@ AB CD EF GH |
@岩倉城―岩倉市下本町城址【MAP】
守護代織田伊勢守の城。織田敏広(与次、兵庫助)により築城。敏広が伊勢守家の祖と言われる。 父郷広の被官坂井七郎右衛門入道性通(広道)が万里小路時房の領地六師荘を代官と称して横領した。時房は郷広の推挙で性通を代官としたが横領行為をやめなかった。次に時房は管領細川持之に相談した。被官一人の横領行為を止められなかった郷広は斯波家中で「絶好」に追い込まれ逐電した。1441年(永享8)のことである。守護代職はその弟勘解由左衛門尉久広が継ぎ1451年(宝徳3)10月まではその名は記録されている。その後を継いだのが敏広であるが、郷広の子ということで継承にはひと悶着あった。 1452年(享徳元)に斯波義健が夭逝すると大野持種の子義敏がその跡を継ぐが老臣の甲斐常治と対立して将軍義政の怒りを買い失脚、その子松王丸(のち義寛)が跡を継ぐ。しかしこれに納得しない家臣が1462年(寛正2)渋川義鏡の子義廉を擁立、松王丸は廃された。ところが1465年(寛正6)12月義敏が義政から赦免されて上洛する。遠江へ出兵していた敏広は没落した義敏派の蜂起を心配して急ぎ下津城へ戻り、弟与十郎広近、従父兄弟三郎広久、九郎三郎広泰、三河守広成らを京の義廉の許へ向かわせた。翌年(文正元)8月義敏は越前・遠江・尾張の守護に復帰。だが、9月文正の政変により義廉が義敏を京より追放、同時に山名宗全と手を組んだ。 この後起こった応仁の乱に敗れた1475年(文明7)末、義廉は敏広を頼って尾張へ来た。1478年(文明10)8月、大和守敏定は幕府より義廉・敏広退治を命じられ尾張へ入る。敏定は緒戦に勝利するが、美濃・斎藤妙椿が婿の敏広救援に乗り出してくると形勢は逆転、敏定は清須城から動けなくなった。翌年(文明11)正月、両軍は妙椿の仲介で和議を結び、敏広は尾張6郡(尾張8郡中、知多・海東<海西郡とする説もある>は一色氏領)のうち4郡を支配することとなった。そしてこの年岩倉城が築城される。この2年後の1481年(文明13)、敏広は死去したとされる。その10月敏広の子千代夜叉丸(のち寛広)は叔父遠江守広近を伴い大和守敏定の主である守護斯波義良(義寛)に帰属した。これには支持した義廉がすでに尾張から越前へ移っていたという事とこの年敏定と再度戦いとなり敗れたという背景がある。ここに織田伊勢入道常松を祖とする宗家伊勢守家は大和守家に守護代職を譲ることとなった。 その後両家は斯波氏に従い六角攻めに従軍している。だが1495年(明応4)6月美濃で守護土岐成瀬の後継問題で対立していた斎藤利国(妙純)と石丸利光が戦いを始めた(船田合戦)。岩倉織田の織田兵庫助は利国の娘(甘露寺元長の女)を妻とし、清須織田の織田近江守寛定(敏定の子)は利光の婿という関係から、岩倉織田では兵庫守寛広と紀伊守広遠の甥十郎が斎藤軍へ、清須織田は敏定が石丸軍へ部隊を出した。ここで十郎の弟与三郎が兵を出して敏定軍の進軍を妨害、戦闘となった。この陣中で敏定が病死したので寛定が代わって与三郎と対峙した。これを知った十郎は尾張へ引き返し与三郎に加勢、寛定兄弟を討取った。だが地力に勝る清須織田家は、美濃ですでに石丸方が敗退していたにも拘らず、寛定の弟寛村を当主とし岩倉織田と抗争を続けた。そして翌1496年(明応5)3月20日の合戦で両軍に大きな損害が出たのをきっかけに4月10日斎藤利国の仲介で和睦した。なお、石丸利光は5月に再起したが寛広の加勢を受けた利国によって討取られた。 両家の争いは終結したが清須織田家が守護代という序列は変わらなかった。それは守護が清須にいたからだけではなく、『信長公記』にある「上之四郡織田伊勢守諸将手に付進退」が著すように岩倉織田家は領主を束ねる程の力はなかったからでもある。岩倉織田家の系統は寛広の名が1504年(永正元)まで確認できるがそれ以降、1537年(天文6)の広高まで不明で、さらに広高と信安のつながりも不明である。 |
【探索のヒント】岩倉城跡の碑@【MAP】があるところが本丸です。ただこの前の県道166号線は交通量も多く路上駐車しづらいのでコインパーキングを利用することをお勧めします。駅前にもありますが、「下本町下市場交差点」を北へ向かい「神明生田神社」そばの駐車場は一時間100円なので便利です。
岩倉城は西の岩倉街道A【MAP】と東の幼川B【MAP】に挟まれた平城でした。幼川は舗装路になっていますがその下は今でも水は流れています。城の遺構の多くが県道より南側ですが住宅地となり確認できないものが多数あります。発掘調査で本丸と二の丸C【MAP】の周囲、岩倉街道の西側に堀があったことが確認されています。二の丸の堀D【MAP】は個人農園になっていますが水路に名残があります。二の丸には家が建ち並んでいますが西側に雑草の生い茂っている所があります。ここは馬場や的場のあった調練場E【MAP】です。また二の丸を南北に通るおしろ路F【MAP】も残っています。五条川の西側までが城域と考えられていましたが、先の発掘で東側にも堀を備えた曲輪G【MAP】があったと推定されています。城の北側が搦手H【MAP】で現在は途中で分断されていますが「神明生田神社」の南側の道まで街道がありました。 |
【駐車場】コインパーキング
【電車】名鉄犬山線「岩倉駅」 |
@A |
【寄り道】織田信安夫妻の墓(誓願寺)―岩倉市下本町下寺廻【MAP】
伊勢守家で最後に確認されている広高と信安との関係は不明である。城主だったのは確かで『名古屋合戦記』で遠州遠征軍を組織した斯波義達だったが岩倉織田信安は義達と不和となり不参加したとある。 1491年(延徳3)の将軍義材による六角征伐軍の尾張勢の中、1493年(明応2)の斯波義寛の伴衆に名前の見える織田備後守敏信が信安の父とするのが一般的だがその確証はない。この敏信は清須織田大和守敏定の子供とか兄弟と言われ岩倉織田家を継いだという。また信秀の祖父良信と同一人物という説もあるがこれも確証はない。船田合戦で死亡したと言われる。 信安の正室が信長の叔母にあたることから比較的良好だった信長と信安の関係がおかしくなったのは犬山城織田信清と信安が所領のことで揉めた事とされるが、具体的なことは不明である。また嫡男信賢を廃嫡しようとしたいきさつやいつ追放されたのかも不明である。ただ1557年(永禄元)の浮野での戦いは信賢対信長なのでこれ以前に追放されているのは確からしい。計略により信安は家老の稲田大炊助貞祐が信長に内通していると思い切腹を命じた。大炊助の父修理亮小次郎はこの処置を不満に思い信賢の信安追放に一役買った。 追放された信安・信家は美濃・斎藤氏を頼る。斎藤氏が滅んだ後、京にいた二人は信長から美濃へ呼び戻された。その後、信安は安土總見寺住職となる。1591年死去。かつての家臣の子山内一豊を頼り、掛川城へ行ったという説もある。信家は信忠の家臣となる。前田利家の烏帽子親になったともいわれる。武田攻めの折、高遠城で戦死する。 |
【探索のヒント】県道166号線「下本町下市場交差点」を南へ入り、最初の辻を右折すると誓願寺@です。駐車場はここを左折、次の四つ辻を右折したら右側にあります。
信安の子孫津田信十郎氏が江戸初期に建立した墓碑Aが本堂の前にあります。信秀の母の菩提寺含松寺に信安の法号「大渓玉甫」の墓碑が見つかり、信安の室秋悦院ゆかりの誓願寺に移されました。 |
【駐車場】専用駐車場
【電車】名鉄犬山線「岩倉駅」 |
@A
B |
A生駒屋敷(小折城―江南市小折町八反畑【MAP】
半士半商の生駒家にはその富と義侠心にひかれた商人や牢人、土豪が出入りしていたという。生駒家広が頼った前野氏はもちろんその義兄弟と言われる蜂須賀小六、諸国を放浪していた藤吉郎がここに入り浸っていた。また人だけでなく情報交換の場でもあり、生駒家の娘吉乃を目当てに足しげくここへ通っていた若き日の信長はこうした無頼の者と接する中で情報を蓄え、人脈を広げていった。 |
【探索のヒント】小折城には5つの曲輪@とそれを囲む総構えがありました。中心となるのは江南市立布袋東保育園A一帯です。ここには生駒屋敷の碑Bがあります。これ以外、城を示すものは残っていません。
生駒家絵図の構造は織田信雄が大改修したのちの姿であって信長時代は保育園一帯を堀で囲んで周囲から隔絶させ、その中に領主の屋敷を置いていた程度と考えられています。 改修後は保育園を本丸とし、その南は防衛に特化した曲輪、東は岩倉街道への馬出しのある曲輪、北西は常観寺辺りに大手門のあった最大の曲輪、西は池のある庭園の曲輪でした。そして各曲輪の間には堀がありました。一国一城令が出たので小折城から生駒家屋敷と名を変えたそうです。 民家が建ち並び、道もせまく駐車するのは難儀です。ただ見どころはいくつもあるので久昌寺に駐車して散策する事をお勧めします。 |
【駐車場】なし
【電車】名鉄犬山線「布袋駅」 |
【寄り道】廣間家の門―江南市布袋町中【MAP】
廃藩置県の際、生駒家の典医であった廣間家は生駒屋敷の中門を貰い受けここへ移築した。江南市指定文化財。 |
【探索のヒント】名鉄布袋駅から県道174号布袋停車場線を西へ行き、最初の横断歩道のある交差点を左折します。この道、細いですが県道172号西之島江南線です。70メートル行った左に門があります。この前に駐車できますが、写真を撮るなら邪魔になるので県道174号で路駐した方がいいと思います。 |
【駐車場】なし
【電車】名鉄犬山線「布袋駅」 |
@A
BC |
【寄り道】久昌寺―江南市田代町郷中【MAP】
生駒氏はその苗字が示すように奈良県生駒市が本貫で藤原北家藤原房前を祖とする。良房(忠仁)の時より生駒に住む。応仁文明の頃、戦乱を避けて当主家広は尾張の前野家を頼って生駒を後にした。承久の変で敗れた前野家の祖先宗安が生駒家に庇護され無事尾張へ戻れた旧縁が両家にはあった。 郡(小折)村に移り住んだ家広は灰・油の販売、馬借で富をなした。また武家としての側面もあり延徳3年の六角討伐に斯波義寛に従って出陣している。この遠征軍で可児の土豪土田氏と関わりができ秀久に娘を嫁がせる。この間にできた子が泰久、政久と織田信秀の正室と言われる土田御前である。 1556年(弘治2)斎藤義竜の明智長山城攻めで城方だった泰久が戦死したため、政久は母の実家生駒家を頼り家広の子豊政の養子となり親重と名乗った。その子親正は信長・秀吉のもと武功を立て讃岐丸亀城主となり、親正の子一正も信長・秀吉に仕えた。関ヶ原合戦では父子は東西に分かれ家名の存続を図り、東軍に属した一正は讃岐藩主の座を得、親正は子の働きに免じて許された。 豊政の実子家宗は犬山城織田信清に従っていたが信長の将来性に賭け息子家長と共にその配下となる。家長は信長の馬廻り衆として美濃攻め、姉川合戦、朝倉攻め、長島攻めに参加する一方、信長を経済面でサポートした。妹吉乃の娘五徳の徳川家嫁入りでは三河へ同行した。信長の死後、家長は信雄・秀吉に仕える。終生尾張から離れることなく、家康の子忠吉が尾張藩主となると家康から乞われてその家臣となった。 久昌寺は1384年禅喜寺として創建。生駒氏がここへ移って来た時に菩提寺とし、吉乃を開基、万松寺六世雄山源英和尚を開山として再興した。小折城が改修された際、総構えの中に取り込まれた。 |
【探索のヒント】この付近の道は狭く路駐はできないので、お寺@に東側に隣接した駐車場を利用すればよいと思います。本堂を左へ行くと生駒家、歴代住職の墓地Aがあります。ロープが張ってあり順路があります。その一番奥4つ並んだ墓碑Bが右から吉乃(久庵桂昌大禅定尼)C、家広・豊政、家宗夫妻、家長夫妻、利豊夫妻のものです。余談ですが吉乃の墓を見たとき涙が出てきてしまいました。 |
【駐車場】専用駐車場
【電車】名鉄犬山線「布袋駅」 |
@A
B |
【寄り道】龍神社―江南市小折町八竜【MAP】
生駒氏の氏神。創立は不明だが1622年見星院(徳姫)と生駒利豊により再建されたと棟札にある。もともとこの付近は湿地帯だったので、神社の西にあった小折城の曲輪は池付にせざるを得なかった。水関連で行くと干ばつ用として雨壺を神社前に置いておき、干ばつになると壺の雨水を手桶に汲んで水神社へ持って行き、代わりに幼川(五条川)の水を持ち帰ると龍が暴れ出し雨が降り出すという言伝えがある。 神社の左側に顕彰碑のある盛り土がある。これを埴原塚という。信濃(または甲斐)出身の巡礼だった埴原加賀守(常安→植安)は長光寺(稲沢市)で鷹狩り中の信長と出会ったのが縁で仕えることになった。八条流馬術の名人と言われるが行政官として手腕を発揮した。永禄10年に美濃の地20貫文を与えられる。美濃尾張を譲られた信忠に従い清須城に常駐して尾張統治の役割を担う。本能寺の変後、信雄に仕え5百貫文の土地を加増され清須町奉行となる。信雄が秀吉と対立して失脚すると徳姫の従者となり小折に暮らす。1598年死去。 |
【探索のヒント】久昌寺の北西にありこの辺りではやや道幅が広いので神社前@に路駐できます。埴原塚Aは説明の看板だけで顕彰碑は全く違うものなので教育委員会で確認しました。
神社前に社務所があり、その前に力石Bなるものがあります。 「祭礼の時、生駒家臣にこの石を担がせ力試しをして五穀豊穣を願った。またこの地の門左衛門氏が音頭をとったので、門左衛門石ともいう」と書いてありました。 |
【駐車場】なし 路駐可能
【電車】名鉄犬山線「布袋駅」 |
@
AB |
【寄り道】吉乃関連
吉乃はお類、於頼ともいい、1537年(天文6)に生駒家宗の長女として生まれた。吉乃は生駒家と縁のある可児・土田家の土田弥平治のもとへ嫁ぐが、1554年(天文23)土田城が鵜沼城の大沢治郎左衛門正秀に攻められ弥平治が戦死。そのため実家へ戻ったいう。また1556年の明智長山城落城の時に戦死したともいう。 そして吉乃と信長は出会いお互い惹かれあうのだが、この頃斎藤家と織田家が和睦して帰蝶の嫁入りが決まった。それを知った吉乃の兄家永は妹のせいで和睦がご破算になってはと吉乃を丹羽郡井上庄の井上屋敷に隠したといわれる。 1556年4月20日長良川で嫡男義竜と戦って道三が戦死すると美濃と尾張は敵対関係となり、ここに帰蝶の役割は終わり記録から消えてしまう。代わりに吉乃が正室のような立場となり、翌1557年から1559年まで毎年子を生んだ。信忠、信雄、徳である。徳を生んだ後、吉乃は体調を崩し臥せってしまった。 1563年小牧山城が完成すると信長は生駒屋敷で療養する吉乃を正室として小牧山城へ迎えようと生駒屋敷を訪れる。吉乃の体調を考え信長は輿を寄こすのでそれに乗って城まで来るよう家長に伝える。翌日、吉乃は出発する。夕刻前、吉乃一行は小牧山御殿に到着。翌日、信長の介助を受け書院へ出て家臣のあいさつを受ける。その後は御殿で療養生活に入る。だが体調は回復ることなく1566年5月13日、29歳で吉乃はこの世を去った。信長は小牧山城の望楼に上り、一人吉乃が荼毘に付された地に手を合わせ幾日も泣き続けたという。信長32歳であった。 |
【探索のヒント】信長と吉乃が逢瀬を重ねた吉乃屋敷は、龍神社社務所@【MAP】辺りと言われます。吉乃が荼毘に付された場所は、田代墓地【MAP】を入った左側です。そこには大きな桜の木があり吉乃桜Aと呼ばれ、小牧城へ向かって観音像Bが建てられています。
龍神社は先に書いたとおり路駐できますが、田代墓地の周辺は道が狭く止めにくいので、ここから230メートルほど北にある公園の比較的道幅の広い所【MAP】に止めました。 |
【駐車場】なし 路駐
【電車】名鉄犬山線「布袋駅」 |
@A
BC D EF |
【寄り道】井上城―岩倉市井上町【MAP】
『尾張古城志』で嘉吉年中(1441−1443)に井上村には古城跡があり、重松主水なる人物がこの地に(統治者として?)住していたと書かれている『張州府志』『尾張志』もこれに倣ったものである。神明神社の北側にある伊藤家に残されている古文書には、1394年から1441年に有馬主殿正が井上荘17ヶ村の領主として城を構えていたとある。その家老が伊藤家の先祖となる伊藤源内だった。当時の尾張守護代織田郷広は独立領主の有馬に帰属を求めたが、有馬はこれを拒絶。帰属に賛成だった源内は有馬に何度も再考を促したため蟄居させられた。1439年の冬のことである。2年後有馬は郷広に攻められ没落。源内が井上村に戻った時には、城はなく村は荒れ果てた状態だった。それを憂えた源内は有馬累代の菩提を弔うため、ここに永住して農業に従事することを決めたということが内容である。だが重松主水も有馬主殿も実態が分からない点、郷広が井上城を攻めた記録がない点、井上荘は山科家の荘園で大円寺が管理していた記録がある点から、上記史料には疑問がもたれている。なお『前野文書』では1270年にはすでに井上城があり、その城主中島左兵衛尉長利が前野御厨を伊勢外宮に寄付したある。 『武功夜話』を世に広めた瀧喜義氏は『江南市史料散歩』の中で、木之下城へ移った織田広近に代わって小口城城代となった中島左兵衛尉が井上城主だったと書いている。その後、土田御前の一族土田弥兵次が城主となり、生駒家宗の娘類(吉乃)を嫁に迎えた。1556年9月、関城長井甲斐守の長山城攻めに城方として参加し戦死してしまう。未亡人となった類は生家へ戻り弥兵次の菩提を弔う事にした。そして生駒家で信長の目にとまり、信忠・信雄・五徳を生むが、そのうち信忠・信雄を井上城で生んだとする。 |
【探索のヒント】井上橋の東側を五条川@に沿って北へ行くと井上城の碑Aがあります。その先の東へ行く細い道は南へ曲がって井上会館Bの横に出ます。途中、道幅が広くなっている所から東が大手道でした。神明神社Cを除くこの道に囲まれた区画が、城屋敷Dといわれる井上城跡です。井上城は周囲を土塁と堀で囲まれていました。神明神社本殿裏には、堀Eと土塁Fの跡が残っています。 |
駐車場】なし 神社前に路駐
【電車】名鉄犬山線「石仏駅」 |
@A |
B浮野古戦場―一宮市千秋町浮野字海道【MAP】
岩倉城は2重の広い堀(10メートルと20メートル)を持ち、東は五条川、西は湿地帯で攻めるには街道の走っている南北方向からだが大手には武家屋敷があり、攻めるには搦手しかない堅牢な作りの城である。信長は力攻めで簡単に落とせる城ではないと悟り、野戦に持ち込もうと計画した。そのためには自軍だけでは心もとないので援軍を頼むこととした。その相手は信秀時代に弾正忠家の領地柏井に放火した犬山城織田信清だった。 信清の父信康は幼少で岩倉城主となった信安の後見人を任された時、大久地3千貫文を手に入れた。信安が成長すると大久地は岩倉織田の領地であるので返還してほしいと申し出るがこれを拒否。信安追放後、信賢も信康の後継信清に返還を求めたが大久地は元から犬山織田家のものとやはり拒否された。 信長はこれを利用して信清を味方につけようと生駒家長を犬山城へ遣わした。「信長は大久地は信清のものと考えているが、信賢がこれを奪い返そうと兵を起こすかもしれない。その前に信賢を叩いておきたいと思うので力を貸してもらえないだろうか」信清はこれに応じた。 5月28日信長は、青木川の西を大きく迂回して湿地を避け、信清とも合流しやすい浮野原の布陣した。まず信長は血気に逸る若侍百騎に城周辺へ放火させた。城方では信長の挑発に乗らなかったが、念のため大手門外に山内盛豊・七郎左の兵3百を配置した。敵が挑発の乗らないとわかると信長は150騎の若侍を城へ差向けた。さすがに城方も籠ってばかりで不満がたまり、150騎を迎撃に向かわせた。これを見て信長は森可成隊5百騎を投入、城方も1千騎を繰り出し本格的な合戦に発展した。一進一退の戦況に信長は弓・鉄砲隊に敵の斜め前方から攻撃をさせた。敵が側面を突かれまいと陣替えしたのを見て森隊がその側面を攻撃、さらに柴田勝家隊が加わると城方は支えきれずに退却を始めた。信長軍はそれを城門まで追撃して270人を討取った。信長は深追いせず浮野原に砦を構え可成・勝家に城を監視させることにし、信長・信清は兵を引き上げた。 7月12日、2度目の城攻めのため浮野原に再び、信長、信清、小口城の中島豊後守3千が集結した。そして刈田や民家への放火を行い城方を挑発した。籠城を余儀なくされている城方としては兵糧不足を恐れこの挑発行為に反応せざるを得なかった。正午、城方も3千の兵を出して戦闘が開始された。この戦いで城方で弓の名手だった林弥七郎と信長の鉄砲の指南役橋本一把の一騎打ちが知られている。二人は旧知で退却する林が橋本を見つけ声をかけた。橋本は戦場で出会った以上見逃すわけにはいかないと鉄砲と弓での決闘を申し出た。「おう」と答えた林は振り向きざまに「藍香」と呼ばれる矢を放つと同時に橋本も二ツ玉を発射した。矢は橋本の脇の下に刺さり、弾は林を貫いた。倒れたのは林の方だった。そこへ駆けつけた信長の小姓佐脇良之(前田利家の弟)が首を打とうとすると、倒れたまま林は太刀を素早く抜き佐脇の左肘を小手ごと切り落とした。これにもひるまず佐脇は林の首を見事挙げている。この戦いで城方は8百から9百(1250とも)を討取られて大打撃を被っている。 明けて1559年初春、三度目の城攻めが行われた。信長2千、信清1千5百を率いて浮野原に現れた。さらに予備隊として中島豊後守・和田新助隊3百、前野又五郎隊140が小折城に待機した。すでに城方の総勢は1千となり勝敗の趨勢は決していた。だが信賢は最後の戦いを試みた。兵を二つに分け一隊を小折城へ向かわせた。だが浮野原を目指した部隊は圧倒的な敵の数に退却を始める。それを追撃する信長・信清軍は城方の反撃を蹴散らし、あっという間に城を取り囲み城下に火を放ち持久戦に持ち込んだ。鹿垣で二重三重に囲まれた城方は逃げ出すこともできず、日々繰り返される銃撃に士気も下がっていった。信賢は何度も降伏を申し入れたが悉く拒絶された。だが岩倉城包囲中に上洛した信長が尾張守護を将軍義輝に認められたのが目途となったのか3月に入りようやく信賢の降伏が許された。城は二度と使えないように破却され、また守護代織田家が尾張から消えた瞬間でもあった。 |
【探索のヒント】県道154号鹿の子縞南小淵線「浮野交差点」を北へ行くと案内看板@があります。同じものが県道154号の東側を平行に走る道にもあり、それに従って細い道に入ります。十字路を北へ行くと右側Aにあります。 |
【駐車場】史跡横に駐車場
【バス】千秋ふれあいバス「加茂」「千秋北保育園」 |
@A |
【寄り道】廣幢寺―稲沢市下津二本杉町【MAP】
1528年正眼第八世宣叟曇周大和尚が正眼寺に隠居寺として岱松院を創建。以降、歴代住職の隠居所となる。1689年廣幢寺に改称。その後、度々五条川の氾濫の被害を受ける正眼寺の小牧移転に伴い廣幢寺も移転。1755年正眼一八世満休格翁和尚が現在の場所へ移す。1774年火災により焼失、のち再建。 |
【探索のヒント】稲沢市教育委員会に廣幢寺@と織田一族と織田信賢・豊子夫人の碑Aの関係について問い合わせました。1774年の火災で全ての史料が焼失したため、この石碑に関しては全く何も分からないという回答をいただきました。 |
【駐車場】専用駐車場
【電車】JR東海道本線「稲沢駅」 |
@A
B |
【寄り道】法蓮寺―一宮市木曽川町黒田勘治西【MAP】
相模国山内庄を本貫とする山内首藤氏(秀郷流藤原氏)の山内滝口三郎経俊の流れを受け継ぐのが黒田城主山内氏とするのが通説だが、一豊につながる家系は丹波国船井郡とする説、同族の深尾氏が美濃国山県郡出身地なので同じく美濃とする説がある。 美濃説は一豊の5代前盛通が永享年中(1429−1441)、美濃国山県郡大桑村を本拠としてからこの一族は美濃に住み、盛通−盛豊(太郎丸城主)−実豊−実通(土岐頼芸に仕える)−実政・盛重(森豊)と続く。 立政寺(信長と義昭が対面した寺)には、山内家の過去記がありそこには盛豊は岩倉城で死んだのではなく、道三と義竜が戦った長良川で戦死したとなっている。この真偽は別として、頼芸追放した道三に従っていた山内氏は、その死で美濃を離れざるを得なくなり、尾張に移り岩倉織田家に仕えるようになったと推測される。 盛豊は嫡男十郎と死亡したが、1557年(弘治3)7月12日盗賊に襲われ(または信長軍の屋衆により)死亡、1558年浮野合戦で戦死、1559年岩倉城落城で自害とこれも諸説ある。 |
【探索のヒント】法蓮寺@は、黒田城跡である黒田小学校を東へ200メールほど行った左側にあります。駐車場は山門前です。盛豊(右)・十郎(左)の墓Aは、本堂裏にあります。墓は江戸中期のものでその後ろにはそれぞれ弘治3年未7月12日但馬守、弘治3年未7月12日但馬守子十郎と刻まれています。
山門の左側に一豊公生誕之地の碑Bがあります。本来誕生地である黒田城に碑が建てられるべきですが、城は小学校となってしまい縁のある法蓮寺が選ばれました。父と兄の遺骸をこの寺に葬った時、一豊は13歳でした。その後流浪の末、信長・秀吉・家康に仕え初代土佐藩主になったことは周知のことですが、それ以降明治になってからもこの寺に土佐から毎年代参と香花料の寄進が行われました。 |
【駐車場】専用駐車場
【電車】東海道本線「木曽川駅」 |
@A
BC |
【寄り道】神明生田神社―岩倉市下本町下市場【MAP】
山内家認定の山内一豊誕生の地。もう一つは木曽川町の法蓮寺。大正8年2月、神社の遷座式で見つかった一枚の棟札を、山内家家史編纂室長沼田頼輔が鑑定した結果、一豊がここで生まれたことが確認された。すなわち、この地に山内盛豊の屋敷があったということである。一豊は1545年(天文14)生まれで15歳の時に父・兄を失い、残された母、弟、妹、家臣の五藤浄基と共に刈安賀城浅井新八郎を頼った。その後、牧村政倫、山岡景高と主を代え、永禄10年信長に仕えた。 |
【探索のヒント】県道166号線「下本町下市場交差点」を北へ入って行きます(北向き一方通行)。右に神社@があり、駐車できますが散策するならすぐ手前のコインパーキングをお勧めします。境内には、誕生の碑Aと大河ドラマ「功名が辻」の記念碑Bがあります。なお、神社の南側にある細い道Cは、途中途切れていますが岩倉城搦手へ繋がる街道でした。 |
【駐車場】専用駐車場またはコインパーキング
【電車】名鉄犬山線「岩倉駅」 |
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