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@石部城―湖南市石部中央2丁目5【MAP】
「甲賀城」と記す史料もある。甲賀五十三家三雲氏の支城で、石部三郷(石部・東寺・西寺)の領主青木氏の城で、近江と伊勢を結ぶ中世東海道を見下ろす、阿星山から派生した丘陵の先端に築かれた。甲賀へ抜ける野洲川沿いは、隘路であるため、大軍で攻め込み難い。そのため石部城のような防御力の弱い城でも、敵を足止めしてゲリラ戦で相手を疲弊させ撃退する事ができた。また甲賀への退路も確保しており、六角高頼と義賢が、本城観音寺城を捨てここへ立て籠もったのは、当然の選択であった。
信長相手に仕掛けた戦がことごとく失敗し、義昭が京を追われ、浅井氏が滅び、南近江の国人衆も離反した今、義賢に残されたのは、佐々木氏棟梁の名にふさわしい戦いをすることであった。信長の命を受けた佐久間信盛は、石部城を囲み
だが義賢が伊賀音羽郷から戻って来た頃、 望月氏の手引きで、甲賀から伊賀音羽郷へ逃げていた義賢は、信長が越前遠征に失敗すると、復帰を図ってここを拠点に活動を開始した。だが南近江はほぼ信長の勢力下に入り、戦いの度に却って義賢は、力をそがれて行った。
落日の六角氏を
これにならって、信長との直接対決を避けた六角義賢は、石部城へ一旦逃げ込んだ。だがこの時、信長の目的は円滑な上洛であったため、義賢らは捨て置かれた。この後、義賢は望月氏の援助で、甲賀から伊賀国音羽郷へ逃れた。
そして再起を図る義賢は、石部城へ戻り、ゲリラ戦を仕掛け、信長を疲弊させようとした。しかし南近江の国人たちは、すでに六角氏を見限り、信長に接近または、配下となっていたため、義賢の思惑通りには事は進まなかった。
この時の石部城主は、青木四家のひとつ石部家(他は岩崎家・上田家・南家)の右馬允家清。
青木四家の内、石部家(残りは岩崎家・上田家・南家)の居城であった。信長時代は、石部右馬允平家清が城主であった。
六角氏が退去した後の石部郷は、佐久間信盛に与えられ、石部城には、寺西治兵衛秀則(尾張荒子出身。のち前田利家に仕える。子孫は加賀友禅染元「紺屋」の祖となる)が入った。
甲賀五十三家、二十一家、六家に数えられる六角氏累代の重臣三雲氏の支城。足利将軍による六角征伐の時、六角高頼は本城である観音寺城を捨て、この城に一時身を寄せて、三雲氏の許へ逃れている。同じように上洛する織田軍と対決する不利を悟った義賢・義弼父子は本城を出、この城を経て三雲氏を頼り甲賀、さらに伊賀へ逃れた。そして再び父子が現れたのが、石部城で元亀元年5月20日であった。

【探索のヒント】善隆寺@が城跡です。県道113号石部草津線の「石部中央交差点」から南西へ行った「石部小西口交差点」を左折します。坂を登った左に駐車場があります。

【駐車場】善龍寺専用駐車場
【電車】JR草津線「石部駅」
【バス】湖南市コミュニティバス医療センタールート「上り町」
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