尾張統一戦<清須城奪取>
経過
 
斯波義統清須城@で守護代織田彦五郎(信友)の庇護のもと守護としての地位を保っていたが、その実態は傀儡であった。織田信長は父織田信秀から続く清須織田との抗争を優位にしようと、この状態に不満を抱きだした義統に接近を図った。義統の近習簗田弥次右衛門那古野弥五郎の内応を受け、信長清須城下に攻め込むが城を落とすには至らず、城下に火を放っただけだった。
義統をみすみす信長へ渡すわけにはいかないと考えた彦五郎は、1553年(天文23)7月12日家老の坂井大膳河尻左馬丞(与一)織田三位義統を暗殺させた。この変事は川狩りに出かけて城に居なかった嫡男斯波義銀に伝えられた。義銀は急いで信長に保護してもらおうと那古野城へ向かった。義銀を迎え入れ彦五郎一党を討伐する大義名分を得た信長は、18日柴田勝家を大将に清須城を攻めさせた。これに対し清須方は左馬丞三位が出陣、両軍は山王口Aで激突した。だが織田軍の猛将柴田隊の勢いに清須方は圧倒されて後退し始めた。何とか敵を喰い止めようと清須方は中市場Bで態勢を整え、柴田隊迎え撃った。しかし勢いに乗る柴田隊はこれを撃破。清須勢を追って町口大堀Cの中まで攻め込んだ。しかし深追いはせず那古野城へ引き挙げて行った。この戦いで左馬丞三位雑賀修理原(源左衛門?)の重臣他30騎が討取られ、清須方にとっては大打撃となった。
この事態に彦五郎信長の叔父守山城織田信光を味方につけようとした。信光は二つ返事でこれに応じて、1555年(弘治元)4月19日清須城南櫓へ家臣共々移って来た。20日信光の許へ彦五郎と大膳があいさつに訪れた。この時、信長が千五百の兵を引き連れ、清須城下になだれ込んできた。この直前、不穏なものを感じた大膳はこの場から逃げ去っていた。残された彦五郎信光は一言言った。「御自害めされ」
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