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@清須城―清須市清須【MAP】
織田大和守家の本拠。織田敏定を祖とする。敏定を岩倉織田の敏広の弟とする見解は多いが確実な史料は今のところない。大和守の初見は1443年の尾張妙興寺の禁制発給者で新井喜久夫氏はこの人物を敏定の祖父とし、父を久長(織田五郎・『妙興寺文書』の兵庫助、大和守)とする。祖父、父とも守護又代で、守護代は岩倉織田の伊勢守家だった。ところで伊勢守も大和守も在京守護代常松、在国又代常竹兄弟の子孫である。そこで意見が分かれるのが、大和守の祖が常松か常竹かということである。新井氏は「織田雍州藤原敏定寿像賛」の記述から明らかに常松の子孫とされた。すると本来守護代家の大和守が又代家の伊勢守の下である現状に不満を抱き、やがて両家の対立に発展するという図式が分かってくる。
1478年8月織田敏定は応仁の乱で敗れ旧領尾張へ戻っていた斯波義廉の追討を幕府より命ぜられ、9月出陣して清須城に入った。最初は敏定が優勢だったが、敏広の義父斎藤妙椿が参戦すると敏定は籠城戦を強いられ、その時片目を失った。両軍決定打を欠き、翌1479年正月に妙椿と敏定の間で和議が成立した。それは尾張八郡(知多郡・愛知郡・春日井郡・丹羽郡・海東郡・海西郡・中島郡・葉栗郡)中、二郡を大和守家のものと認めるというものだった。これにより尾張は清須織田と岩倉織田による分割支配が開始された。ところで清須織田の二郡と言うのが未だ解明されていない。当時、一色氏は知多郡と海東郡を、残る六郡は斯波氏の所領だった。二郡を斯波氏の六郡中とする説がある一方、応仁の乱で西軍についたため没収された一色氏の海東郡と他一郡(中島郡説、春日井郡説または山田郡説―のち春日井郡と愛知郡に分割)とするものがある。
両家は1481年再び戦いを始めた。この時岩倉方が敏広も妙椿も死去していたのに対し、清須方は敏定が健在だった。戦力が大幅に低下した岩倉方は3月に敗北、守護代は清須方へ移った。10月敏定の従う守護斯波義寛(義良)に岩倉方の千代夜叉丸(のち寛広)・広近が贈物をして恭順の意を示した。なお、この時義寛は越前の覇権を朝倉氏と争っており、朝倉氏は義廉を御旗にするため尾張から越前へ招いた。1483年3月19日この戦いに敗れた義寛は敏定に迎えられ清須にやって来た。ここに清須が守護所となる。
【探索のヒント】清須古城の碑@がある清須公園Aは清須城の本丸跡です。『尾州清洲之城図』(臼杵図書館)と『清須村古城絵図』(蓬左文庫)を見ると堀や曲輪の配置に違いが見られますが、本丸の北に天守台B があるのは共通しています。現在ここには右大臣織田信長公の顕彰碑C信長を祀る祠Dがあります。
これらの遺跡は後期清須城のもので、織田信雄が伊勢長島から移って来た1586年(天正14)から「清州越し」が完了する1613年(慶長18)を指します。信雄の時に惣構えの城に大改修されました。「清州ふるさとのやかた」前にある石垣E はこの大改修後のものです。
【駐車場】清須城専用駐車場
【電車】名鉄名古屋本線「新清洲駅」
【バス】きよすあしがるバス「清須市民センター」 
 
【寄り道】清須守護所―清須市清須【MAP】
清須城の築城は『海邦名勝志』では「斯波義重が永和元年」、『張州府志』は「義重が応永年中」、『国府宮社記』は「斯波義健(廉)が文明9年に国衙府を清須へ移した時」と諸説ある。新井喜久夫氏は招月庵正徹の『慰草』から応永25年頃には敵兵や盗賊を防ぐための櫓・鹿垣・弓場の施設があったのは確かだろうが守護所になりうる城などではなく砦程度と考えておられる。
義良のもと清須・岩倉両家は表面上対立していなかったが、『蔭涼軒目録』によると将軍義尚の六角討伐に従軍した翌1488年秋に戦闘があり、清須方の織田次郎右衛門が討死し、相手の織田与九郎(広近の二男?)も死亡している。そして1495年の美濃で起こった船田合戦に両家はそれぞれ縁のある方へ加勢したため、再び激しい戦いとなった。この戦いの最中、敏定が病死、その子寛定(近江守)が戦死している。翌年まで続いた戦いは清須方が推す石丸利光の敗北で終わったが、岩倉方にも大きな損害が出たので尾張での清須方優位の状況は変わらなかった。なお寛定のあとを継いだ弟の寛村(常巨)より敏定流織田家は正式に大和守を踏襲するようになる。そして寛村は1496年愛知郡の公文名を実成寺に安堵、翌年熱田座主に笠寺別当を安堵するなど愛知郡への進出も果たしている(鳥居和之氏)。
1495年9月大和守家を跡を継いだ寛村だが、1503年には達定(五郎?)に代わっている。達定は1510年に斯波義達に従って、斯波氏の分国遠江を侵略する今川氏親と戦った。だが1513年の4月か5月頃、行き違いから達定は義達と合戦にとなり討死してしまった。義達はその後、今川に敗れ尾張に戻り、清須城を守護所とし大和守と同居することになる。
達定の後が達勝である。達勝の判物を補完する三奉行の連署書状が残っている。つまりこの頃には守護代家の領地内では三奉行、または織田庶家と領主との繋がりが強くなり、それを家臣化して独自の動きを見せるようになっていた。その結果、三奉行の藤左衛門と弾正忠信秀が達勝と合戦に及んでいる。
達勝の後には大和守勝秀の名がある(『尾張国寺社領文書』の『法華寺文書』の写し)が、一般的には彦五郎となっている。『清須合戦記』には彦五郎信友とある。『寛政重修諸家譜所載系図』では彦五郎は因幡守の子で常祐(これを誰とするか諸説あり)の養子になっている。
簗田弥次右衛門と那古野弥五郎が信長に内通しただけでなく、義統自身も彦五郎から離反しようとしたため、彦五郎は大膳・河尻左馬丞・織田三位に義統・義銀父子暗殺を命じた。襲撃の日、運よく義銀は側近と川狩りに出かけていた。大膳らに襲撃された義統の館では、森刑部丞兄弟・柘植宗花・同朋衆何阿弥が奮戦するも討取られてしまった。逃げ遅れた上臈たちは川へ飛び込んで溺死する者、逃げ果せた者様々であった。また義統の別の子供も城内に取り残されたが信長の家臣毛利十郎敦元が救い出し、その後敦元の養子となり毛利長秀となった。義銀はこの知らせを受け信長に助けを求めた。信長の援助で清須に戻った義銀だったがその後今川義元に通じて追放された。
【探索のヒント】守護所時代から1586年までを前期清須城といいます。遺構は全く残っていないので想定復元図から全くの想像で、現清須城の南側、JRで分断された区画のようです。信光が入った南矢倉はこの区画に間違いないと鈴木正貴様から回答をいただきました。ただ南に対する北矢倉が、この区画に併存していたのか、その場合堀で区切られていたのか、それとも五条川を挟んで対岸のどこかにあったのか、全くの不明です。
【駐車場】清須城専用駐車場
【電車】名鉄名古屋本線「新清洲駅」
【バス】きよすあしがるバス「清須市民センター」 
 
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【寄り道】織田劔神社―福井県丹生郡越前町織田【MAP】
織田氏は斯波氏の有力被官甲斐将教に代わり尾張守護代に就いた。ただ鎌原亘氏は史料から斯波氏の被官の中では新参であったとする。
織田氏の出自に関しては忌部氏説・平氏説・藤原氏説がある。忌部氏説は越前国二の宮劔神社の神官であったことを根拠とする。平氏説は信長が源平交替思想から平氏を自称したのを根拠とするが、これを裏付ける史料はない。現時点では藤原氏説が有力である。守護代の発給文書に藤原とあり、信長も藤原信長と書き残している。つまり真偽のほどは別として、織田氏は藤原氏をルーツと認識している。織田氏が祖とする藤原氏に関しては、1393年に藤原信昌・将広父子が残した劔神社を保護する内容(劔神社の修理再興と課役賦課免除)の文書が有名である。これにより藤原氏が織田庄に影響力を持っっていたのは確かである。
応永年中(1394〜1427)に常昌(常松?藤原将広?)が尾張へ移り織田氏を称する。尾張入府後も劔神社とは繋がりがあったことが天野信景の『塩尻』から読み取れる(新井喜久夫氏)。それは享徳年中(1452〜1454)に下津に近い真言宗の万徳寺の住職長慶上人が、劔神宮寺(織田寺)の不動明王開眼供養に織田氏によって派遣されたという話である。織田庄は1453年京都妙法院門跡領となっており、織田寺は比叡山末寺となっていた。織田家の仲立ちがあってこその出来事である。この後、36坊19院社家25を有するようになった劔神社と織田家との関係は、1573年の朝倉義景滅亡、2年後の一向一揆滅亡後、信長が越前の支配者になるまで不明である。
【探索のヒント】鯖江市内の「神明駅交差点」から国道417号線、越前市「蓬莱交差点」から国道365号線をひたすら西へ向かいます。駐車場は劔神社@ と道を挟んで北にある織田文化歴史館のものを利用します。本殿の東にある小松建勲神社Aは平重盛と信長を祀っています。
【駐車場】歴史文化館駐車場
【バス】福鉄バス武生越前海岸線「織田」 
 
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【寄り道】下津城―西春日井郡清須町【MAP】
記録に見られる初見の尾張守護代は織田教広(伊勢入道 常松)で在京していた。その指示を受けるのが在国守護又代織田左京亮(左京入道 常竹)である。二人の関係を兄弟とする説はあるが確証はない。1428年閏3月23日から織田勘解由左衛門(教長 朝長)が守護又代、翌年の4月29日には守護代として記録に現れている。次の守護代淳広は教広の子とする説が主流だが、教長の変名とする意見もある。なお在京の教長・淳広の命令を在地で受けた歴代の段銭奉行は織田民部入道、同因幡入道、同彦九郎、同若狭守であるが守護又代かどうかは不明である。
淳広の後、弟の郷広(義郷の偏諱)が守護代となるがその間に元阿と右長が段銭奉行に書状を出している。残念ながら両者の地位は不明である。郷広が家臣の万里小路領横領を責められ逐電の後は弟の久広、郷広の子敏広がその職を継いだ。敏広の時、織田豊後守、同三河守広成、同大和守(久長?)が守護又代の可能性がある。
下津に守護代が常駐するのは敏広からである。それは1466年斯波家中の跡目争いに敗れて周防へ逃れていた義敏が上洛、それに呼応する尾張の義敏旧臣が蜂起するのに備えたためである。この時遠州出兵中だった敏広は急いで下津城に入り、弟らを京へ向かわせた。この後応仁の乱が起こり、それに敗れた斯波義廉が敏広を頼り尾張へ来ると、大和守敏定が下津城に火をかけている。敏定は父久長の跡を継ぎ守護又代であったと言われる。下津城が灰燼に帰したため、新たな守護代の拠点は清須へ移った。
【探索のヒント】中世より下津は交通の要衝で鎌倉街道の下津宿や青木川の港、多くの神社、市がありました。鎌倉街道は下津小学校の校庭@のど真ん中を南北に走っていたと推定されています。その西側に下津城がありました。小学校の校庭から県道155号井之口江南線を挟んで西にある下津城の碑A【MAP】辺りが本丸でした。その周囲に堀を巡らせ、南に逆L字の二の丸、その西に三の丸があったと推定されています。下津城を焼かれた敏広はかつて尾張国府があったとされる尾張大國霊神社B【MAP】守護所を移したと言われます。また1388年に足利義満が富士遊覧の途中に泊まった頓乗寺C【MAP】 を守護所とするものもあります。
下津城周辺は宅地開発が進んで目に見える遺構は
土塁D【MAP】ぐらいですが、発掘により建物跡、陶器などが見つかっています。
●下津城:【駐車場】なし 路上駐車
【電車】東海道本線「稲沢駅」
●尾張大國霊神社:【駐車場】専用駐車場
【電車】東海道本線「稲沢駅」 名鉄名古屋本線「国府宮駅」
●頓乗寺:【駐車場】専用駐車場 【電車】東海道本線「稲沢駅」
 
@A
A日吉山王神社―清須市清州【MAP
清須山王宮日吉
神社へ向かう道が山王口である。771年、疫病の大流行に村民が素盞鳴命と大己貴命を氏神として病災退散を願ったのが起源である。天台宗による神仏習合思想が広まりを受け山王宮と称する。清須に国府が移されると清須総氏神となる。現在祀られている大山咋神は1580年に清須城代織田信張が近江坂本の日吉大社より勧請したものである。ちなみに山王神社神前で『信長公記』にある火起請が行われた。
【探索のヒント】神社@の東側に車30台を止める駐車場があります。山王は山の神でその使いが申なので境内には24体の猿の神像Aがあります。秀吉の幼名が日吉なのは、母親がここを参って授かった子だからという事です。
【駐車場】専用駐車場 【電車】名鉄名古屋本線「丸ノ内駅」
【バス】きよすあしがるバス「本町保育園」
 
B中市場―【MAP
『信長公記』の記述だと山王口で敗れた清須勢は、迎撃しようとするがあっという間に柴田軍に追い立てられ、城下へ逃げ込んだ様子である。この状況を考えると「乞食村」が名古屋市北部の「安食村」、「誓願寺」が名古屋市北区の「成願寺」とする説は成り立たないと思われる。このことについて「愛知県埋蔵文化財センター」にお伺いしたところ、鈴木正貴様からご回答をいただいた。
結論はこの部分の解釈は現時点では不明である。だが現清須城の南にあった武家屋敷群から山王神社の間に寺があった可能性は否定できない。武家屋敷群の南端で「正眼寺」と彫られた硯が見つかっているという事実はある。ただし「誓願寺」と解釈するには無理がある。2011年、美濃路「長者橋東交差点」から県道127号助七西田中線の間の発掘調査で、信長時代に遡れる鍛冶屋町の遺構が見つかったことを考えると、職能は不明だが「乞食村」と呼ばれていた地域があったのかもしれない、というものである。だが少なくとも「安食村」「成願寺」という解釈に疑問を持ってもいいとは思う。
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】名鉄名古屋本線「丸の内駅」「新清須駅」
【バス】きよすあしがるバス「本町保育園」
 
C町口大堀―清須市清州【MAP
町口大堀は武家屋敷群の南で後期清須城の中堀にあたると考えられている。
【探索のヒント】清須市立清須東小学校の南側の農地が堀跡です。車は小学校の駐車場に一時的に止めました。
【駐車場】清須東小学校駐車場
【電車】名鉄名古屋本線「新清須駅」
【バス】きよすあしがるバス「アルコ清須」
 
@A
B
【寄り道】清須城土居跡―清須市鍋片2丁目【MAP
1586年(天正13)11月29日に起こった天正地震により東海地方は壊滅的被害を蒙った。清須城は液状化現象により信長時代の城下に被害が出た。信雄はこれを機に
清須城とその城下の再構築に乗り出した。城の中枢は五条川右岸へ移し、左岸は従来の城下を拡張。それを土塁で囲む惣構えとした。
【探索のヒント】清須城の南の虎口です。鍋片公民館の北に碑@が建っています。惣構は土塀でできていました。東の天王公園との間にある農地が堀跡Aになります。堀は東のJRの手前まであり、ここで北へ向かっていました。土塀のそばには松が生えていて、「御土居松」と呼ばれていました。その松の下に松蔭神社Bが鎮座していました。公民館の前を通り北へ行く道が当時の美濃街道になります。
【駐車場】なし 【電車】名鉄名古屋本線「丸ノ内駅」
【バス】きよすあしがるバス「キシ清須店」
 
@A
BC
【寄り道】御園神明社―清須市一場【MAP
菅原道真を祀る。別名巴波神社。清須城の絵図は『尾州清洲之城図』と『清須村古城絵図』の2種類あり、神社に接して南に中堀があるのは同じだが、その南にある曲輪に違いがある。前者は独立した正方形の曲輪を描き、その西に植木屋敷という曲輪があり、細い道(橋)で繋がっている。後者は逆「E」字の曲輪で北西角から本丸の南まで逆「コ」の字型に繋がっている。
【探索のヒント】現清須城の北500メートル@にあります。神社Aの前の水路が中堀になります。『清須村古城絵図』では東西の堀Bは元は幅16メートルあり五条川に繋がっていません。南へ向かう堀Cは幅40メートルあり、本丸の西側までありました。地名の一場は御園市場からきています。
【駐車場】神社前に駐車可 【電車】JR東海道本線「清須駅」
【バス】きよすあしがるバス「一場」
 
@A
【寄り道】総見院―清須市大島1丁目【MAP
臨済宗妙心寺派の寺院。伊勢国大島村(三重県川越町)の廃寺寸前だった安国寺を、信雄が信長を弔うため妙心寺の忠嶽和尚を開山に迎え総見寺としてここに再建した。清州越で大須へ移る。1644年第3代永閩山和尚が高齢を理由に京都での隠居を尾張藩主徳川義直に願い出るが許されず、代わりに隠居所と織田家菩提寺としてこの寺を与えられた。
【探索のヒント】信長ファンとしては外せないポイントです。山門@を入って左に信長の墓Aがあります。撮影できないものとして、大須の総見寺にある信長画像をもとに小田切忠近が描いた信長像、本能寺の変時に着用していたという信長公焼け兜があります。
【駐車場】専用駐車場 【電車】JR東海道本線「清須駅」
 
@A
【寄り道】放生山宝幢院址―清須市土田北浦【MAP
神仏分離令により廃寺となった西隣りの土田八幡社の別当寺があった。今は田んぼや宅地になっているが、南には高さ6尺の土居と朱塗門、境内には瓦葺寄棟造本堂と庫裡、うっそうとした竹林があった。その墓地跡には歴代住職の供養塔が並んでいる。
【探索のヒント】名鉄「新清洲駅」から西の線路沿いの道を道なりに進みます。道は途中で線路から離れて西へ行きます。ここから約270メートル行くと右に八幡社があり、その手前供養塔が並んで@います。この中の一つが信長の大伯父(祖父信定の兄)大雲永瑞和尚の供養塔Aです。大雲和尚は万松寺(当時は那古野城の南にあった)の開山となり、信秀の葬儀では導師となった。1562年4月22日、81歳で死去しました。
【駐車場】路駐 【電車】名鉄名古屋本線「新清須駅」
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