経過 |
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守護代織田大和守を倒しその領地を奪った織田信長の台頭に危機感を抱いた岩倉城①織田伊勢守信安は打倒信長を目指し美濃斎藤義竜、信長の弟織田信勝と組んだがいずれも成功しなかった。それどころか信安が嫡男織田信賢を廃嫡して次男織田信家に家督を継がせようとしたためお家騒動が勃発していた。
これを好機ととらえた信長は小折城②生駒家長の調略により信長方となった犬山城織田信清の軍と共に永禄元年(1568)5月28日浮野原③に兵2千で布陣した。これを迎え撃った岩倉城方だったが城門まで押し戻され敗北した。7月12日再び浮野原に現れた信長軍と信清の援軍合わせて3千と城方の間でと正午から夕刻まで戦闘が続き、城方はまたもや大敗北を喫し城へ撤退した。 永禄2年(1569)初春、信長・信清連合軍と城方との最後の戦いが行われた。前2回の敗北で兵力が著しく低下した城方に対し、連合軍は城下に火を放ち城を包囲した。この包囲戦の最中の2月2日信長は室町幕府13代将軍足利義輝に謁見するため初の上洛を果たしている。尾張統一の目処が立ち、将軍に尾張守護のお墨付きをもらうためであったと考えられる。信長の帰国を待ち、岩倉城は陥落、信賢は美濃へ落ちて行った。 |
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