の谷筋に描かれている(橋場氏は先の絵図に書かれた「今川魁首此道筋ヲ押」の事とする)から部隊がいたとする。藤本氏が善照寺砦からの迂回奇襲が不合理であることを示すためこれを取り上げているのに対し、橋場氏は柴田勝家が率いる義元を挟撃するための別働隊は、この部隊との遭遇戦に勝利して沓掛峠へやって来たと想像を膨らませた。
『総見記』に善照寺砦を出ようとした信長が「先手ノ大軍ヲ皆本道(鎌倉街道)ヘ遣リ過シテ、<中略>義元ノ本陣エ一同ニドツト突掛り」という信長の作戦が書かれている。簗田隊が鎌倉街道で今川軍を発見したら直ちに善照寺砦に連絡。砦側の役割は迎撃するのではなく、今川勢を足止めして主戦場へ行かせない事と信長の退路を確保することである。そのために柴田勝家や池田恒興という織田家随一の猛将をここへ留め置いたのである。橋場氏がいう別働隊は信長とタイミングを合わせて本陣へ切り込むのが役割なので、途中で今川軍と戦っていては間に合わなくなる危険性がある。とにかく別働隊が沓掛方面へ行ってしまっては、信長と歩調を合わせた突撃が困難である。よって巨木が倒れるのを見たのは、偵察をしていた簗田隊かあとから村人等に聞いたと考える。
【探索のヒント】二村山@へはハイキングコースがいくつもあります。車では県道220号阿野名古屋線「皿池上交差点」を100mほど東へ行った所に駐車場があります。入口のポールの間隔が狭くて入るのをためらいますが、4tトラックでも入れるので勇気を出しましょう。それでもダメな時は「勅使墓園」の駐車場を拝借しましょう。駐車場横と「皿池上交差点」を少し名古屋市側へ行った所に登り口があります。山頂で目を引くのが袈裟切り地蔵(切られ地蔵)Aです。落雷により割れたということです。山頂を少し下ると峠Bになります。鎌倉街道Cは南北へ通る道です。
鎌倉街道を通行する人たちの旅の安全を祈願して峠には石仏が置かれていました。現在、峠の地蔵堂に3体安置されています。背中に大同2年(807)と彫られた最も古い地蔵が本尊で、峠地蔵と呼ばれています。二村山に隠れていた平安末期の大盗賊熊坂長範は旅人を襲いその首を切り落としました。長範が落ちた首を見たら峠地蔵のものでした。峠地蔵に首がないのはこのためです。村人はこの一件から身代わり地蔵と呼ぶようにもなりました。この地蔵の次に古いのが切られ地蔵(1679)、次が地蔵堂横の地蔵(1722)、続いて地蔵堂の真中(1738)、向かって右(1766)の地蔵です。地蔵堂は名古屋の八事山興正寺の所管となり、元光道参という僧が峠地蔵道場として活動をしていました。1736年興正寺は当時同じ真言宗であった聖應寺にこの地を譲渡し、現在に至るまで聖應禅寺の飛び地境内です。1740年落雷によって地蔵堂は焼失しましたが、1764年聖應寺8世白龍和尚により再建されました。現在のものは23世大法得禅和尚の代のものです。
【駐車場】専用駐車場
【バス】豊明市ひまわりバス2号Bコース「勅使台口」 名鉄バス豊明団地線「上池」
@A
BC
Aおけはざま山―豊明市栄町南館【MAP】
『大脇村絵図』『落合村絵図』に描かれた桶狭間山は、名古屋市と豊明市の境目の通説になっている標高64.7mの丘辺りになる。現在ホシザキ電機がある小高い丘で古戦場伝説地の南に位置する。『桶狭間古戦場之図』を見ると古戦場を表す「ツカ」の南に石塚山が描かれている。これによりこの丘が石塚山と推察されている。
石塚山には義元と関連ある言い伝えが残っている。熱田社で戦勝祈願していた信長が二羽の白鷺が飛び立つのを目撃、その後を追って行くと二羽の白鷺が羽を休めた先が石塚の森で、義元の本陣がある場所だったというもの。『寛文村々覚書』には、石塚山塁(義元の本陣跡か)があり、義元の墓所(長さ181m幅90m)もここにあるとする。だが昭和30年代の発掘では、天然の石が見つかっただけだった。
桶狭間古戦場伝説地支持派の太田静夫氏だが、『伊束法師物語』の「去程に17日に本陣は池鯉鮒表ヘ押し寄せ、桶はさまに陣を居へられたり」の一節から本陣は、瀬名氏俊により名古屋市緑区の桶狭間、長福寺の裏山に置かれたと考えておられる。
この根拠としているのが、尾張中山氏の後裔である中山文夫氏が『尾張中山氏系譜推考』で、「中山重時は知多郡柳辺・北尾・洞迫を領し、洞迫に城を構えた。里伝では、長福寺の裏山が城跡で、濠、沼沢が残っている」との記述である。
【探索のヒント】通説桶狭間山系の東側になります。現在はホシザキ電機@【MAP】が建っています。桶狭間古戦場伝説地を見下ろすA場所です。ホシザキ電機の向かい側にある「豊明新栄郵便局」の東にある「はざま公園」の入口そばに鷺之森碑B【MAP】があります。明治9年山口正義が白鷺が舞い降りた伝承地に建てたものですが、土地区画整理事業により現在地に移されました。
長福寺裏の小山C【MAP】にはいろいろな地権者がいます。長福寺もその一つです。ご住職にお聞きしたのですが、裏山に城があったという話は聞いたことがないとのことでした。
●石塚山推定地・鷺之森碑
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」
【バス】「新栄郵便局」豊明市ひまわりバス1号・2号
●長福寺
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「桶狭間寺前」名古屋市営バス鳴子13系・要町11系・高速1系・緑巡回
@A
B
B北の松原―豊明市栄町南舘【MAP】
かつて義元の本陣は「田楽窪」、「田楽坪」、「田楽狭間」というような丘陵の中の窪地にあったとされていた。今の通説は『信長公記』に「おけはざま山に人馬の息を休め」とあること、陣地は周囲より高い所に置くのが常識ということで、本陣は桶狭間山と言われる丘にあったする。しかし『信長公記』には義元が高地に居たとは明確には書かれていないので、桶狭間山辺りとの解釈もでき、「桶峽ノ山間ニ陣シ」(『武徳大成記』)、「桶狭間の山間に」(『武家事紀』)、「桶狭間の山下の芝原ニ敷皮シカセ」(『総見記』)、「桶狭間山の北なる舘狭間」(『尾張国・知多郡桶挟間合戦記)という山麓説を完全否定しきれない。また具体的に本陣を置いた場所として、「桶狭間山の北、松原に至りて、」(『桶挟間合戦記』)、「桶狭間山の北の松原を野陣にて」(『尾張志』)というのも、この書物が成立した江戸時代、古戦場に近い東海道沿いに松林があったため想像してとも考えられるがこれまた否定もできない。
義元が非常識とされる窪地で休憩に入った事について、桶狭間山に本陣は用意されていたが、義元が急遽ここで休むことになったという説がある。それは佐々らの出現で進軍を停止して、そのまま休憩に入ったというものである。だが義元の酒宴はそれより前から始まっていたようだし、もし休憩前に敵が現れたなら予定を変更して大高城へ向かっていたと思う。むしろ余りの蒸し暑さに義元が辟易して行軍を中断したと考えた方がいいのではないだろうか。
義元の酒宴が始まると近隣の寺社や村から酒肴が届けられたと言われるが、『武功夜話』によれば蜂須賀小六と前野将右衛門の計略だったという。その真偽の程はおいておいて、かなりの酒肴が運び込まれたというから、事前に用意されていたのは確かであろう。鳴海神社への朱印状と共に今川の影響がこの辺りまで及んでいたと考えられる。
【探索のヒント】高徳院に今川義元公本陣跡の碑@Aは1992年当時)があります。歴史的に全く根拠はなく、とある東証一部上場企業の役員だった芹沢二郎氏が、先祖の亡くなった地に碑を建てたいと当時の住職に申し出て建てられました。芹沢氏は今川義元の末裔と言われたとのことですが、葛山備中守の配下の芦沢玄蕃とは関係はないのでしょうか。現在休館中ですが境内には桶狭間古戦場資料館があります。「桶狭間合戦との関係が不明な甲冑を展示し料金を取るとはけしからん」という中傷が休館の原因と言う方がいます。
高徳院は本陣跡ではないかもしれませんが、この辺りで休憩するのは不自然ではありませんでした。それは当時この辺りには日陰となる林と炊飯用の湧水があったからです。現在林は見る影もありませんが、『蓬州旧勝録』で清水と紹介された湧水は古戦場の周りの水路Bに残っています。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」
【バス】豊明市ひまわりバス1号・2号「桶狭間古戦場公園」
@A
BC
C信長の進路
中島砦の手越川を挟んだ南の丘陵は、すでに今川軍に占領されていた。砦を出ようとした信長を重臣たちが押し止めようとしたのは、この様子だと桶狭間までの道筋は今川軍で満ち溢れていると思ったからである。だが簗田出羽守は東の丘陵地帯に今川軍は居ないと信長に伝えていた。今川軍の動向を正確に伝えて来た簗田のこれまでの働きを十分評価する信長はこの情報を信じることに迷いはなかった。
「あの兵は夜明け前からずっと戦い疲れきっている。奴らに比べたらこちらは、まだ戦っておらず疲れていないではないか。勝敗は兵の多寡ではなく、天を味方につける戦い方をするかどうかだ。よいか。押したり引いたりして敵の隊列を崩す。そこを一気に攻める。これに勝利すれば、永代にわたり家の誉れとなろう」
この戦いで信長が初めて見せた決意に、全ての兵は思いを一つにして砦を出発した。信長は砦の全兵員で休憩中の義元を急襲する計画であった。そのために無駄な戦闘を避け、義元が移動する前に敵本陣に接近しなければならなかった。簗田は信長の意向を十分理解し、最も安全で早いルートで全員を誘導していった。
【探索のヒント】主流になりつつある「正面攻撃説」は、砦を出た信長が手越川沿い@【MAP】東へ進みA【MAP】、今川前軍を突破して義元本陣を急襲したというものです。信長の伝承もこの進路に残っています。しかし義元を討取ることが最優先事項なので、その前に一か八かの戦いを信長がするとは思えません。従って砦の東の丘陵を抜けたとする説の方が説得力があると思います。
その進路は諸説あるものの大体は、南の丘から見えにくい坊主山A【MAP】有松裏C【MAPとなっています。扇川から自転車でゆっくり漕いで20分です。
●坊主山付近
【駐車場】路駐
【鉄道】名鉄名古屋本線「左京山駅」
●有松裏
【駐車場】路駐
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】名古屋市営バス野並16系・有松11系「太子北」
@A
【寄り道】二位殿社―名古屋市緑区曽根2丁目【MAP】
信長が立ち寄って戦勝祈願した言伝えがある。室町時代にはすでにあったが、未だに誰を祀っているのか全く不明。塚に5月20日と彫られていることから、桶狭間合戦との関係を調べた方がおられたが無関係だった。1800年代半ばには瑞泉寺の管理下に入ったが、明治時代の神仏分離令によって村で管理されることになった。現在は毎月19日に瑞泉寺による祈祷法要が営まれている。
【探索のヒント】名鉄「左京山駅」から手越川を渡って、川沿いに西へ少し行くと幟が立った鳥居@あります。川沿いに駐車できそうですが、大高城緑地公園駐車場を利用することをお勧めします。神社の横の細い道を北へ行くと碑Aもあります。
【駐車場】路駐または大高緑地公園駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「左京山駅」
@A
【寄り道】左京山―名古屋市緑区左京山【MAP】
島田左京進将近または江間(馬)左京助(『新編桶峽合戦記』では三浦左馬助)が陣を張っていたのでこの名が残ると伝わる。緑区の地名ガイドでは、左京の持ち山の意とある。
島田左京と沢田長門守は鷲津砦・丸根砦で討取った首を義元に届けた。「続明良洪範」では島田左京・沢田長門守ら十二、三人の者と大高城へ向けて騎馬で逃げた義元だったが、織田軍の追撃に遭い付従う者を次々討取られとうとう一人になってしまったとある。江間左京は前田利家に討取られた。
【探索のヒント】大高緑地の琵琶ヶ池の東側の山が左京山@ですが、桶狭間に関する史跡はありません。左京山駅に近い歩道橋から坊主山を見たらA、当時林だった丘陵に織田軍が入り込んだら見つけられないと実感します。
【駐車場】大高緑地公園駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「左京山駅」
@A
【寄り道】鎌研橋―名古屋市緑区四本木【MAP】
『桶狭間合戦名残』に善照寺砦の東から六条田を通り有松の一里塚に続く縄手(畔道)を進軍中の信長は、「ここは何という所か」と道案内の百姓半四郎に訪ねた。「手越です」との答えに「手(手下)が越す(敵に勝つ)とは良き名じゃ」と気分を良くした信長は半四郎に青指1貫文を与えたという話が載っている。扇川の名を聞いた信長が「幸先よい名じゃ」と言ったという話と同じものである。
【探索のヒント】中島砦から旧東海道である県道222号緑瑞穂線を東へ行った、名二環の高架手前の橋が鎌研橋@です。この橋を渡り名二環の下をくぐった左に、2012年に再建された有松一里塚Aがあります。40年ほど前の画像を見ると、今は家が建ち並んでいる鎌研橋から焼田橋の丘陵地帯は田畑であぜ道も確認できます。江戸時代には開墾が行われ焼田―一里塚まで細いながらも道があったので信長が通ったという伝承が生まれたのではないでしょうか。
【駐車場】大高緑地公園駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「左京山駅」「有松駅」
【バス】「有松西」
名古屋市営バス緑2巡回・要町11系・野並18系
@A
【寄り道】旭出―名古屋市緑区旭出【MAP】
旭出は旧説の信長の進路だった鳴海の北の山。この闘いを境に日の出の勢いで天下統一に驀進したのに由来する。
【探索のヒント】猿投山から派生する丘陵の南西の端が旭出です。善照寺砦の北東900m@に位置しすぐ東に大形山があります。公園Aや学校のある住宅地になっています。
【駐車場】なし 公園横に路駐可
【バス】「中旭出」名古屋市営バス幹野並1系・野並18、19系 名鉄バス鳴海線
@A
B
CD
D会下山―名古屋市緑区太子1〜3、太子ヶ根2【MAP】
有松裏で見送った佐々・千秋隊の全滅は、信長が会下山の北谷に到着した時、山上で物見していた簗田の手の者から知らされた。信長の立てた作戦は失敗した。幸い佐々との隠密作戦は信長以外知らないので、他の者には佐々の行動は不可解なものとしか映っておらず、本陣突入に臨む兵達の士気に影響はなかった。ここで作戦を中断しても織田家は存続できまい。座して死を待つぐらいならこの一戦で華々しく散りたい。信長は決断した。
「死のうは一定 忍び草のは何をしよぞ 一定語り起こすよの」
眼下に見える義元本陣を木陰から睨みつけた。その時ポツリポツリと雨が降りだした。「邪魔になる旗は下せ。一気に山を下りて義元の背後に回り込むぞ」そう言うと信長は坂を駆け下った。
【探索のヒント】旧陸軍参謀本部作成の地形図を見ると、現太子1丁目〜3丁目@に南北二つの山があり、南の山の300m東(大将ヶ根2丁目Aにあたるのか不明)にも山があります。このいずれかが会下山Bと推定されます。信長が一旦兵を休めた北谷は宅地開発と愛知用水建設で失われたようですが、高徳院や生山を見渡せる有松裏辺りC名古屋市立太子小学校Dと考える方がいます。なお桶狭間山同様、会下山と言うものはありません。でも太子ヶ根は地名としてありました。その後、大将ヶ根とも言われるようになりました。
【駐車場】なし
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前」
【バス】名古屋市営バス野並16系「太子」
@A
BC
E佐々・千秋隊の突撃
太田輝夫氏は自著『桶狭間合戦奇襲の真実』で、『信長公記』の善照寺砦から中島砦での信長と佐々・千秋について誤った解釈がなされていると指摘されている。
『信長公記』の佐々・千秋隊の出発から全滅までの流れは
@信長が善照寺砦にやって来る
A勢ぞろいした兵に義元の現況を伝える
B鷲津・丸根砦陥落に満足する義元。家康は大高城で休憩中
C佐々・千秋の出発
D佐々・千秋の全滅
E佐々・千秋を討取って得意の絶頂にある義元の様子
F信長御覧じて中島砦へ出発
である。
『信長公記』を書くにあたり、作者牛一は書き溜めた日記風メモ書きを時系列に整理した。太田氏は「今川義元討死の事」では自身が体験した@ACFのメモに、合戦後聞いた義元の陣の様子のBDEを加えため前後の繋がりがおかしな部分が生じたと考える。よって信長が御覧じたのは、佐々らの全滅ではなく善照寺砦に勢ぞろいした兵とする。この解釈は非常に興味深かった。太田氏は信長と佐々が連携していたと解釈するので、それならCF―佐々らの出発を信長が見送ったとの表現の方が秘密裏に事が進められた感が出るのではないかと思う。
そこで信長らの立てたプランを推理すると
プランA:義元が休憩中ならば、進路前方に佐々・千秋が現れる
プランB:義元が出発していた場合、進路後方に佐々・千秋が現れる
これで義元の注意をひきつけている間に信長が義元に奇襲をかける、というものである。挟撃でもあるが桶狭間の部隊と分断するのも目的である。
信長が中島砦に入ったのは、田楽狭間方面でも大高城方面でも素早く移動できるからである。その後、簗田から義元はしばらく田楽狭間に留まりそうだと知らされた信長は中島砦を出発する。そして有松裏で待機する佐々・千秋とプランAで行くことを確認して、信長は会下山へ向かった。真偽は不明だが岩室長門守が佐々隊に加わったのはこの時だったのかもしれない。この後、佐々・千秋は釜ヶ谷経由で田楽坪と田楽狭間の間に進んだものの、信長が義元を奇襲する前に生山の今川軍に捕捉されてしまい全滅する。信長の計画は失敗したと思われたが、義元はこの勝利でさらに有頂天になり宴を続行する結果となり、佐々らは犬死とはならなかった。
『道家祖看記』には出陣前夜、政次が信長に弟成政と倅清蔵の取り立てを願ったと書かれ、死を覚悟していたことがうかがわれる。また千秋家に対しては、季信を熱田大宮司に就けたうえ、母たあにも所領を与えている。さらに祖父・父が織田家に従い戦死しているので、今後戦場に赴く必要はないと申し渡している。
【探索のヒント】イオンタウン有松@から北が有松裏です。建物が建ち並ぶ現在でもわずかに高根山が見るのでだから、昔は高根山や生山の今川軍Aも目視できた可能性はあります。反対に相手からは見下ろされるので、もう少し北側の森の中に待機したと思います。信長と接触してから佐々達は、森の中を東へ移動して「大将ヶ根交差点」から釜ヶ谷Bへ入って行きました。この両側は多くの兵が屯していたのが由来の武路(豊明市側は武侍)といいます。このコースは梶野渡氏の信長進路ですが、太田静夫氏はこれを佐々・千秋隊の進路と考えています。ただし太田氏は会下山から釜ヶ谷へ入ったと考えています。
この先の愛知用水をくぐってすぐ右へ曲がった先の武路公園辺りには七ツ塚Cがありました。信長が釜ヶ谷で勝鬨を上げた後、村人に命じて戦死者を葬らせた跡です。遺体は山際に掘られた7つの穴に葬られました。壊すとたたりがあると言われましたが、昭和10年には3基になっていました。平成元年の区画整理で2基になっていた塚を一つにまとめ現在地に移されました。これが通説ですが、佐々・千秋隊がここで今川軍と戦ったと考える太田氏は、この時の使者を葬った場所としています。
【鉄道】名鉄名古屋本線「有松駅」
【バス】「幕山」名古屋市営バス緑2巡回・要町11系・野並18・高速1系
@A
BC
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FG
F山際で待機
山際から信長はどう義元を攻めたのかは不明である。『信長公記』には山際で雨が上がるのを待って攻め込んだとあるだけである。山際からさらに山へ駆け上がったとも、その山を駆け下りたとも書いていない。つまり会下山を下った山裾が『信長公記』の山際と言う解釈もできる。太田氏は高徳院のある小山の麓と考え、そこから山上へ登って本陣へ攻め下ったとする。ただ尋常でない豪雨の中を登る事の大変さ、この山に少なく見積もって1千人が登ることが可能なのかと考えると疑問が残る。おそらく「山の上から東へ向かって攻めた」という形にこだわりすぎた結果であろう。
信長達が会下山から下りてくると、降り出した雨の粒が大きくなり、さらに西からは強風が吹き始めた。正面からまともに風雨を受けた今川本陣では、雨宿りできる茂みを探して兵達が右往左往していた。信長はこの状況では視界が悪く、また敵兵が散開しているので義元を討ちもらす可能性もあったので全員に雨が上がるまでこの場での待機を命じた。間もなく雨があがった。雨宿りしていた今川軍は空を見上げながらぞろぞろと持ち場に戻ってきた。信長は兵達が一所に集まるのを待った。義元を含めて一網打尽にするためである。
【探索のヒント】『塩尻』に太子ヶ根を下った信長は、3千の部隊を二つに分け一隊は先手を、信長が率いるもう一隊は南から本陣を攻めたとあります。『東街便覧図略』はこれが元ネタです。
渡辺文雄氏は義元の本陣が国道1号線のダイソー付近@にあったとし、信長は会下山から直接攻め込んだという考えです。太田氏は『塩尻』に従い「境松」のすき屋とガスト辺りAへ下りた織田軍は、高徳院の西側の坂Bから高徳院のある山Cへ登り、信長隊は山の南側Dから回り込んだと考えています。
私は佐々の陽動作戦が失敗した時点で、信長は玉砕覚悟の突入を決断したと思います。ところが雨のせいで少し考える時間ができて、平地Eから攻める部隊と山から攻めるF部隊に分けた可能性はあります。今も墓地裏は林Gになっていて身を隠すことは可能であったかもしれません。
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」
【バス】豊明市ひまわりバス1号・2号「桶狭間古戦場公園」
@A
BC
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G桶狭間古戦場伝説地―豊明市栄町南舘【MAP】
熱田神宮で兵の集結を待つ信長は鎮皇門(西門)でひれ伏している一人の男に出会った。名は桑原甚内。武田家家臣原加賀守の末子(または美濃守の弟)で、駿河大乗寺の小僧(または臨済寺雪斎の弟子)となる。武士の子供の遺恨を買い(または今川近習と男色の事で)斬り合いとなり、3人(または7人中5人)を切り殺して寺を出奔、知人を頼り有松村で隠れ(または藪医者として)住んでいる。甚内は信長に寺で度々義元を見ている自分を戦場へ連れて行けば役立つと申し出て同行を許された。桶狭間で甚内は義元を発見して斬りかかるが近習に見つかり命を落とす。その隙をついて服部小平太と毛利新介が義元を討取ったと言う。だが桑原甚内については、江戸時代すでに架空の人物とされている。
その逸話の中に今川家の武将たちには驕りがあり、訓練もせず、数に物を言わせての戦いしかできないとある。義元は内政には小和田教授が言われるように非常に優れた能力を発揮したが、外交や戦争の能力はそれほど高くはなく太源崇孚(雪斎)が担っていた。現に北条や武田の戦いでは死闘と言うものはなく、雪斎による外交で終戦に至っている。本格的な戦闘であった織田信秀との戦いでも雪斎が総大将であった。義元は戦い方を知らなかった。出陣前に織田家の内部分裂を図った形跡もなく、桶狭間での中途半端な布陣がそれを表している。今川という大看板―それが雪斎によって支えられてきたことを忘れて―で勝てると思い込んでいた。信長が2砦を見殺しにしたことで義元は自信を深めた。佐々隊の全滅は信長にとっては誤算だったが、義元をさらに慢心させた。義元は佐々らの出現理由よりも目の前の戦果だけしか見ていなかった。
義元が雨宿り先から戻って来て間もなく怒号とも悲鳴とも分からない騒ぎ声が響いた。酒が入った雑兵どもが喧嘩でも始めた程度に考えていた義元の元に伝令が駆け込んできた。「織田軍の奇襲です!」その瞬間義元は事態が飲み込めなかった。まだ本陣に詰めていた家臣の方が冷静であった。素早く3百の兵を義元の周囲に配置し、桶狭間の兵へ伝令を走らせた。
突入した織田軍はあちらこちらで、抵抗する者は切り捨て、逃げる者は見逃しながら義元の姿を求めた。やがて信長が放置された塗輿を発見した。そばにいた簗田が「今川殿のものでございます」と言うのを聞くと信長は叫んだ。
「この近くに義元がいるぞ!」
織田軍が周辺を見渡すと戦場の片隅に兵の一団があった。
「義元発見!」
その声に織田軍はその一団に殺到した。
【探索のヒント】『尾張名所図会』を見ると東海道から複数の史蹟が眺められ、通行人も簡単に立ち寄れるので、江戸時代より古戦場としては名古屋市緑区側よりも認知されていました。昭和12年6月豊明村が「史蹟、名勝天然記念物保存法」に基づいてこの地(大字栄、南舘)を「桶狭間史蹟」として国に申請しましたが、文部省は緑区の田楽坪古戦場も無視できず折衷案として桶狭間古戦場@伝説地Aとしました。この2カ所の古戦場については、今川兵の逃亡先が大高城か沓掛城の違いとする説が有力となっている。
公園となった古戦場にある七石表(南側から反時計回りに三号碑B四号碑C五号碑D六号碑E七号碑F)は、1771年(明和8)人見弥右衛門(桼)と赤林孫七郎信之(子友)が今川方の武将5人の戦死地に建てたものです。碑には「士隊将塚」とあるだけで誰のものかは不明です。
公園の南側、大正天皇即位を記念して建てられた碑の隣にある桶狭間弔古碑Hは、徳川家に縁のある古戦場が人々から忘れられ、荒廃する様子を嘆いた津島神社神官の氷室豊長が、この地の由来をを再認識してもらうため建てたものです。
この他に所在が不明ですが山田新右衛門葬った山田塚がありました。新右衛門は義元から信任厚く岡崎城の城番を勤めた人物です。義元の討死を聞いてはるか後方から駆け付けて義元に殉じたといいます。山田塚に並んで小姓塚、草履取塚がありました。
二つある古戦場について、田楽坪古戦場が主戦場でここから沓掛城へ逃げようとして織田軍と戦闘になった場所が伝説地であると小和田教授は唱えておられます。これは両古戦場の顔を立てた見解です。『三河物語』は家康は水野信元の使者に「義元の死はどこからも知らせてきていない」と言ったとあり、『総見記』は義元討死の噂で城内が大騒ぎとなっても家康は平然としていて、三浦・飯尾の手紙が来て退去を決めた」となっています。後者は義元討死の事実を知ったのではなく、噂だけで城内が混乱しないよう家康は平静を装ったと考えるべきと思います。すると大高城には兵が逃げて来た事実はないという事になります。つまり田楽坪の今川軍は全滅し、田楽狭間へ逃れた者の一部が逃げ果せたという事か、田楽狭間が主戦場で田楽坪へ逃げられた者はいなかったという事が考えられます。
【駐車場】なし 高徳院駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前」
【バス】豊明市ひまわりバス1号・2号「桶狭間古戦場公園」
【寄り道】おばけ地蔵―豊明市栄町南舘【MAP】
地元には亡霊が現れる話があったが、1853年(嘉永6)尾張藩士伊奈正勝がこの地蔵を建てた後は亡霊が現れなくなった。
【探索のヒント】古戦場伝承地の向かいにある高徳院の法面にあります。
【駐車場】なし 高徳院駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前」
【バス】豊明市ひまわりバス1号・2号「桶狭間古戦場公園」
【寄り道】徳本行者名号塔―豊明市栄町南舘【MAP】
徳本は紀伊国生まれの浄土宗の僧で、畿内・北陸・東海・関東に布教の足跡を残す。桶狭間古戦場を訪れた時に両軍の戦死者を積むらうために建てた。豊明市には数基ある。
【探索のヒント】】古戦場伝承地の向かいにある高徳院の法面にあります。
公園の西側に義元戦死の地の碑ABが建っています。小さな方はその隣の駿公墓碣Cが発見されて作られました。駿公墓碣は、手つかずだったねず塚を公園建設のため調査していて偶然見つかったものです。何時のものかは不明ですが、義元戦死の地の証拠とされます。
【駐車場】なし 高徳院駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前」
【バス】豊明市ひまわりバス1号・2号「桶狭間古戦場公園」
@A
BC
H義元の最期
織田軍に発見され包囲された義元の警護兵は、とにかく桶狭間の部隊が駆け付けるまでの辛抱と槍衾を作って必死の抵抗をした。織田軍は義元を狙う一方、桶狭間方面を警戒した布陣を敷いた。そのため義元の期待する桶狭間からの部隊は、織田軍に阻止されてその目的を果たせないでいた。その間に警護兵は抵抗空しく、次々と倒れて行きその数は50人となってしまった。
警護兵の後ろで身を隠すようにしていた義元だが、事ここに至り自ら戦う決断をして郷義弘の鍛えし愛刀大蛇を抜いた。そして懸って来る織田の兵を数人討取った。そして一瞬気を抜いた時、服部小平太が繰り出された鑓が佩楯越しに膝頭に当った。「下郎め!」そう言うと後ずさりする小平太に向かい一刀を浴びせた。これで鑓を真っ二つに切り折ると次の一刀で小平太の膝を斬り割った。服部小平太はその場に崩れ落ちた。この時、義元は警護兵から離れてしまった。それを見た毛利新介が横合いから飛びかかって義元を地面に組み付した。新介は義元の顎を左手で抑えつけながら脇差を抜いた。暴れる義元の勢いで新介の手がずれて義元の口に入った。そのまま新介は脇差を義元の脇腹に突き刺した。その激痛に義元が歯を食いしばったため、新介は指を噛み切られた。だが興奮状態の新介はそれに気づかず義元の首に止めの一刀を突きさした。そして力の限り叫んだ。「今川義元、討取ったり!」
【探索のヒント】史料によれば義元は本陣から逃げようとして討取られたので、本陣=戦死地ではないのは確かです。その戦死の地に塚がありました。その塚はいつしか荒れてしまい、通りかかった人は弔古碑を義元の墓と勘違いして花を手向けたりしていました。これを知った有松村在住の山口正義が、明治9年古戦場の整備を行う一環として塚のあった場所に今川治部大輔義元の墓@を建てました。七石表の一号碑Aは義元のものです。その横にあるのが駒つなぎのねずBで義元の馬を繋いでいたと言われます。古戦場向かいにある高徳院の法面の階段の右には今川義元の仏式墓Cがあります。1860年に建てられ、方形の石柱に笠と蓮花弁型の台座があるので仏式と言われます。ただ願主は「某」と彫られ不明です。
【駐車場】なし 高徳院駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前」
【バス】豊明市ひまわりバス1号・2号「桶狭間古戦場公園」
@A
【寄り道】松井宗信の墓―豊明市栄町南舘【MAP】
高根山に居た宗信は、義元襲わるの報に接し手勢を引き連れ本陣へ駆けつけた。しかし義元の死を知ると逃亡する者もいて、2百人ほどが残っただけだった。宗信と残った者は織田軍に突入、思う存分戦い全滅。義元に殉じた。その死は3日後その父貞宗に三浦正俊から手紙で知らされた。
これが一般的であるが、『今川義元桶廻間合戦覚』には宗信は本陣にいて、もはや助からないと義元に自害を勧めた。
「今川に流るるものハ 深草の 名ハ山中に残る義元」
の辞世を残すと義元は毛利新介に討たせたとある。また義元が床几に腰かけて旗本の兵に指示をしていると宗信が駆け付け、もはや敵を防げないので義元に自害を勧め、まずは自分が自決すると申し出た。その時、服部小平太が義元に槍をつけ、後ろから毛利新介が組み伏してその首を取ったというものもある。
戦後、今川氏真が宗信の子宗恒出した書状には7項目に亘る宗信の功績が書かれ、宗信がいかに今川家のために粉骨砕身働いたかを知ることができる。それを称えまたその死を悼み、宗恒に現浜松市や袋井市の一部を加増した。ただし二俣城主の地位は従兄弟の宗親(宗信の兄宗薫の子)に譲っている。今川領が徳川と武田に分割された時に武田に従ったとされる(1572年に武田家より2千貫文の知行を受ける)。その御武田と運命を共にして、遠江松井氏の嫡流は途絶えた。松井庶流は徳川に従ったので徳川幕臣として残った。
【探索のヒント】高徳院の山門をくぐり、右にある霊園の方へ行きます。霊園の手前を右に折れた左側に松井宗信の墓@七石表のニ号碑Aがあります。こちらも山口正義が建てました。山の上での戦死というので、高根山から駆け付けたが間に合わず自害したのか、義元の元へ行く前に織田軍との戦闘で討死したのか、本陣にいたが応戦しているうちに山中へ入って山中へ入ったのか不明ですが氏真がその功績を称えるぐらいだから、華々しい最期を遂げたのでしょう。
【駐車場】なし 高徳院駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前」
【バス】豊明市ひまわりバス1号・2号「桶狭間古戦場公園」
@A
B
I織田軍の追撃
毛利新介の「義元討取ったり」の叫び声に、織田軍から歓声が湧きこった。義元の死が戦場に知れ渡るのに時間は掛からなかった。桶狭間から駆け付けた兵は今来た道を、すでにいた者は今朝来た道を慌てて逃げ出した。織田軍はこれに追い打ちをかけた。西への道は狭く立ち往生したり、それを避けて丘陵を登ろうとしてもたついた者は次々に討取られた。東は深田が広がっており、慌ててここへ踏み込んで動けなくなった者は一斉に襲いかかる織田軍の餌食となった。
昭和17年9月、戦人塚から南西4百メートルの畑から錆びた刀や槍、鎧が大量に出土された。果たしてこの出土品が合戦当時のものであったか否かは、それらが屑鉄屋に売られてしまったので確認のしようがない。このような出土物は古戦場の北にある「BigK」の建設時にも発見されている。ここには沼か池があったようで、『桶狭間古戦場之図』にある大池と位置的に合致する。また古戦場のすぐそばの民家からも見つかっている。
【探索のヒント】義元は深田に足を取られて、もたついている所を討取られたという解釈が多いようですが、『信長公記』を素直に読めば先に義元が討取られ、深田に足を踏み入れて討取られたのは逃げる今川軍と解釈すべきと考えます。この深田というのは戦人塚から西を指すと思うのは、今も水路@【MAP】田圃A【MAP】が残っているように、開発がされる前は国道1号線沿いはかなり広い田畑地帯だったからです。
【駐車場】路駐
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」
【バス】豊明市ひまわりバス1号2号「新栄1丁目」
@A
B
【寄り道】戦人塚―豊明市前後町仙人塚【MAP】
『桶狭間合戦名残』によると退却する今川軍が追撃して来た織田軍に多数討取られた場所と紹介されている。ここは見晴らしの良い丘なので今川の別部隊が駐留していて、敗走する兵はそれと合流しようとしていたのではないかとの意見もある。
大脇・曹源寺二世の快翁龍喜はこの戦いでの両軍の戦死者2千5百余人を付近の村々に葬らせた。そしてその埋葬地には塚が建てられた。戦人塚はそこへ埋葬された者たちをまとめて供養するもので、昔は「駿河塚」と呼ばれていた。塚上の碑は元文4年(1739)、180回忌の供養祭に建碑されたものであるが、明治時代の現地の写真を見た人は塚上にはなかったと言っている。この近くで宅地開発が始まった時に人骨が多数発見されたと言うので、そこが元の塚であった可能性がある。ここ以外にも北西300mに大きな塚があったという。
現在の地名「前後町仙人塚」は、戦人では印象が悪いという事でこの字が当てられたという。先の『桶狭間合戦名残』には2百回忌(1759年)の時、曹源寺で千人供養したので以降「千人塚」と言うようになったと書かれている。
【探索のヒント】名鉄前後駅の北西600mの丘陵上に戦人塚@はあります。一番てっぺんにある小さな碑Aが180回忌のものです。40mの丘の上からは、木が茂っていないと360度の展望Bが得られます。
【駐車場】路駐
【鉄道】名鉄名古屋本線「前後駅」
【バス】豊明市ひまわりバス1号2号「五軒屋」
@A
【寄り道】志水又六の碑―豊明市間米町間米【MAP】
桶狭間からの撤退中に絶命した志水又六の供養のため建てられた。
【探索のヒント】県道237号新田名古屋線の「間米東交差点」の北東の住宅地の一角にあります。住宅地の中まで車で入っていけますが生活道路で路駐しにくいので、交差点の東に南北に走る道に路駐しました。この道を北へ行くと「ロイヤル豊明」の手前に右へ入る道があります。これを突きあたりまで行って、右に曲がると住宅の横に祠@があり、その中にお墓Aがあります。お又さんの墓と呼ばれています。
【駐車場】なし 路駐
【バス】豊明市ひまわりバス1号・2号「間米」
@A
【寄り道】鎧掛け松―名古屋市緑区境松1
『桶狭間合戦縁起』には「信長公鎧掛松」とあるが、豊明市の説明では義元が休憩の時に鎧を掛けた松としている。大正12年に枯死した。現在は碑があるだけだが、その姿を描いたものが大阪府堺市の大安寺本堂の障壁画(重文)と言われる。狩野派の絵師(寺伝によれば狩野永徳)の手による。この絵は尋常小学校の教科書に「画師の苦心」という話で紹介されていた。ある時(寺の案内板によれば江戸時代)、絵師が大安寺に滞在中に、桶狭間鎧掛松の枝ぶりの面白いのを思い出して方丈に描いた。この後東国へ旅へ出て鳴海宿に来た時、この松をもう一度見て枝を一本書き忘れていることに気付いた。絵師はこの枝を書くために直ぐに堺へ戻った。枝を書き足すとホッとして旅路に戻ったというものである。この経緯から「枝添えの松」と言われる。
【探索のヒント】名鉄「中京競馬場駅」の南に隣接する「藤田こころケアセンター」の職員駐車場から入って、ホームの名古屋寄りの下に碑@があります。この駐車場ですがかつては池がありました。『桶狭間古戦場之図』(1705・1708)に載る池とはここを指すのではないでしょうか。藤田学園本部の「ビッグケイ」の時計台の下は、沼や沢や池で多くの刀剣や武具が見つかっています。従って国道1号線を跨いで駅近くまで池があったとも考えられます。なお枯れた松の一部は高徳院で保管されています。昔は宝物殿で展示されていました。大安寺は普段入ることはできませんが春季・秋季特別展示で入れます。2013年11月松の絵Aを見てきました。撮影禁止なのでパンフレットの写真を掲載しました。書き足した松は赤丸の部分だそうです。わざわざ戻って来て描いたのは路銀をもらうためだったのではとも言われています。
●鎧掛け松の碑【MAP】
【駐車場】なし 高徳院駐車場利用
【鉄道】名鉄名古屋本線「中京競馬場前」
【バス】豊明市ひまわりバス1号・2号「桶狭間古戦場公園」
●大安寺【MAP】
【駐車場】専用駐車場
【鉄道】阪堺電軌阪堺線「御陵前駅」
【バス】南海バス堺市内中回り14「大仙西町団地前」
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