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@小牧山城―小牧市堀の内1丁目 【MAP】
斎藤義竜の死に乗じて西美濃へ派兵し敵の墨俣砦奪取に成功した信長は、13歳の竜興が後継となり斎藤家臣団にまとまりがないうちに稲葉山城を攻めようとした。だが竜興直臣団の結束は強く手痛い敗北を喫してしまった。そこで稲葉山城から離れている中美濃衆は西美濃衆ほど斎藤氏への忠誠心が高くないと判断した信長は、彼らを離反させる斎藤家を弱体化する作戦に切り替えた。そのため尾張の西に位置する清須城では不都合と考えた信長は、かつて父信秀が美濃勢に備え江崎善左衛門宗度に守らせた小牧山に注目した。
小牧山は稲葉山城まで19.7キロ、犬山城は10.8キロ。太古の昔、濃尾平野が海だった頃、小牧山はその中に浮く島であった。海岸線が南へ下がり濃尾平野が形成される過程で川が幾本もできた。小牧では船津の西側に川が流れ水運に利用されてきた。築城にあたり資材を運ぶのに水運を利用できるということも小牧山が選択された理由でもあった。丹羽長秀が築城の奉行に任じられ約9カ月後、城は完成した。小牧山全体に曲輪を配して、全方位に対処できるその姿は火車輪城とも呼ばれた。
小牧山城が完成した翌年の永禄7年2月、竹中半兵衛とその舅安藤守就が竜興を稲葉山城から追放する事件が起こった。西美濃衆三人衆の一人安藤守就のクーデターは、中美濃衆をターゲットにした離反作戦が決して無理ではないという自信を信長に植え付けた。
【探索のヒント】小牧山はウォーキングやジョギング用に整備されているので早朝からたくさんの人が来られています。公園の入り口@は市役所の東側です。城跡へ向かうのは市役所のすぐ西の大手道A、国道155号線の搦手口Bバス駐車場口Cとあります。一歩足を踏み入れると道は整備されていますが町中にこんな鬱蒼とした森があるのかと感じます。
小牧山城は小牧長久手の戦いで徳川家康が榊原康政に改修を命じたので信長時代の遺構が分かりにくくなっています。その中で
本丸下の石垣Dは信長時代のものと分かり本丸の東面以外は石垣で覆われていたと推定されています。また市役所裏の桜の馬場Eも信長時代のものです。公園を入って目の前にある広い曲輪(402曲輪)Fは他の曲輪と比べかなり広いので信長の居館跡と言われています。
【駐車場】山の東西に無料駐車場
【最寄りの駅】名鉄小牧線「小牧駅」
【最寄りのバス停】小牧巡回バス「小牧市役所前」「間々本町」
 
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【寄り道】小牧城下町―小牧市堀の内・元町・川西
江戸時代に画かれた絵図で、城下町があった山の南側は田畠になっているため、美濃攻めが目的の城の城下町建設は大がかりなものではないと思われていた。だがこれは江戸時代小牧宿建設にあたり、南にあった町が移転させられたためで、地名を見ると商工業者に由来するもが多くある。
結果的に4年間しか城は機能しなかったため、町が栄えることなく衰退たが、信長はここに自らが企画した城と城下町が一体となった都市を作ろうとしていたのは確かである。そのため清須から家臣は強制的に、商工業者たちには移転を奨励した。
城下町は西は清須と善師野を結ぶ街道沿いの元町、南は山麓から1キロに設けられた土塁と堀の惣堀、東は合瀬川(木津用水)までを範囲とした。南北に直線道路を2本とそれを東西に横切る道4本作り、東西南北を道に囲まれた区画をさらに南北に割る短冊状の地割がなされた。
城下町の北東を中心とした区画には有力家臣と下級武士の屋敷が建ち並んだ。ここは新町遺跡と言う。真ん中より西側は商工業者の町で南北の道には紺屋町筋、鍛冶屋町筋と職種に関連した町の名がつけられた。この地域を上御園遺跡と言う。
【探索のヒント】城の南にあった城下町@はすっかりその姿を消しましたが遺構は所々に残っています。町の南限となる惣堀はトラックターミナル1号線の「船津交差点」を少し南に入った所にある用水路A【MAP】となっています。信長が城の南に町を作った理由として主要街道であった木曽街道(上街道)が一宮道、清須道への分岐点だったからです。現在この分岐点には石碑や石仏が集められていておてんのうさまB【MAP】と呼ばれる塚があります。この辻を東へ650m行くと堀となる合瀬川があります。これにかかる土手橋を渡り、真直ぐ行くと左側に織田信長公記念碑C【MAP】があります。地元の郷土史家津田應助氏が原野だった小牧を開発した信長を称えるものが何もないという事で自宅前に建てました。津田姓からわかる通り、織田一族と言う事です。この道が清須道で国道155線に出ると清須道の碑D【MAP】があります。
平成7年に発掘調査が行われた小牧山城下
新町遺跡Eはアピタの裏側、合瀬川にかかる土手橋から小牧中学校一帯を指します。堀で囲まれた武家屋敷や短冊形に地割された下級武士の居住区画で井戸、柱穴、瀬戸美濃産陶器、土師器が発見されています。アピタの真裏にある平田眼科医院Fから国道41号線までの区域が上御園遺跡Gです。通りの名前が示す通り商工業者の町で発掘結果も鍛冶関係の遺物が見つかっています。各家は主に間口6〜7メートル(3.5間〜4間)、奥行き54から63メートル(30間〜35間)で裏には庭か畑があったと考えられています。
【駐車場】周辺の駐車場を利用
【最寄りの駅】名鉄小牧線「小牧駅」
 
【寄り道】小牧神明社―小牧市小牧5丁目【MAP】
信長が小牧山城築城を決意したところ、家臣たちが今年は小牧山には金神が居るので工事はしない方がいいと反対した。そこで信長は清須の御園神明社を分霊し、山頂で地鎮祭を行った。そして鬼門に神社を建て「駒来神社」と名付けた。小牧長久手の戦いで小牧山に布陣した家康と信雄は必勝祈願に訪れている。
【探索のヒント】市役所前の県道167号小牧春日井線を東へ行きます。「図書館南交差点」で左の道を行くとすぐにあります。
【駐車場】専用駐車場 【最寄りの駅】名鉄小牧線「小牧駅」
【最寄りのバス停】
名鉄バス岩倉線、名古屋桃花台線「小牧市民病院北」
 
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【寄り道】玉林寺―小牧市小牧5丁目【MAP】
小牧観音とも呼ばれる曹洞宗の寺。小牧長久手の戦いの時、陣地を構築している家康軍が掘り出した如意輪観世音菩薩の石像を本尊としている。江戸時代まで小牧山麓南西にあったが、小牧宿寺町と村中に分けて移された。
『尾陽雑記』に小牧山城落成を祝い信長が里村紹巴を招いた記事がある。連歌百韻が開かれ、発句を求められた里村紹巴は「あさ戸あけの麓は柳さくら哉」と詠んだ。だが「あさ戸あけ」が城の明け渡しを連想させ不吉だと信長の不興をかってしまった。面目を無くした紹巴は一旦宿舎であった玉林寺へ戻ったが、夜中にこっそり京都へ戻ったという。だが『富士見道記』には紹巴が小牧を訪れたのは永禄10年で、しかも落成のことには触れられてない。
【探索のヒント】玉林寺@は小牧神明社の東隣にあります。紹巴の碑Aは山門の左にある4つの碑のうち左端です。
【駐車場】境内に専用駐車場
【最寄りの駅】名鉄小牧線「小牧駅」
【最寄りのバス停】名鉄バス岩倉線、名古屋桃花台線「中町」
 

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【寄り道】本宮山―犬山市高根洞 【MAP】
尾張三山の一つで別名「尾張大富士」。国神国狭槌尊が降臨したと言われ、山頂には大懸神社の奥宮がある。
有名な逸話だが清須城では美濃攻めに不便と考えた信長は、居城の移転を計画した。だが、昔から尾張の中心で栄えていた清須から移転するとなると家臣・領民の反対は必至である。そこで候補地小牧を隠し、本宮山にわざわざ出向き「ここは犬山城まで7キロの上、尾張平野を一望できるので美濃攻略に絶好の地である」と移転を宣言した。これに驚いた家臣たちは信長に再考するよう頼んだ。すると信長は「そこまで言うのなら小牧山ならどうであるか」と提案した。まだ原野の広がる小牧を開発するのは大変だが、尾張三山の一つの本宮山に城を築くぐらいよりはまだましと渋々この提案を呑んだ。
【探索のヒント】奥宮@まではハイキングコースとしても有名なので迷うことなく山頂まで行けます。一般的には大縣神社から歩いて行きますが、私は横着者なので車で行ける所まで行きました。県道177号大県神社線を大縣神社まで行き、神社前を左へ曲がって山道へ入ります。採石用のトラックが行き交う道です。道なりに進むと採石場入り口で行き止まりになります。ここからハイキングコースに入ることができます。私が行った日は曇天で時々雨が降る天候だったのでダメでしたが、奥宮へ行く途中に犬山城が見えるA場所があります。
【駐車場】路上駐車 【最寄りの駅】名鉄小牧線「楽田駅」
 
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【寄り道】楽田城―犬山市城山 【MAP】
楽田城は1504年に織田久長によって築かれたという。1558年城が攻められた時の記録として『遺老物語』には、城内には2間(3.6メートル)余の塁があり、その上に5間7間(8メートル×11.2メートル)の二階建て矢倉を揚げ、部屋の中央には矢を立て並べていたとあり、ウィキペディアには神仏を祀っていたとある。これを「殿守」と呼び、後の「天守」を意味するなら文献上に残る最古の「天守」の記録と言われる。
岩倉織田家の城だったが信長と連携した犬山城織田信清により奪われてしまう。犬山城落城は坂井尚政が城主となり、尚政戦死後は梶川高盛が守る。高盛の死を以て廃城となるが、小牧長久手の戦いで堀秀政が布陣する。その後、秀吉は本陣を犬山城からここへ移し、楽田城を中心に砦を放射線状に構築し家康の居る小牧山城へ圧力を加えた。
築城した久長の名が史料に現れるのが1443年11月22日の「北野神社文書」で守護又代の久長は守護代織田勘解由左衛門尉久広の指示を受けている。その後、久長は兵庫助、大和守と称した。久長の子が清須織田の祖敏定である。法名が常祐と言われるが系図によって久長を指さないものがあるため、三奉行因幡守の兄とされることもある。郷土史家横山住雄氏は「朝倉系図」の朝倉教景の女子に「織田弾正忠久長室、敏定母」の記述から、信長の曽祖父良信も久長の子で敏定と兄弟とする。だが「弾正忠久長」発給の文書は今のところなく、推察の域を出ない。
その後の城主を織田寛貞とするものと織田安房守秀俊とするものがある。寛貞は小田井城主常寛の子とされるが、そもそも常寛=小田井城主説が怪しいとされる。寛貞の子は忠寛(掃部)で武田家と織田家の縁組の使者に二度なった。
秀俊は信秀の庶子で信長の兄である。先の横山氏は私見と断り、信広同様家督を継げないのを哀れに思った信秀が楽田城主としたのではとされる。秀俊だとすると1550年1月19日の柏井侵略は、三河と美濃での大敗北と主家清須織田の敵対行為でかつての勢いを失いつつある信秀に、安祥城落城のうえ捕虜となった兄信広や実戦経験のない信長・信勝より、自分の方が弾正忠家を盛り立てられることをアピールしたのかもしれない。1555年秀俊は家臣が信長の弟秀孝を誤って殺害したため報復を恐れて出奔した信次に代わって守山城主となった。だが信次から引き継いだ家臣角田新五郎に弑逆されてしまった。
【探索のヒント】楽田小学校とその周辺が城跡です。現地案内板だと昭和54年までは堀などの遺構は残っていたそうです。
城山と言われるように『楽田村史』の楽田城平面図を見ると高さ10間(18メートル)の小山に城があり、周囲には堀が巡らされていました。城山町と他の町との境界の細い道は堀の外側に沿ったものです。現在
碑の建っている場所@の後ろが低くなっているのはここが堀だったからです。
虎口は南北にありました。北には小城があり門の警固をしていました。今、小城跡には
須賀神社Aが建っています。神社と白い建物(クリーニング店)の間の道Bが北門への入り口になります。
【駐車場】小学校の駐車場を利用
【最寄りの駅】名鉄小牧線「楽田駅」
 
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A犬山城―犬山市北古券 【MAP】
小口城の織田寛近(津田武永、法名宗伝)には跡を継ぐ男子が居なかった。領地拡大を目指す織田信秀はこれに目を付け弟与次郎信康を養子に送り出した。
1537年(天文6)信秀の美濃攻めの一環として、木之下城から鵜沼城・伊木山城の対岸にある三光寺山に居城を移した。ところが1544年(天文13)信秀の美濃攻めに従軍した信康は戦死してしまう。このため嫡子信清がその跡を継いだというのが通説である。
ところが横山住雄氏は別の可能性を提示しておられる。まず『開善寺過去帳』『異本葛藤集』『葛藤集』などから寛近は1547年(天文16)7月頃出家、信清はそれを受けて犬山織田家を継いだと考えることができるというものである。ただこれでは信康が犬山城主たりえない問題が出てくるとも提起される。なお信清の名は『信長公記』をはじめ一級史料には登場しないので、織田信勝が信行、池田恒興が信輝とされた例を揚げ、信清は『言継卿記』に名前のある織田十郎左衛門頼秀の別名ではとされる。以上から犬山を領有する寛近は隠居して信康に跡を継がせた。だが信康が美濃攻めで戦死したため復帰。その後頼秀を養子に迎えて再び隠居、出家したと考えることもできる。
1550年(天文19)1月19日信清は信秀領の柏井へ侵入し火を放った。勢いの衰えた信秀を見越しての軍事行動であろうが、主導したのが信清ではなく楽田城主とする説と寛近とする説がある。後者はこの時も当主であった寛近が、美濃攻めで協力関係にあった信秀から離反したと言う説。だが、信秀に迎撃され数十人を討取られた寛近は、自身の隠居で信秀と和睦したとする。
信清は弱体化した岩倉織田に取って代わろうという野心があった。信長の誘いに応じたのもそのためだった。だが岩倉織田を滅ぼし尾張平定をなした信長は、信清の独立性を許さなかった。信長の意図に気付いた信清は、斎藤義龍を後ろ盾に信長に対抗しようとした。永禄3年5月今川義元に勝利した信長は、間髪いれず、この反対勢力の排除に乗り出した。まず犬山城付近に火を放ち、10月には佐久間信盛に犬山・楽田出兵を命じた。守勢に回った信清に追い打ちをかけるように、永禄4年義龍急死の知らせが入る。あせる信清を尻目に信長はすぐに西美濃へ出陣。この時、信清の弟勘解由左衛門広良が参陣している。葉栗郡を預かる広良は信清と袂を分かち、信長に味方したとみられる。
義龍急死で混乱していたと思った斎藤家が、信長軍の西美濃進出を食い止めたので信清は安堵した。だがこれは信長の眼を東へ向けさせることとなった。この2年後、遠くに見える小牧山が城砦に作り変えられていく様子を見ながら信清は、たとえ信長が攻めて来ても、犬山城・伊木山城・鵜沼城の連携で阻止できると思った。しかし築城の裏で丹羽長秀の調略が3城の背後にある加治田城の佐藤紀伊守父子に伸びていた。
そして佐藤父子が信長に寝返ると、犬山城目指して柴田・佐久間・丹羽隊が3方面から進軍した。城下には火が放たれ、城の周囲には3重4重の鹿垣が設けられ城は完全に孤立した。美濃からの救援がないにもかかわらず、信清は必死に抵抗を続けた。包囲がいつ始まったかは不明だが、7月になり織田軍が木戸を破り城内になだれ込んでくると信清は降参した。近習5、6騎に守られた信清は善師野・栗栖方面へ落ちて行った。その後甲斐へ辿り着いた信清は、信玄のお伽衆となり出家して犬山鉄斎と号したという。
【探索のヒント】犬山城の天守閣@は日本最古の天守閣で国宝と言われていましたが、近年それが疑問視されています。また「金山越え」といわれる天守閣の金山城からの移築も異論があるみたいです。最上階からは小牧山城Aを一望できます。
犬山城は
現在犬山丸の内緑地B【MAP】となっている三光寺山Cに最初築かれたとされますが、十分な発掘調査はされていないものの、今のところ城に関する遺物遺構が見つかっていないので、現天守閣の山が有力とされています。
2008年に測量調査、翌年より範囲確認調査が実施されて本丸の東西に切岸、犬山城白帝文庫のある樅の丸では石積みが見つかっていますが見ることはできません。また
本丸西側の空堀Dや本丸北側の七曲道の石垣Eなど立ち入ることはできませんが遠目に確認できるものもあります。
歴代の城主による改修のため初期犬山城の確実な遺構は不明ですが、天守閣1、2階がその頃のものとされ、
福祉会館F【MAP】の駐車場で16世紀前半の溝が見つかり、平時の城主の館跡ではないかと言われています。
【駐車場】専用駐車場あり
【最寄りの駅】名鉄犬山線「犬山遊園駅」
【最寄りのバス停】各務原ふれあいバス「犬山城」
 
【寄り道】五郎丸
信清が犬山城を退去すると信長は池田恒興を城主に充てた。恒興は信長と乳兄弟。恒興の母養徳院が信長の乳母であったことは有名である。その養徳院は『雑話犬山旧事記』によれば五郎丸の宮田家の人であった。そして勝幡の池田家に嫁ぎ、恒興を生んだ。その後、養徳院は五郎丸村に350石の田(ヲヲチ分、御乳方といった)を与えられここに住んだ。こうした経緯もあり恒興は犬山城主となったと言われる。恒興は1581年摂津国へ転封になるまで犬山城主であった。
【探索のヒント】信長の死後、大垣城主となり、小牧長久手の戦いで戦死した恒興の墓は龍徳寺(岐阜県池田町)・妙心寺護国寺(京都市)・常照寺(長久手町)・長久手古戦場公園にあります。『史と詩の町から犬山』で五郎丸に関する史跡が紹介されていたので行ってみました。弾圧されたキリシタンの犠牲者を弔った諸神諸佛諸菩薩供養塔【MAP】は県道27号春日井各務原線「万願寺交差点」を北西へ少し行った所にあります。車を止めることができなので「コメダコーヒー」の駐車場を利用しました。もちろんコーヒーと小倉トーストを食べました。万願寺は満願寺と書きキリシタン寺院でした。尾張藩では藩主松平忠吉、徳川義直、義直の妻春姫(浅野幸長の娘)、成瀬正虎(犬山城主)らがキリシタンまたは良き理解者だったので藩内にキリスト教が浸透しました。ところが1638年の島原の乱が終結すると江戸幕府はキリシタン弾劾を開始。成瀬正虎の子正親は五郎丸で一人のキリシタンを検挙し、その自白により108人がさらに捕えられました。あまりに多くの人が捕らえられたので五郎丸は村の機能を失って消滅しました。この時の犠牲者を祀ったのが上記の塔です。
【駐車場】なし
【最寄りのバス停】
岐阜バスコミュニティリトルワールド・モンキーパーク線「橋爪中」
 
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【寄り道】木之下城―犬山市犬山愛宕 【MAP】
築城は1469年(文明元)で応仁の乱が始まって間もなくの頃である。小口城主として犬山郷を領有する織田広近は美濃の斎藤妙椿に備えて二重の堀をもった木之下城を築いたという。だが広近の兄敏広は斯波義廉に従い西軍に属し、妙椿もやはり西軍だったのでこの辺りが不明である。ただ文明元年と言うと東軍が西軍の朝倉孝景に寝返り工作を行っており、文明3年孝景は東軍へ寝返った。この後、幕府から伊勢守に宛てて朝倉と相談して忠節を致すようにと言う御内書が発給されているので、敏広も東軍寝返りを考えていたのかもしれない。『武功夜話』では弘治年間(1555年〜1557年)に、小口城にいた信康が信秀の助言を受け、鵜沼城大沢次郎左衛門に備えて木之下城を作ったとする。だがこの時は両者とも死没しているはずである。
【探索のヒント】犬山図書館の南にある愛宕神社@が城跡です。本殿Aが建てられている所に主殿があり、周囲より一段高く土盛Bがされています。神社の二筋西の狭い道の少し東へ折れた所Cが城戸跡、本殿裏の排水路Dが堀と言われます。
この城は木曽川の伏流水のおかげで豊富な水源をもっていました。そこで井戸が掘られました。現在も境内に残る
金明水Eと民家にある今は枯れてしまった銀明水です。ついでに境内にある手水石Fに彫られている白厳水の「白厳」は信康の戒名です。
神社の周辺は道が狭く、車で行ったらゆっくりと散策できません。犬山城から歩いて行ける距離なので、車で行った場合は城近くに車を置いて、城下町を散策しながら行くことをお勧めします。
【駐車場】犬山城周辺の駐車場 図書館駐車場 
【最寄りの駅】名鉄犬山・広見・小牧線「犬山駅」
【最寄りのバス停】犬山コミュニティバス路線B・C「市役所」
 
@A
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【寄り道】針綱神社―犬山市北古券 【MAP】
犬山城の築城時、針綱神社は白山神社と言われ古来より山頂(現本丸)に鎮座していた。信康は後奈良天皇の綸旨を得て、天文6年8月28日白山社を本宮山(白山平)に移した。白山平には犬山市内最古の東之宮古墳があり、街を一望できたので選ばれた。以降、慶長12年犬山城主小笠原吉次が城下の南、名栗町へ移すまで70年間
犬山の町を見守った。明治15年名栗町から現在の場所へ移る。
927年の『延喜式神名帳』の丹羽郡二十二座、1364年の『尾張国内神名帳』の丹羽郡三十五座の一つとして「針綱神社」の名があるが、1512年の『鵜沼記』では「白山」と書かれ、白山神社と呼ばれるようになっていた。1752年の『犬山里語記』で松平秀雲がこの神社は「針綱神社」であると指摘があり、1795年7月7日正式に「針綱神社」に改称された。
【探索のヒント】犬山城へ登る途中に針綱神社@があります。また本町通りを北上して、犬山城の麓へ出た右側に針綱神社の駐車場があり、階段を上がると本殿Aに到着です。信康が自らの手で彫った狛犬一対を、奥方の安産を祈願して奉納。これ以降安産祈願の神社とされています。
犬山城から
本町通りBを真直ぐ南へ下り、県道183号浅井犬山線「本町交差点」の南の辻を東へ入ります。ここが旧名栗町で少し先へ行くと、民家の前の空き地に白山平から移されたのがここであることを示す元宮跡の碑C【MAP】が建っています。
犬山城と城下町見学のついでに行ける距離なので城近くの駐車場の利用を勧めます。
【駐車場】なし 観光専用駐車場
【最寄りの駅】名鉄犬山線「犬山駅」
【最寄りのバス停】犬山市コミュニティバス路線B「下本町」
@A
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【寄り道】瑞泉寺―犬山市犬山瑞泉寺 【MAP】
犬山城の向かいにある瑞泉寺一帯が信長の兵火に罹った理由として、犬山城の出城として機能していたからではないかと言われる。犬山城のある城山の北は断崖だが南は防衛設備がない。そこで犬山城の側面を防衛するため瑞泉寺を砦としたのではないかというのである。
信長の犬山攻めで焼失した瑞泉寺は1415年日峰宗舜創建の京都妙心寺派高位の末寺である。1399年応永の乱で足利義満が妙心寺を廃絶しため、1432年の再興まで仮本山となった。
この寺に縁のある僧として快川紹喜がいる。1560年12月、斎藤義龍が妙心寺霊雲派の別伝宗亀に帰依し、菩提寺として伝灯寺を創建した。さらに美濃の禅宗の本山とし、国内の禅寺を一括管理させるとした。当時崇福寺の快川紹喜はこれに反発して、美濃の禅僧を引き連れ瑞泉寺に退去した。そもそも出自を清和源氏一色氏としたい義龍が、源氏は禅寺を菩提寺とするという慣わしから行ったことである。
瑞泉寺に集まった快川紹喜らは協議し、妙心寺に一連の事態の報告をし、霊雲派の破門を答申した。翌永禄4年3月2日妙心寺から破門決定の知らせが届いた。だが義龍はこれに先立つ2月26日、幕府から妙心寺へ今回の騒動の元凶は快川紹喜であるという手紙を出させた。さらに朝廷にも働きかけた結果、4月24日付で「伝灯寺を天皇の祈願寺とすること。南禅寺と同格とすること」の綸旨が出された。権力と対立して廃寺に追い込まれた妙心寺では善後策を練るため、快川紹喜、希庵玄密、十州宗哲を上洛させた。ところが5月11日義龍が急死してしまい、後ろ盾を失った別伝宗亀は逃亡する。この一連の騒動を「永禄別伝の乱」という。その後、霊雲派は美濃・尾張で禁じられたが駿河・遠江で勢力拡大に成功している。
瑞泉寺では一年一夏の輪住制で住職が入れ替わった。永禄別伝の乱の時の住職は岐秀元伯であった。岐秀元伯は甲斐・長禅寺住職に招かれ、武田信晴の教育係となり、信晴の得度式を務め、信玄の名を与えた人物である。美濃から逃げてきた快川紹喜は永禄7年信玄に招かれ恵林寺住職となり、武田家滅亡と運命を共にした。武田家に縁のある二人の高僧は瑞泉寺で出会い、親交を深めた。
信長の犬山攻めの戦禍により瑞泉寺は全焼した。この知らせに甲斐にいた快川紹喜は一日も早い再興を願った。1570年(元亀元)8月小牧政秀寺住職沢彦宗恩が瑞泉寺再興に乗り出した。これを受け、信長は再建のための資材には課税しない旨の朱印状を発給した。これは今も寺に残されている。元亀4年4月3日本堂の立柱式が執り行われ、本格的な再建が始まった。
【探索のヒント】名鉄犬山線「犬山遊園駅」のすぐ東に瑞泉寺@はあります。境内にある鐘楼Aは美濃市洲原神社からの移築で、三方の隅木には左甚五郎の作といわれる三匹の猿が彫られています。この向いの岩の上にある門Bは1600年に解体移築された金山城の門と伝わります。本堂Cはもとは犬山城の方、西に向いて建っていました。横山氏は寺院は東または南向き建てられるのが一般的で、西に向いているのは珍しいとされ、これは瑞泉寺が南朝と縁があり(開山日峰禅師の師無文元選は後醍醐天皇の皇子)、秘かに南朝の京復帰を願っているとも取れると書かれています。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りの駅】名鉄犬山線「犬山遊園駅」
 
【寄り道】龍済寺―犬山市犬山瑞泉寺【MAP】
龍済寺は瑞泉寺塔頭中、最も古い創建である。近江・永源寺で修業していた雲谷玄祥は24歳の時、瑞泉寺開山(1415年)間もない日峰宗舜の噂を聞き犬山にやって来た。そして日峰の許で15年間の修業を行う。1432年日峰が取りつぶされた妙心寺再興のため上洛すると、留守役(看院)を兄弟弟子の義天玄承
と務めることになる。雲谷は1439年から8年間務めた。その間、京都にいる日峰に2度退山を申し入れた。それは斎藤利永の帰依を受け、汾陽寺を創建する必要があったからだ。日峰に引き留められ汾陽寺を創建できたのは1447年だった。そして同年、龍済庵も瑞泉寺内にを創建した。1456年に雲谷が亡くなると、義天の弟子(初めは日峰に師事)雪江宗深、五岳慈因首座が庵主となった。
【寄り道】龍泉院―犬山市犬山瑞泉寺【MAP】
龍泉院は1468年、臨済宗妙心寺派の景川宗隆が創建した大亀庵が始まりである。北伊勢出身の景川は1443年19歳の時、瑞泉寺雲谷玄祥に師事し妙心寺派の僧侶の道を歩み出した。雲谷亡き後は桃陰玄朔、義天玄承、雪江宗深に師事。雪江の時、大亀庵を建てた。その後、大和・興雲寺、播磨・願成寺、北伊勢・大樹寺、美濃・瑞泉寺、京・妙心寺、丹波・龍興寺、美濃瑞泉寺・見龍庵、北伊勢・瑞応寺の住職を歴任した。1486年の斎藤妙椿の七回忌では導師を務めた。
【探索のヒント】龍済寺と龍泉院は「犬山遊園駅」の北の急な坂の途中にあります。この坂をもう少し登ると龍済寺の駐車場があります。
 
【寄り道】臨渓院―犬山市犬山瑞泉寺【MAP】
臨渓院は1482年臨済宗妙心寺派聖沢派の祖東陽英朝により建てられた。東陽は八百津町野上出身で土岐一族と言われる。5歳の時、京・天竜寺に預けられ、8歳から35歳まで南禅寺で修業したものの、自分の目指すものを得られず、1463年雪江宗深の許を訪れ15年間修業した。東陽は「学の東陽」と謳われその語録『少林無孔笛』には東陽の文筆力が遺憾なく発揮されている。また70歳の時作った『小参』という法語は妙心寺派内の教科書的訓示となった。1504年77歳で死去。寺は信長の犬山攻めの際焼失した。その際、東陽禅師木像は運び出されて焦げ跡はあるが無事だったことが近年分かった。1617年犬山城主となった成瀬正成はここを菩提寺とした。
【探索のヒント】龍済寺の駐車場へ行く坂道の途中を右へ行くと臨渓院の駐車場があります。これから南へは徒歩で行くか、一旦県道27号春日井各務原線へ戻って、瑞泉寺の駐車場まで移動しなければなりません。
 
【寄り道】輝東寺―犬山市犬山瑞泉寺【MAP】
輝東寺は熱田に生まれた特芳禅傑が文明年間に輝東庵として創建した。特芳は京都で五山派の禅寺で修行したが満足いかず、妙心寺派の義天玄承に入門する。また雲谷玄祥・桃隠玄朔にも師事し、彼らの死後は義天の法嗣雪江宗深に仕える。1478年管領細川氏の支援で大徳寺住職となるが2年で退院、1489年から瑞泉寺に入り3年過ごす。この時、輝東庵を創建したのではないかと言われる。特芳の法嗣に大休宗休がいる。1504年から3年間、瑞泉寺の輪番住職を務めたのち、河内の某寺へ行き、1521年妙心寺へ入った。その後丹波へ行くが再び妙心寺へ戻る。1549年妙心寺で亡くなるが、その間に特芳のため霊雲院を創建している。よってこの派を霊雲派と言う。この霊雲派が美濃尾張で永禄別伝の乱を起こす。斎藤義龍が建てた伝灯護国寺の住職に霊雲派の別伝宗亀を招き、美濃国内の妙心寺派の総録寺院としたため起こった紛争である。この一件で霊雲派は美濃尾張での布教ができなくなった。輝東安も信長の兵火に焼かれ、復興するのは江戸初期になってからである。
【寄り道】臥竜寺―犬山市犬山瑞泉寺【MAP】
臥龍庵は妙心寺派東海派の拠点として悟渓宗頓により創建された。丹羽郡山名村の農家の出である宗頓は1430年15歳の時、瑞泉寺の日峰宗舜に入門した。この時、宗頓の名を受けた。日峰が妙心寺再興のため上京するのに従い、1432年から1448年に日峰が亡くなるまで京で過ごした。瑞泉寺に戻った宗頓は雲谷玄祥の弟子となる。1456年雲谷の死を以て汾陽寺を去り、弟弟子桃隠玄朔を頼って北伊勢・大樹寺へ行った。1463年桃隠が死去すると、兄弟子雪江宗深のもとで修業を始める。1464年悟渓の道号を与えられ瑞泉寺へ戻り、臥龍庵を創建した。その後、斎藤妙椿の瑞龍寺創建に際し、雪江が勧請開山、悟渓は創建開山となる。この美濃との関係から土岐持益の葬儀、斎藤妙椿の三回忌では導師を務めている。1484年4月妙心寺の住職となり塔院東海庵を創建したので、東海派と言うようになる。2年妙心寺で過ごした後、瑞龍寺、瑞泉寺、汾陽寺(中興開山として招かれる)に住山し、瑞泉寺に戻り1500年亡くなる。臥龍寺も信長の兵火に焼かれたが、1567年から瑞泉寺と共に復興が開始された。それには岩村・大円寺の希庵玄密、小牧・政秀寺の沢彦宗恩の尽力も忘れてはいけない。
【探索のヒント】県道27号春日井各務原線「内田交差点」を東へ入り、名鉄の踏切を渡ってしばらく行った左に細い道があります。それが瑞泉寺の駐車場への道です。この道を曲がり損ねると成田山まで行ってしまいます。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りの駅】名鉄犬山線「犬山遊園駅」
 
@A
【寄り道】寂光院―犬山市継鹿尾杉ノ段【MAP】
正式名称継鹿尾山八葉蓮台寺寂光院。奈良時代に創建された寂光寺は白鳥山神宮寺と言った。中世には数千の塔頭を擁した真言宗の大寺院だったが、浄土真宗・時宗、日蓮宗が民衆に広まったのと武士が禅宗に帰依したことから室町時代中期にはかなり衰退した状態となった。そんな寂光寺にとって信長の出現は千載一遇のチャンスだった。当時の住職は信長に面会して美濃への先導役を買って出た。その後、伊木山城・鵜沼城・猿啄城を落とし中美濃を制圧、稲葉山城攻略に大きく前進した。その直後の永禄8年9月18日信長は寺に参詣して住職と対面、寂光院を清須城の鬼門除鎮護の霊刹とし御黒印(非課税地)五十石と山林五十余町歩を与えた。この後も羽柴秀長、小笠原吉次、尾張藩に保護され今日に至っている。
【探索のヒント】県道185栗栖犬山線の「氷室交差点」から「尾張パークウェイ(無料)」経由または「氷室交差点」の北東500mにある山道を使う方法で寂光院の前に来ます。駐車場は入口付近にもありますし、一番奥にも狭いですがあります。茶屋前から320段の石段を登って本堂@へ。本堂の左側には筆塚があるのですが、その入口の柱には中興織田信長公 四百年御遠諱記念の文字Aが。信長が神仏を蔑ろにしたと思い込んでいる人たちに是非とも見てもらいたいと思いました。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りの駅】名鉄犬山線「犬山遊園駅」
【最寄りのバス停】
犬山コミュニティバスまたは岐阜バスコミュニティ「寂光院」
 
@A
BC
DE
FG
B小口城―丹羽郡大口町小口屋敷【MAP】
城主織田広近は織田伊勢守敏広の弟である。敏広が叔父勘解由左衛門久広に代わって守護代となると、1459年広近に小口城を築かせ、丹羽郡の東の要衝とした。広近は小口城を本拠に1466年斯波家内訌の当事者義廉を守るため上洛、1481年兄の跡を継いだ千代夜叉丸の斯波義良帰伏に同行、1487年将軍義尚の近江六角攻めに従軍と岩倉織田家を支え続けた。広近が美濃の動向に備え木之下城へ本拠を移すと小口城は次男寛近に託された。1491年9月24日広近が亡くなり、寛近がその跡を継ぐ。この後、寛近は木之下城と小口城を行き来することとなる。ちなみにこの時利用した道は「織田街道」という。天文の初め、信康を養子に迎えるとようやく寛近は小口城に腰を据えることができた。
信康死後、犬山城主となった信清は家老の中島豊後守を小口城代にした。13年後の1561年6月、信長は豊後守を寝返らせるため丹羽長秀を小口城へ送った。城門前で長秀に対応したのは家老の田中二郎左衛門であった。田中は「主人は病で伏せっていて、某の一存では決めかねる」の一点張りで、3時間に及ぶ長秀の説得に耳を貸そうとしなかった。その報告を受けた信長は生駒屋敷に武具を運びこませ、小口城攻めの準備に取り掛かった。一方の小口城も信長が攻めてくるは必定と美濃に援軍を求めた。
6月5日午前7時、信長を先頭に丹羽・滝川・森隊三百が生駒屋敷に現れた。準備が整うや信長はもうもうと砂煙をあげて小口城の方へ出陣していった。城を囲んだ織田軍はたちまち城門を破り、城内へなだれ込んだ。信長も最前線で長槍を振るって戦うが城方の抵抗は激しく、特に寺沢藤左衛門、酒井小藤太の働き目覚ましく、信長の近習達は次々と討取らたり、負傷して退いて行った。戦死者の中に槍でこめかみを突かれた赤母衣衆の岩室長門守が居た。特に目を掛けていた彼の死を信長は非常に悲しんだという。中島城を攻めていた前野党・生駒党が合流すると城方の兵は建物の中へ引き上げてしまった。二時間ほどの戦いであった。信長は敵を深追いせず清須へ引き上げていった。
事態が変わるのは信長が小牧山城を築いてからである。小牧山城は小口城からわずか5キロ強にあり、戦慣れした信長が数千の兵を動かせば、前回のように容易に撃退できるとは考えられなかった。小口城の大半の兵は犬山城へ退いた。ここに再度、信長から降伏勧告が届いた。城主中島豊後守は戦意を喪失してこれに応じた。
【探索のヒント】現在は小口城址公園として整備されています。摸擬物見台@空堀にかかる橋Aなどがありますがもちろん当時のものを再現したものではありません。発掘・整備前、城跡は「城山」と呼ばれる丘でした。その天辺は平にならされ戦役記念碑や小口城の碑がありました。発掘で建造物の礎石や柱穴が発見されず、小牧長久手合戦で廃城となった後、かなり改変が加えられたと推定されています。その中で野鍛冶炉跡が9ヵ所と井戸が見つかっています。現在、展示棟前にそれらは展示Bされていますが、野鍛冶炉跡は発見当時と位置が違っています。
平成22年の発掘調査で
大口町屋内運動場グラウンドCで幅15メートルの内堀らしき溝(赤線)とその内側に柱穴、駐車場に外堀らしき溝が見つかりました。廃城から60年後に画かれたと思われる『丹羽郡小口村古城絵図』にある二重堀と推測されています。この発掘で『古城絵図』がかなり正確に縄張りを書き表しているのが分かりましたが、内堀西側の建物については記載がなく今後の課題と言う事です。
他に城址公園の西にある小口神社本殿裏に土塁があります。旧
五条川Dは現在地より東を流れていたので、武家屋敷のあった城屋敷2丁目Fは城の外堀に面していました。五条川の柵に於久地城の説明板Eがあるのはそのためです。
展示棟の東に
土盛Gがあります。他のサイトでも取り上げられていましたが、これは土塁跡ではありません。小口城は古墳に土盛をして建てられたという説があります。古墳である確証は地中探査で出なかったのですが、東の駐車場辺りまでは土盛がありました。公園化や駐車場横に道を通した時に土盛は崩され、それを積み上げたのが当該の土盛です。
この他、城の遺構として妙徳寺と小口神社の間の東西に走る道は水堀、駐車場から西の空き地が空堀でした。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りのバス停】
大口町コミュニティバス北部ルート「小口城址公園」
 
@小口神社A小口神社土塁
【寄り道】小口神社―丹羽郡大口町丸2丁目【MAP】
小口天神と少名毘古那命を祀る。鎌倉時代にはすでに創建されていたが、中世にその所在が不明となる。広近が小口城を築城した際、城内の天神社を小口神社とした。
【探索のヒント】小口城の道を挟んで西にある小口神社@が城内にあったのを示すのが神社北側の土塁Aです。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りのバス停】
大口町コミュニティバス北部ルート「小口城址公園」
 
@中島(申丸)砦A中島(申丸)砦
【寄り道】中島城―丹羽郡大口町丸2丁目【MAP】
中島左兵衛尉の城として天保年間に描かれた村絵図に載る。申丸砦とも言う。小口城を守った中島豊後守との関係は不明である。1574年の長島攻め以降、豊後守を史料上で確認できないのに対し、余野神社に1597年奉納された青銅の鰐口に左兵衛尉の名が残る。両者が同一人物か否かに関わらず中島家は戦国末期においても依然この地を支配していたということである。
小口城攻めと同時に出城である中島城攻めも開始された。中島城には2百の兵が待っていた。攻めるは生駒党と前野党である。五条川を挟んで前野・生駒隊は城へ鉄砲を撃ち込んだ。負けじと城方は矢で応戦して来たため、戦いは長引きそうだった。これにしびれを切らした生駒家長は城を二方面から攻めようと前野雄吉を城の南東へ行かせた。だが南東側も五条川を利用した堀があり、容易に攻められなかった。そこで前野直高と足立三郎五郎は近くの竹藪から竹を伐り出し、それを束にして舟橋を堀に渡した。その時、家長隊が城へ突入した。前野隊もこれに遅れまいと舟橋を渡って城になだれ込んだ。一時間にわたり戦いが続いたが、小口城の方に火の手が上がるのを見た城兵は撤退を始めた。これを追った家長に向かい、櫓から鉄砲が発射された。この弾は家長の太腿に命中、思いの外重傷で以降歩行困難となった。
【探索のヒント】アピタ大口店から五条川に沿って北東へ進みます。左側ににあるカントリー・エレベーター@とその東にある町立給食センターAが砦跡と言われます。遺構は全くありません。当時の五条川は大口町総合運動場の南を流れていたので、運動場を砦跡と紹介している書籍もあります。
【駐車場】路上駐車 【最寄りの駅】名鉄犬山線「柏森駅」
【最寄りのバス停】大口町コミュニティバス「大口町役場前」
 
@妙徳寺A織田広近
【寄り道】妙徳寺―丹羽郡大口町小口宮之前【MAP】
1475年(文明7)に木之下城から小口城に戻った広近は、萬好軒を建て隠居所とした。1491年(明応元)死去。「吾、死す後は冥福のためにこの隠所を禅刹とすべし」と生前語っていた通り、同地に吉祥山妙徳禅寺が織田敏定により建立された。
【探索のヒント】小口城、小口神社の北にあります。町内は入り組んだ道ですが、車の通行は可能で寺に駐車場もあります。山門@を入った左に墓地があり、その中に広近の五輪塔Aがあります。ただし案内がないので自力で探さないといけません。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りのバス停】
大口町コミュニティバス北部ルート「小口城址公園」
 
【寄り道】徳林寺―丹羽郡大口町余野2丁目【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】 【最寄りの駅】名鉄犬山線「柏森駅」
【最寄りのバス停】
大口町コミュニティバス北部ルート「徳林寺前」
 
【寄り道】余野神社―丹羽郡大口町余野一丁目【MAP】
神明社と八幡社が合併した時に余野神社と改称された。1917年のことである。八幡社は1596年(文禄5)、神明社は1597年(慶長2)に中嶋左兵衛
により創建された。
【探索のヒント】中島左兵衛尉が奉納した鰐口が所蔵されていますが見ることができませんでした。
【駐車場】 路駐 【最寄りの駅】名鉄犬山線「柏森駅」
【最寄りのバス停】
大口町コミュニティバス北部ルート「余野五差路」
 
  @A
BC
DE
C黒田城―一宮市木曽川町黒田古城【MAP】
相模国から黒田へ移ってきた五藤源太左衛門尉光正が1490年代(明応期)に建てた居館が黒田城の前身である。黒田に地盤を築いた五藤氏だったが、織田伊勢守により領地を奪われ浪人となった。天文年間(1532〜54)、山内盛豊がこの地に赴任した。その時、同じ相模出身という縁もあったのであろうか、五藤氏を召抱えている。信長の手により1557年盛豊と嫡男十郎が死亡。岩倉城を守って戦死したとも、黒田城を夜討され死亡したとも言われる。織田伊勢守家に代わり木曽川沿いを領有した織田信清は、勘解由左衛門広良を黒田城主にする。1562年信長の美濃攻めに加わった広良が戦死したため、信清の家老の和田新介定利(貞秀)
が新城主となった。だが信長の犬山城攻めが始まると犬山織田領の西端に位置する黒田城は孤立する危険があったので、丹羽長秀の投降に応じ、犬山城攻めに中島豊後守と共に加わった。
信長配下となった和田新介は伊勢攻めに従軍。1574年の第三次長島攻めで戦死。黒田城は弟和田八郎定教に受け継がれた。
【探索のヒント】一宮市立黒田小学校が城跡で、学校の東に冠木門@碑A、案内看板があります。学校の北側に流れる野府川Bを背に東(城東)に一重、西(城西)に二重、南(国井病院前)に三重の堀を備えていたということですが、遺構は残っていません。小学校の南側にあるクランクと側溝Cが城跡らしきものを感じさせます。駐車場は小学校のすぐ西の道を入り、突当たりを右へ曲がった奥にありますが、車の大きさによっては切り返しが必要です。
山内一豊がこの城で生まれた時ことで城の碑のある所に
一豊と馬の像Dがあるのですが、台座と比較してあまりのアンバランスさEに何か大人の事情があったのかと感じてしまいました。
【駐車場】黒田児童館の駐車場
【最寄りの駅】名鉄名古屋本線「新木曽川駅」
 
 @宮後城02A宮後城01
D宮後城―江南市宮後町八幡【MAP】
蜂須賀小六正勝の屋敷跡でもある。正勝は海東郡蜂須賀郷の国人であったが、諸説あるが郷里を離れ母の実家である宮後の安井氏の許へ移ったとされる。
蜂須賀氏は鎌倉時代より尾張国府宮権神官にその名を見ることのできる由緒正しい家筋であった。だが6代美濃守護土岐頼康の時より、土岐氏被官北里蔵人らにより蜂須賀氏の領地が横領され始め、1396年頃ついに蜂須賀氏はその領地を失う事となった。正勝の系統はこの蜂須賀氏ではないとされる。正勝に繋がる系統は、1482年の清須宗論の奉行に名が残る蜂須賀豊後守俊家とされる。ちなみにこの蜂須賀氏は斯波氏一族の奥田氏と同族ではないかといわれる。俊家の孫彦右衛門正利が正勝の父である。母については『大橋家譜』は津島衆の長大橋定広の娘とする。宮後城に来た正勝はここを拠点に川並衆を率いて、木曽川沿いに影響力を持ち、信長・秀吉の天下取りに貢献したのは周知のことである。のち阿波国主となった正勝の子家政はこの城で生まれた。
一方、正勝を迎え入れた安井氏であるが、『姓氏家系辞典』は甲斐武田一族逸見氏とし、『尾張藩諸家系譜』では美濃土岐一族浅野氏の
傍系と取れるが、実際のところはハッキリしていない。応永年間(1394−1427)に美濃尾張守護土岐氏家臣だったこの安井氏が築き代々城代となったのが宮後城である。ちなみに宮後という地名は井手神社の北側という意味である。
正勝に城を譲ったのちもこの地で暮らした安井五兵衛重継(弥兵衛?)の子が弥兵衛長政で、浅野又衛門源長勝の養子となる。後の五奉行、広島藩浅野家の祖浅野長政である。
【探索のヒント】「宮後交差点」から県道64号一宮犬山線に沿って北東へ140メートル行った左側に碑の建った空き地@があります。ここが主殿のあった内郭で県道を挟んで南北100メートルありました。県道を挟んで城跡の反対側には蜂須賀家政生誕地の碑Aがあります。城跡の東にある水路Bは、木曽川の支流古川で築城時は堀の役割をしていました。内郭を囲んで外郭があり、両郭の周囲には古川から水を引き込んだ堀が巡らされていました。この堀跡は今は道路に姿を変えて残っています。
【駐車場】路駐 【最寄りの駅】名鉄犬山線「江南駅」「柏森」
 
@A
【寄り道】宮後八幡宮―江南市宮後町八幡【MAP】
安井弥兵衛が宮後城を築いた時に城内に鎮守社として勧請された。宮後城の出城ともなったが、小牧長久手合戦後破却、1587年同地に八幡社が勧進された。
秀吉の天下取りに父正勝と共に大きく貢献した蜂須賀家政は徳島24万石の大名となった。後継した嫡男至鎭が早死にしたので、隠居していた家政は孫の忠英の後見のため再登板となった。
1624年66歳の時、老境に入った家政は父正勝と過ごした宮後城時代を懐かしみ、八幡社に本殿・釣殿・拝殿を造営寄進した。落成祝いには稲田九郎兵衛植元、生駒右近善長、前野兵太夫が名代として訪れた。
【探索のヒント】県道64号一宮犬山線の「宮後交差点」のすぐ西、歩道橋の東側の一方通行の道へ入ってしばらく行くと左側に神社@はあります。駐車場はないので神社脇に路駐しました。神社に入ってすぐに砦跡だったことを示す石積みAが目に入ります。
【駐車場】路駐 【最寄りの駅】名鉄犬山線「江南駅」「柏森」
 
前野屋敷
【寄り道】前野氏屋敷―江南市前野町西【MAP】
藤原北家利仁流富樫氏の支流である良岑(峯)坪内氏を祖とする。良岑高成の三男高長が前野村開発に携わり、前野姓を称する。高長の子宗長、孫宗安は京へ移り、平忠盛、忠度の家臣として北面の武士となる。その後、宗安は前野村へ戻り、右馬寮下司に任じられ馬飼のための領地を与えられた。1182年平家が滅びると尾張大介職(地頭)中嶋宣長に属して、以前と同じ役職を続けられた。1221年承久の変が起こると、宗安は中嶋氏に従い天皇方として、尾張川(木曽川)で鎌倉幕府軍と戦った。だが敗戦のため、中嶋氏は地頭職を解任、前野氏も馬飼地地を没収、前野村に蟄居させられた。そのため非常な貧困に悩まされることとなった。この裏で中嶋氏は六波羅に何度も赦免を願い出ていた。ようやく中嶋氏が赦免されると、前野家も前と同じく馬飼の仕事を与えられた。当主が4代時綱の時である。
室町時代に入り尾張守護代として越前より織田常松が入府してきた。下津城の常松の許に出仕したのは8代高廣で、これ以降前野氏は守護代織田氏に仕えることになる。織田家が清須と岩倉に並立すると13代宗康は岩倉の織田信安の軍奉行となった。そこでは織田信秀の美濃攻めに川並衆を率いて参加したこともある。『武功夜話』では信長が岩倉城を攻めた時、宗康は自分は岩倉城に残り、三人の子供は信長方につかせたとある。
三人の子供、長男宗吉は信長の命により柏井の小坂氏を継ぎ信雄の傅役となった。その時、「雄」の文字を拝命し雄吉と改名した。1590年信雄が秀吉の移封命令を拒否して改易されると雄吉は前野村に蟄居した。その後、雄吉の子は前野姓を吉田姓に改め、『武功夜話』は雄吉の孫雄翟が著した。なお雄吉の嫡男は『夜話』では雄善とし、『寛政重修諸家譜』など公式の系図ではその名はなく、『夜話』で弟とされる雄長を跡継ぎとしている。
次男将右衛門長康は蜂須賀小六と共に常に秀吉のそばにあってその天下取りに大いに貢献、但馬11万石の国持大名となった。だが秀次事件に連座して嫡男出雲守景定が切腹すると、それを追って自決した。
三男小兵衛勝長に関しては『武功夜話』『前野氏系図』だけにしかその名を確認できない。
【探索のヒント】県道179号宮後小牧線「力長北交差点」を北へ350メートルほど行くと道に面して写真等で見覚えのあ門構えと蔵があります。県道は幹線道路なので交通量が多く路駐すると迷惑なので、前野天満社前野駐車スペースを利用しました。
【駐車場】なし 【最寄りの駅】名鉄犬山線「柏森駅」
 
@A
【寄り道】仏徳山観音禅寺―江南市前野町西【MAP】
1595年(
文禄4)「限りある 身にぞあづさの弓張りて とどけ参らす 前の山々」の辞世を残して前野長康は秀次事件に連座して自害した。長康を介錯した甥の前野(野田)清助義詮は辞世と長康愛用の野釜を持ち前野村へ戻って来た。そして長康の菩提を弔うため出家して常円と名乗り、余野の徳林寺住職海浦和尚を開山として草庵弘法堂を建てた。以後、前野家の菩提寺となった。
1748年徳林寺三世継山全初和尚は本尊が三面八臂座像観世音(平成元年不空羂索観世音菩薩と判明)であると京都妙心寺に報告して観音堂と改称した。その後、徳林寺八世祖蘭和尚が堂宇を再建、明治15年10月9日観音寺と改められた。
前野氏屋敷前にある「前野小兵衛加賀守由緒碑」は『武功夜話』で宗康の三男といわれる勝長について記されている。織田軍の鉄砲隊を務める佐々成政の養子となった勝長は、長篠合戦の三段撃ちの考案者とされる。成政が越中富山城へ移封されると1万5千石の井波(砺波)城主となる。成政のさらさら越にも同行するが、富山へ戻ってから死去した。前野一族はそれを哀れに思い五輪塔を一族の屋敷郡、通称「八屋敷」の土居下に建てた。ちなみに水戸黄門の助さんこと佐々介三郎宗淳は勝長の末裔という。
【探索のヒント】前野天満社の北側@にあります。前野天満社と一緒に回ったので車は天満社前に置きました。本堂横に前野小兵衛加賀守五輪塔Aが安置されています。
【駐車場】なし 【最寄りの駅】名鉄犬山線「柏森駅」
 
@A
【寄り道】前野天満社―江南市前野町西【MAP】
1268年前野家4代右馬三郎兵衛時綱の母が天満社を勧請した。同じ頃、板倉四郎右衛門が大日霊社を建立している。1525年前野五郎九郎正義が天満社を再興、森勘解由正久も正八幡宮を勧請したので、同一場所に三つの神社が存在した。1911年大日霊社と八幡社を合祀
、現在に至る。
「板倉四郎右衛門行記の由来記」はより詳しく書かれている。1181年越後平氏の城長茂とその家臣板倉四郎右衛門は木曽義仲追討命令を受けた前野宗安の援軍のため出陣。だが義仲軍に敗退、続く平氏滅亡のため追手を逃れて生駒山に潜伏することになった。のち捕われて梶原景時に預けられるが、前野氏と梶原氏が縁者であったため助命され、1188年越後へ戻ることができた。この時、宗安も越後へ向かっている。越後で宗安は菅原天満宮宮司の娘と結婚、時綱をもうける。
謀反を疑われ梶原景時が誅刹された翌1201年長茂は将軍源頼家追討の宣旨を得ようと上洛するが叶わず、却って幕府軍に攻められ吉野で討死してしまう。主を失った板倉四郎右衛門が再び登場するのは、1221年の承久の変の時である。尾張川(木曽川)の墨俣で後鳥羽上皇方の山田重忠の軍に前野時綱と加わった四郎右衛門だったが、ここでも幕府軍に敗れた。四郎右衛門は前野村に逃れ、ここを永住の地とした。前野氏と共に馬飼の務めを果たしながら、大日霊社を創建し四郎右衛門行記と称する神官となった。この名は代々受け継がれた。なお1268年は神殿が建てられた年で、四郎右衛門吉遼によるものとされる。
【探索のヒント】前野氏屋敷から北へ行った角にあります。本殿@に行った第一印象がとにかく全てがデカイです。さらに全てが目線より上にある感じで威圧感がありました。本殿の左へ行くと1558年(弘治3)に大日霊社跡に四郎右衛門行記が創建した社Aがあります。昭和45年にここへ移されました。板倉氏出身地の越後国頚城郡に五十公郷という所があり、五十棲河内、五藤を名乗る板倉一族がいました。そこでこの社は五十様と呼ばれていました。
【駐車場】神社前にあり 【最寄りの駅】名鉄犬山線「柏森駅」
 
@A
B
E大道寺砦―丹羽郡扶桑町柏森西前
現在の解脱山専修院を大道寺砦としているが、犬山攻めの時は名鉄犬山線「柏森駅」の西にあったので、土塁や井戸跡はその頃のものではない。砦となった真言宗寺院大道寺は1280年常照東安大和尚により建立された。4町歩(4ha)の境内に専修院、薬師寺、大仙院、戸白院を有する大寺院であったが兵火により客殿だけが残った。1577年この客殿を本殿とし、現在の地に浄土宗西山禅林寺派の寺として再興された。
美濃からの援軍を得た信清は、大道寺砦に兼松金右衛門と角田某に守らせた。また街道に鹿垣を設けて信長の進軍を喰い止めようとした。これに対し信長は遊佐河内守に兵3百を与えて砦を攻めさせた。
【探索のヒント】解脱山専修院@【MAP】は県道159号線の「柏森西交差点」を北へ進み、壁に絵が描かれた「コミュニティ広場 幸房くわの木」で左折した正面の山門が寺です。この専修院東門Aは犬山城二の丸矢来門を明治9年移築したものです。
柏森駅出入り口1(西側)から県道250号線を西(県道64号線方面)へ行くと、途中に「いづみ内科」の看板があるので、そこを左折して4つ目の辻を過ぎた左側に祠があります。明治5年亀井藤八氏がこの戦いで戦死した130人を祀るために建てた
大道寺薬師如来B【MAP】でここが大道寺砦跡とされています。祠の両側には五輪塔が4基ずつ並んでいます。道が狭く路駐は無理なので横の集合住宅の駐車場に止めさせてもらいました。
【駐車場】なし 【最寄りの駅】名鉄犬山線「柏森駅」
 
@古川観音山A狐塚
BC
F大道寺砦を攻める
犬山方は大道寺砦と堀の内砦に合わせて1千、中島砦に4百の兵を入れて街道を封鎖していた。
これに対し信長は、古川観音寺山・山名瀬山に森小助・同甚之丞正成70人、狐塚に柏井衆、前野通高130人、宮後城に浅野長政、林五郎兵衛百余人を置いて見張らせていた。
合戦当日、信長は遊佐河内守に兵3百を与え、自身は兵6百を率いて狐塚に布陣した。ここで河内守の采配を見物しようというのだ。
河内守は五町堀砦に入って与えられた兵を二隊に分けた。一隊は大道寺砦に向かうが、その中から30人を鉄砲隊として茂みの中へ隠した。砦に迫る遊佐隊に砦から兵が出てきて激戦となった。そこへ伏兵の鉄砲隊が一斉射撃を開始、驚いた犬山勢は浮足立ち、大道寺砦・堀の内砦に撤退し始めた。遊佐隊のもう一隊は、大道寺砦の北の黒野口に陣を張る美濃勢を急襲して、黒野口を確保してそこから大道寺砦を目指した。さらに中島砦を攻略した蜂須賀・前野隊も大道寺砦に殺到した。もはや勝ち目のなくなった砦の兵は降参して犬山へ引き揚げて行った。
【探索のヒント】『武功夜話紀行』(舟橋武志・著)、「江南市歴史民俗資料館」の丸山館長のお話を元に分かっている所だけ行って参りました。
古川観音寺山は江南市立西部中学校付近@【MAP】狐塚はミサワテクノの南辺りA【MAP】付近です。ミサワテクノの横を通る県道157号小口岩倉線「前野交差点」から柏森へ抜ける道は、信号がなく車も勢いよく走っているので路駐は考えず、ミサワテクノの構外駐車場を利用した方うがいいです。
この狐塚を南北に通り犬山まで通じていた道が
岩倉街道です。『武功夜話』によると天正2年街道を4メートルの幅に広げ、両側に柳を植えて整備したのでり柳街道B【MAP】の別称がついたとします。なお『信長公記』には翌天正3年に岐阜と京都の街道を本街道(3間2尺幅)、脇街道(2間2尺幅)、在所道(1間幅)と規定して整備したことが記されています。
柏森黒野天神社C【MAP】は線路沿いにあります。神社前に車1台分の駐車スペースはあります。一応神社横に路駐はできます。
●江南市立西部中学校:【駐車場】なし 路駐可能
【最寄りのバス停】名鉄バス古知野線「上奈良南」
●ミサワテクノ・柳街道の碑・柏森黒野天神社
【最寄りの駅】名鉄犬山線「柏森駅」
 
@A
【寄り道】遊佐河内守の墓―江南市五明町青木【MAP】
生駒屋敷には各地から浪人達が集まっていた。遊佐河内守教光もその一人であった。越中の浪人というが河内守護代の遊佐一族とみられ、楠木流兵法を極めたという。ちなみに河内守の妻は吉乃の兄、生駒八右衛門の妻の姉である。『武功夜話』の世界では生駒屋敷に足しげく通う信長は河内守の素生を知っていたので、その実力の程を確認すべく大道寺砦攻めを命じた。見事、信長の期待に応えた河内守だったが、この後織田信雄に従った小牧長久手の戦いまでその名は見られない。その後、出家して月窓入道と称した。1591年死去。92歳だったという。
【探索のヒント】県道63号名古屋江南線「五明町天王交差点」を西へ行った左側に道音寺@はあります。このすぐ先に駐車場はあります。河内守の墓Aは山門を入った左側の隅にひっそりとあります。もとは田代町西ノ丸にあったのですが民家が建って道音寺へ移されたということです。
【駐車場】専用駐車場
【最寄りの駅】名鉄犬山線「布袋駅」
 
【寄り道】平三郎の墓―江南市小郷町粟田木【MAP】
生駒家長の長子(次男)平蔵の子で関ヶ原合戦の前哨戦岐阜城の戦いで戦死。小折梅塚に葬られた。
【探索のヒント】生駒屋敷跡の案内板にあったので行きました。吉乃の荼毘地である田代墓地から北の空き地にあります。短時間なら路駐できますが、この付近をじっくり回るならこの北にある公園の横に車を止めた方がいいでしょう。
【駐車場】なし
【最寄りの駅】名鉄犬山線「布袋駅」
 
 @A
B
【寄り道】兼松正吉
攻略後大道寺砦を守ったのは兼松又四郎正吉である。葉栗郡島村の土豪兼松清秀の子で桶狭間合戦で初陣を果たす。信長の馬廻として大坂の春日井堤で一向宗の長末新七郎を討取ったり、刀禰坂での朝倉軍追撃戦では裸足で山中を駆け回り大将首を挙げるなど活躍している。刀禰坂戦で首を持ってきた正吉の足が血だらけなのを見て信長が、自らの足半を正吉に与えたことは有名である。前田利家や佐々成政のような大身の馬廻ではなかったが、信長の死後、信雄・豊臣秀次・秀吉・福島正則・松平忠吉に仕え、86歳で亡くなっ時には2600石の領地を有していた。
【探索のヒント】正吉の墓所は平手政秀の菩提寺政秀寺ですが、出身地島村の瑞応山東林寺@【MAP】の本堂裏に墓碑Aがあります。ここから南へ200メートルほど行った一宮市立葉栗保育園の向かいに正吉の子孫Bが住んでおられます。
【駐車場】東林寺駐車場利用
【最寄りのバス停】
名鉄バス一宮・川島線「島村」「島村口」

 

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