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@守山城―守山市守山1丁目9【MAP】
守山城には南近江の経済と交通の重要拠点である守山警固のため、稲葉良通父子、斎藤利三らが詰めていた。守山奪回と信長の退路遮断を目論む六角氏に扇動された一揆は、綣村に火を放ち東山道を北上して来た。この異変はすぐに守山城へ知らされ、稲葉良通は町の全ての入口に兵を配備して備えた。一揆勢は守山城のある町の南に火を放ち、城への攻撃を開始した。
だが稲葉隊の装備と個々の兵の質は、一揆勢が知る近江の在地領主とは違っていた。数を頼みに遮二無二攻める一揆に対し、稲葉隊は弓・鉄砲で応戦。敵が怯むと長槍隊が討って出て、これを突き崩して行った。結局、一揆勢は200余りの戦死死者を出して壊滅した。(『稲葉家譜』)。
守山城の築城は、1401年に宇野一元によると言われる。清和源氏の流れをくむ宇野源太郎守治が、承久の乱(1221年)の武功により鎌倉幕府から栗太郡関津を与えられたのが、南近江宇野氏の始まりである。六角氏が守護であった戦国期は、青地氏に属していた。信長の上洛戦時の城主は、種村道成であった。種村氏は近江佐々木氏の流れをくむ。種村氏は六角氏の後見職を務める。道成の父高安(または源六秀直)が種村(左衛門尉)を名乗る。高安の父(または祖父)は高成。高成は六角政頼(久頼)の子。高成は種村伊豆守と称する。高成は船岡山の戦い(1511年)の功績により、佐々木高頼から与えられた甲賀和田山へ移る。高成には定秀と高安の子がおり、和田山に残ったのは定秀。高安が種村伊豆守を継ぐ。高安は貞和(三河守・大蔵丞)と同一人物。高安の子は、道成で躬誠(大蔵大輔)、貞誠(大蔵丞)と同一人物。後藤但馬守と壱岐守が謀殺された観音寺騒動に加担した道成は、処刑されたか逐電して蒲生家に仕えた。種村氏の子孫は、大橋を名乗るようになる。以上のように種村氏に関しては、諸説あるので確定的なことは不明である。
六角父子が逃亡し、六角方の領主達が織田方に降る中、1千の兵で籠城する守山城を、木下秀吉、池田恒興の兵5千が包囲した。秀吉らは開城勧告のため、堀尾吉晴を使者に立てた。吉晴の口上を聞くと、城主道成と家老上坂主馬助は、明日秀吉の陣へ赴き降参を申し出ると伝えた。その夜、秀吉の陣からは宴を催す大声が聞こえた。道成と上坂は秀吉らが油断していると、3百騎を率いて夜襲を仕掛けた。ところが陣中はもぬけの殻であった。道成が退却を命じた時には、すでに秀吉・恒興の3千に包囲されていた。夜襲部隊に対し、包囲軍の鉄砲が1一斉に火を噴き、続いて抜刀した兵が突撃して来た。味方が次々討取られていく中、馬上の道成は退却を図った。その時、「卑怯者!」と叫ぶ声が聞こえた。その主は槍を片手にした恒興だった。道成はこれに応じて、恒興目指して馬を走らせた。恒興は槍を捨て、馬の前足を太刀で払った。バランスを崩した馬から落馬した道成に恒興が組みつき、その首を掻き切った。この戦いの最中、蜂須賀小六の部隊8百が、城に突入してさんざんに暴れ回っていた。城の内外で織田軍の勝鬨が上がり、守山城は落城した。
【探索のヒント】大光寺@守善寺本堂Cから金森川DEまでが城跡とされます。しかし絵図を見ると大光寺の西に隣接しているので、守善寺Bから守山市立守山小学校F守山幼稚園G辺りが城跡になります。それはさておき、守山城は内堀と外堀を備える輪郭式の平城でした。外堀の四隅に櫓を構え、主郭の北東と南西にL字と逆L字の内堀がありました。しかし江戸時代と明治時代に何度も起こった洪水のため、本来の城域の3分の1程度まで削り取られ、昭和30年代には残っていた土塁や掘割も開発で消失したので、現況では往時の城跡と断定できるものはありません。ただ大光寺を西側から見ると周囲より高くなっているAのが、城の名残とも言えそうです。
【駐車場】市営交流駐車場
【電車】JR東海道本線「守山駅」
【バス】近江鉄道バス杉江循環線「守山銀座」「栄町(守山)」
@A
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【寄り道】綣村―栗東市綣【MAP】
綣には弥生時代後期に農耕を営む人が住んでいた遺構が残っていることから、後に村へと変貌したと考えられている。この個性的な名前が、どのように付けられたのかは不明であるが、織物用に紡いだ糸を球状にしたものを「綣」といい、この地域が糸作りが盛んだったことと関連があるとも言われる。
「綣村」の 史料での初見は、寛喜元年(1229)の青蓮院文書「十楽院門跡領目録」であるが、万葉集巻一の十九、井戸王(いのへのおおきみ)の和歌と言われる「へそがたの はやしのさきの さのはりの きぬにつくなす めにつくわがせ」の「へそがた(綜麻形)」が、「綣村」を指すという説では、667年までにこの名であった事になる。また大宝神社の由緒には、大宝元年(701)蔓延した疫病を鎮める為、小平井村信濃堂に素盞鳴尊と稲田姫命が降臨し、同年4月8日に綣村の地主神追来神社(意布伎神社)鎮座したとある。ついでに、「へそむらの まだ麦青し 春のくれ」という俳句もある。芭蕉のものと言われるが、疑問視されている。
素盞鳴尊と稲田姫命が鎮座した追来神社は、同年の5月1日正一位大宝天王宮と名を変え、近郷50余郷の惣社となった。その後、本地垂迹説により天台宗と融合する。足利将軍家から領地の寄進、社殿の修復を受けるなど保護されてきたが、織田信長の延暦寺焼き討ちにより、領地は没収されてしまう。その後、古来からの社領については返却された。徳川時代は領主となった渡邊山城守が神社の維持発展に努め、1713年には境内社34社、三重塔大日堂・薬師堂・鐘楼堂を有する規模であった。神仏分離令により、神宮寺の佛眼寺と分離して、大宝神社として再出発した。
【探索のヒント】県道2号大津能登川長浜線(中山道)の草津市と守山市の間が綣@です。守山市から入ってすぐ左に大宝公園があり、その中に句碑Aがあります。公園に隣接して大宝神社Bはあります。大宝神社は綣村城であったと言われます。神社前の水路C、石灯籠の立つ参道脇の溝D公園内の水路Eは、その名残なのでしょうか。
【駐車場】大宝神社駐車場
【電車】JR東海道本線「栗東駅」
【バス】栗東市コミュニティバス大宝循環線「大宝神社前」
@A
BC
A永原城―野洲市上屋【MAP】
永原城に入った信長は、愛知川左岸の防衛を固めると共に、六角氏と和平交渉したという。『言継卿記』に六角義賢・義弼が石部城へ来たのは、5月20日と記されているので、交渉は第三者を通して行われたのだろうか。この交渉は決裂して、信長は何としても帰国しなければならなくなった。そこで蒲生賢秀の奔走となるのだが、六角氏自身は永原城に信長を1週間も足止めしたのに、なぜか積極的に攻めることをしなかった。
永原城は在地領主永原氏の城で、信長の上洛時は永原越前守重虎と言われる。藤原秀郷または近江佐々木氏を祖とするなど、その出自には諸説ある。1410年頃の記録では、六角家重臣馬淵氏家臣であったが、2世代後には六角家中で重きをなしていた。世代が下るごとに幕府や公家、寺社の信頼を得、また経済的にも裕福になり、六角氏式目に連名していないように、六角氏を必要としない存在になって行った。重虎は南近江での現状維持ができるよう、上洛前の信長に書状を出して、その確約をとった。しかし在地勢力は、織田家譜代の家臣の与力とするという方針に重虎が反発した為か、永原筑前守が越前守に代わって登場するようになった。信長は度々、永原城に滞在している。
【探索のヒント】野洲市立祇王小学校@と周辺が城跡です。上永原遺跡なので、建設工事の際には発掘調査が入ります。小学校の場合は、校舎建設の時に行われ、土塁と堀跡が見つかりました。その時、観察池があった現地点に、永原城の碑Aが移されました。学校の南東の住宅地Bは、伝二の丸跡といわれ、造成の時に発掘され、やはり土塁や堀が見つかっています。現在は埋め戻され、遺構を確認できません。ここから1キロ北西にある永原御殿跡Cが、永原城跡と言われたこともありましたが、上永原遺跡にある小字名「与六郎」と『信長公記』の「佐久間与六郎所」の一致、明治6年の地籍図に方形居館を連想させるコの字型の堀の存在から、現在は否定されつつあります。
【駐車場】祇王小学校駐車場(要事前連絡)
【電車】JR東海道本線「野洲駅」
【バス】野洲市コミュニティバス祇王・中里コース「祇王駐在所」
@A
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【寄り道】市三宅城―野洲市市三宅【MAP】
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
@A
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B市原郷石谷村―東近江市石谷町【MAP】
反信長勢力に呼応した一揆について、「湖東の門徒と元亀の起請文」(高牧實氏)や『永源寺町史通市編』は一向一揆とし、『近江蒲生郡志』は六角氏旧臣とその縁者による一揆としている。市原郷に本願寺派の寺は、いくつもあるので一向一揆を完全否定はできないが、本願寺が信長に宣戦布告するのは、5ヶ月後のことである。従ってこの一揆は、六角氏に呼応した領主を中心としたもので、宗教色は薄いと考える。永禄12年10月に伊勢北畠氏を降した信長は、そのまま千草越で京へ上るが、大雪のため市原で投宿している。
八風街道の南にある市原郷の西の端が石谷村である(『高木共有文書』)。『石谷村地誌』(明治初期)には、瓜生津村から石谷村に布施公綱邸があったと記す。『大洞弁財天当国古城主名札』(1695)には倉垣次郎兵衛を、『江州佐々木南北諸士帳』(1753)は倉垣次兵衛を、『淡海温古録」では倉垣二郎兵衛を城(領)主とする。また京大総合博物館には、倉垣勘八郎に宛てた元亀元年・2年の六角義治の書状が残されている。倉垣氏は鯰江城の落城後、帰農したといわれる。
『高木共有文書』では、石谷村までが市原郷とされているが、その西隣りの金剛山弘誓寺(ぐぜいじ)の洪鐘銘に「江州蒲生郡市原荘瓜生津弘誓寺」とある。つまり瓜生津も市原郷と認識されていた可能性もある。弘誓寺は浄土真宗本願寺派で、『近江蒲生郡志』『近江日野町志』では「日野牧五ヶ寺」とされている。
弘誓寺の向かいの慈眼寺では、国指定重要文化財「銅造聖観音立像」が安置されている。六角氏は観音寺城にこの像を置き、念持仏として拝んでいた。信長の攻撃で観音寺城が落城する直前、六角家家臣毛利知行は、この像を愛知郡の東光寺へ預けるため、背負って城を脱出した。しかし敵に追いつかれそうになり、平柳村の池にそのまま飛び込んだ。知行は死に、仏像は池に沈んでしまった。それから25年以上経った慶長年間のこと、夜になると池の中で光るものがあるので、引き上げたらこの像であった。男が家に持ち帰って、供養していたところ、慈眼寺の僧がやって来て、寺で保管することになった。夢のお告げで、慈眼寺の僧が引き上げたという話もある。この仏像は、狛(古麻)長者の持仏で、狛長者が建てた金柱の宮に祀られていたとの説がある。
【探索のヒント】県道170号高木八日市線「瓜生津町交差点」の西にある「八日市玉緒郵便局」の西の十字路から東が石谷@です。県道に面した散髪屋さんから南側が屋敷跡Aとされ、『石谷村地誌』にある「土塁、堀、井戸のある薮地」は、今は残っていません。また『近江蒲生郡志八』で紹介された二重堀も不明です。弘誓寺Cのある瓜生津町は、石谷の東隣です。県道から細い道を入った左の慈眼寺会館で車を止めました。
【駐車場】慈眼寺会館
【電車】近江鉄道本線「八日市駅」
【バス】東近江市コミュニティバス市原線「石谷」
@A
BC
B市原郷一式村―東近江市一式町【MAP】
室町幕府四職家の一色氏の領地で、一色相模守相吉が築城した。その後の一色氏の没落で六角氏が台頭し、六角氏家臣の松吉石見守重吉が城主となり、この一揆中心人物となった(『日本城格体系11』)。『大洞弁財天当国古城主名札』は松居石見守を、『江州佐々木南北諸士帳』は松吉石見守を城主とする。
【探索のヒント】石谷町の東端の家から東へ500m行くと一式町@です。県道の北にある若宮八幡神社Aが城跡です。『一式村地誌』に、一重堀と土塁で四方を囲まれた350坪の城だったが、畑地に転用されたと書かれています。県道を挟んで反対側までが城域でした。神社の南東角に太鼓堂Bが建っていますが、ここは物見櫓跡とされます。『近江蒲生郡志八』の城の東北が物見台という記述が正しければ、神社の南にある畑Cからが城跡になります。城の中央に井戸があったそうですが不明です。松吉姓の方が今も住んでいます。
【駐車場】集会所に駐車スペース
【電車】近江鉄道本線「八日市駅」
【バス】東近江市コミュニティバス市原線「一式」
@A
B市原郷野村―東近江市市原野町【MAP】
旧町名が永源寺町野。南北期から室町期の在地領主野村氏の居館。『近江蒲生郡志八』の測量図では、東西50m南北65mの主郭の四方を幅10mの堀で囲んでいる。
【探索のヒント】一式町の町外れから600m東が市原野@です。石原郷で一番の戸数です。恩通寺裏の公民館辺りGが城跡で、県道を跨いでいたようです。西にある白鳥神社も市野原城の一部考えるかは、意見の分かれるところです。
【駐車場】公民館前駐車スペースあり
【電車】近江鉄道本線「八日市駅」
【バス】東近江市コミュニティバス市原線「市原野上」
@A
BC
B市原郷高木村―東近江市高木町【MAP】
市原野町に隣接している。高木の領主邸とされる殿屋敷は、八大竜王から上二俣へ行く中間地点にあって、一辺80mの五画形で三重の堀を備えた平城であった。領主については、高木助六郎盛重(『淡海温古録』)、高木右近義清、同右近亮義重の名が挙がるが、それを裏付けるものは今のところはない。『玉緒郷市原野荘之絵図』でここに該当するのが「下司館」なので、下司殿屋敷跡との考えもある。館の主が不明であるのに対し、高木と上二俣の字名が「かじや」と「鍛冶屋」で、先の絵図にも下司館の隣に鍛冶屋がとあり、城館跡からも碗型滓が発見されているので、鍛冶屋との関連は確実である。また集落内に刀匠高木貞宗の鍛冶跡もある。高木貞宗は、幼名彦四郎といい、相模の五郎正宗の養子となり、名匠として歴史に名を残した。
【探索のヒント】市原小学校から高木町@です。その先で県道170号線は、南北に走る県道508号中里山上日野線に付き当ります。左折し右にある八大竜王の森で右折。約100m進んだ地点の道の両側が殿屋敷跡ABです。つまり遺構のど真ん中を道が通っているという事です。高木鍛冶の跡C【MAP】は、県道508号線を八大竜王の森で曲がらず、もう少し北へ行って、集落の中へ入る道を入ってすぐ左にあります。昔は目釘に使った竹林がありました。碑の横には、今も水が湧いていて、鍛冶作業ではこの水を使っていました。
【駐車場】土地改良記念公園横に駐車場
【電車】近江鉄道本線「八日市駅」
【バス】東近江市コミュニティバス市原線「高木」
@A
B市原郷二俣村―東近江市上二俣【MAP】
 白鳥若宮神社の参道の右側に土塁跡と思しきものがある。高木を除いて、市原郷の領主館は集落の中央に位置している。それと同じ立地で、それらしい遺構がある若宮神社は、城館跡と推定された。規模としては、50m四方の単郭式城館とされる。なお築城時期や城主は不明である。
【探索のヒント】殿屋敷跡の道を東へ行くと上二俣町@です。集落内にある背の高い木が神社Aの目印です。
【駐車場】上二俣集会所前に駐車スペース
【電車】近江鉄道本線「八日市駅」
【バス】東近江市コミュニティバス市原線「上二俣中」
@A
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B市原郷池之脇村―東近江市池之脇【MAP】
上二俣町のすぐ南にある池之脇町の南の山に長壽寺がある。かつては現在地から山側へ150m入った本堂谷にあり、堂塔や僧坊を多数有した聖徳太子創建と伝わる。平安時代、延暦寺慈覚大師円仁によって中興され、六角氏の祈願寺であった。この寺院に付属した城が、その南西の山頂にあった。山頂の地形に合わせた、長方形の単郭式城館で、堀切・切岸を持っていた。長壽寺は元亀・天正の兵火に遭い消失した。1659年、万宝院の跡地である今の場所に、秀円により再興された。本堂は1767年に建てられたものである。
【探索のヒント】上二俣町から池之脇町@へ入ると左側に長壽寺の看板があります。それに従って、集落の細い道を進むと、右側に長壽寺Aの駐車場があります。池之脇城跡へは、長壽寺の西側の道を登って行きます。民家が途切れた先に、獣除けのフェンスが張り巡らされています。近くの住人に聞くと中に入っても構わないとのことでしたが、何もないよと言われました。グーグルアースでも分かりますが、すっかり山の形が変わっていますB。地形図には、城跡の手前に墳墓とあるのですが、当然見つからず、結局何の発見もありませんでした。
【駐車場】長壽寺駐車場
【電車】近江鉄道本線「八日市駅」
【バス】東近江市コミュニティバス市原線「池之脇」
@A
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C千草越―東近江市甲津畑と三重県三重郡菰野町千草【MAP】
近江と伊勢を結ぶ主要街道は、鈴鹿山脈の八風峠を越えて、切畑から桑名へ向かう八風越(街道)と、千草峠(根の平峠)を越えて、菰野から四日市へ行く千草越(街道)があった。千草越の滋賀県側の起点の甲津畑へは、八日市から東へ向かう八風街道と如来で分かれて、市原郷を抜ける道と、山上・高野で分かれる道、西の船岡山から市原郷の集落の中を抜ける道もあった。
信長の千草越利用は、北畠氏を下して伊勢平定が成った永禄12年に上洛した時である。連歌師柴屋軒宗長、公家の山科言継も利用している。延暦寺の弾圧を逃れ京を離れた蓮如が、近江で布教した後、伊勢から三河へ向った時も千草越を利用した。
【探索のヒント】国道421号線「如来交差点」を南に入り、東へ向かうと八風街道と千草街道の分岐の石碑@があります。街道は田園地帯を抜けA、いよいよ甲津畑Bへ入ります。
千草越は山歩きになります。車なら県道189号線と並行する和南川沿いの舗装道路を道なりに行くと、林道甲津畑原線と合流して、山を登る林道甲津畑杠葉尾線へ入ります。徒歩の場合は、川沿いの舗装路を藤切神社入口から180m東へ行って川原Cへ下り川を渡るとD森の中へ入って行く道Eがあります。これが旧千草街道です。この道を登ると林道甲津畑杠葉尾線林道と合流Fします。旧千草街道はすぐ林道から外れてG、山を下って渋川を渡り対岸を川沿いに進みます。今は対岸の道はありません。
林道をひたすら道なりに行くと、右側に岩が谷林道の入り口Hがあります。車は路駐になりますが、入口を行き過ぎても、方向転換できる場所があるのでゆっくり探して下さい。林道は非常に歩きやすいのですが、善住坊隠れ岩を過ぎてしばらく行くと斜面が崩れて通行止めになっています(2015.4.28)が、その斜面の上に仮設の道があります。桜地蔵Iを過ぎて、渋川(上流では藤切川)を渡った先で、川の右岸にあった千草街道と合流Jします。この先はかつてあった鉱山関連K蓮如関連Lの史跡を見ながら、杉峠Mへ向かいます。途中、騎乗では絶対に通れないほど狭い道になっているので、信長時代は違ったルートだったのかもしれません。林道入口から標高差620mN、2時間15分の行程です。ここから東北東へ260m下りますO。1時間ほどの山歩きで上水晶谷Pに到着です。次に根の平峠Pに向かいますが、マーカーが分かりづらいので注意して下さい。峠まで20分登り、登山口Rまで40分かけて下りますが、下りも分かりにくい所があります。この後、千草街道は朝明渓谷から、千種城の北側Sへ出て行きます。
●滋賀県側
【駐車場】路駐
【バス】東近江市コミュニティバス甲津畑線「甲津畑」
●三重県側
【駐車場】朝明渓谷駐車場(500円)
@A
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D中野城―蒲生郡日野町西大路【MAP】
日野城ともいうが、音羽城もそう呼ばれたので区別するため中野城とする。蒲生家の分家である高郷が文亀大永頃(1501年から1523年)に日野川右岸の台地に築いた砦が始まりである。
高郷は宗家を倒して蒲生家当主の座に嫡男定秀を据えた。定秀は天文2年から3年がかりで城の改修を行い、合わせて城下町を作り上げた。その後、賢秀・氏郷が城主を勤めた。
1620年市橋長政が仁正寺藩主として、氏郷の会津移封により廃城となった中野城跡に藩庁を置いた。市橋家は幕末まで続いた。
【探索のヒント】国道307号線「松尾交差点」から東へ2.5キロ行くと右側に「うを彦別館」の看板の下に見落とすような「日野川ダム 中野城跡石碑→」の看板があります。これに従って行くと駐車場です。 日野城は単郭式城館でした。ダム建設や宅地開発のため、多くの遺構が消えました。残っているのは、本丸の四方にあった土塁のうち北側の土塁@その手前の土橋A、看板から駐車場へ行く道の途中の左にある空堀B、この道の右にある中野城の碑Cの南側にある堀跡D土塁跡Eです。なお土塁下の石積みFは江戸時代のものです。碑のある所が本丸の虎口で、蒲生氏郷公産湯の井戸Gは本丸内にありました。
【駐車場】専用駐車場
【電車】近江鉄道本線「日野駅」
【バス】近江鉄道バス日八線「日野川ダム口」
@A
【寄り道】蒲生貞秀墓所―蒲生郡日野町大字村井【MAP】
1444年蒲生家13代秀綱の甥(秀綱の弟政秀の子)和田貞秀として生まれる。秀綱に子供がなかったので、娘の婿に迎えられ蒲生氏を継ぐ。延徳の乱(1491年)では室町幕府方として六角高頼征伐に参加したが、1495年以降は高頼に味方して美濃の斉藤氏や近江国人の伊庭氏と戦った。1495年出家して智閑と号する。
蒲生家中興の祖と言われた武人貞秀は、準勅撰連歌撰集『新撰莵玖波集』に5首選ばれた優れた歌人の顔も持つ。連歌師宗祇と親しく、連歌の辞書『分葉』を贈られ、古今伝授を受けたりした。また公家の三條西実隆、飛鳥井雅隆とも親交があった。
ある時、貞秀は領内に生息する菜を漬物にして、歌に添えて雅隆へ贈った。風変わりな味と雅隆は後柏原天皇に献上。天皇の好みに合い、「桜漬」と名付けられた。そして菜は「日野菜」と呼ばれるようになった、という逸話がある。
【探索のヒント】車を使って行けますが、かなり遠回りになる感じなので信楽院の駐車場を利用して、信楽院の見学と合わせて行くことをお勧めします。
信楽寺の前の道を西へ行った最初の辻を南へ行きます。坂を下りた田園地帯を標谷といいます。墓@は正面の丘にあります。貞秀は自分が死んだら標谷に植えた一本松の下に埋葬して欲しいと遺言しました。今は松に代わって楓が目印です。
「引植えし松の下はに世を経なば千載の後の人も尋ねん」の歌碑Aがあります。
【駐車場】信楽院駐車場利用
【電車】近江鉄道本線「日野駅」
【バス】近江鉄道バス日八線「村井本町」
@A
【寄り道】蒲生定秀の墓―蒲生郡日野町大字村井【MAP】
1527年蒲生定秀は、17歳で蒲生家の実権を父高郷より全て譲り受けた。その4年後、六角定頼と浅井亮政の間で起こった箕浦合戦で、定秀は定頼本陣に攻め込んできた浅井新兵衛を撃退し、蒲生側に30名の戦死者を出しながら、浅井の勇将北河又五郎、中連寺四郎三郎、同弥左衛門尉を討取る働きを見せ、一躍その武名を高めた。また1539年対立する細川晴元と三好長慶の調停役となった六角定頼に先がけ、定秀は上洛しているところから、この頃では六角家中で重職に就いていたようである。その後、定秀は「年寄衆」として六角家中に重きをなし、定頼を後継した義賢からも信頼された。それは観音寺騒動で、家臣に見放された義賢・義弼父子の頼った一人が、定秀であったことで分かるが、「六角氏式目」で何とか家臣を六角家に繋ぎとめようとする律義さからもうかがえる。とにかく定秀は六角氏のため対浅井戦や対三好戦で勇猛に戦い、伊勢平定戦では関盛信と神戸友盛の対立でまとまらない関一族が妨げとみるや、自分の娘2人を関家・神戸家に嫁がせ、定秀を要に関一族をまとめる智略を発揮した。反面、日野市を基に城下町を開発し、また一族の小倉家の跡取りに次男実隆を送り込んで、千草街道・八風街道への影響力を高めて、蒲生家の勢力を拡大することも忘れていない。
【探索のヒント】貞秀の墓所をさらに山の方へ行くと、共同墓地があります。そのすぐ左に定秀の墓があります。
【駐車場】墓地に駐車スペースあり
【電車】近江鉄道本線「日野駅」
【バス】近江鉄道バス日八線「村井本町」
@A
【寄り道】蒲生賢秀の墓―蒲生郡日野町西大路1773【MAP】
信長は永原城にいた5月15日、賢秀と賦秀に対して、佐久良城小倉氏の領地2千石を含む5510石の加増(本領安堵と解するものもある)と市原四郷の統治を命じた。賦秀に娘を嫁がせ蒲生家と姻戚関係にあったが、義弟浅井長政に裏切られた直後の信長には、元六角家重臣で上洛時に最後まで抵抗した律義な賢秀の動向が気に掛かった。ここで賢秀に寝返られては、全てが終わってしまう。加増を賢秀だけでなく賦秀も対象としたのは、信長がいかに蒲生父子を重要視しているかを示すためだった。市原郷の統治は、東山道が途中使えない今、岐阜と近江間の唯一のルート千草街道の安全を確保が最大の目的である。
1549年榎並城を攻めた三好長慶討伐のため、父定秀と出陣したのが初陣。その後は定秀の薫陶を受け、父に劣らない武将へ成長。浅井氏と戦った野良田の戦い(1559年)では、先陣を任されている。その期待に賢秀も応え、六角氏を盛りたてようと、六角氏式目に定秀と共に署名している。信長上洛時に、六角氏が逃亡した後も、中野城に籠城したのも主家への忠義を貫くためであった。 籠城する賢秀は、義兄弟の神戸友盛の説得で信長に降るが、その後は柴田勝家の配下となり、各地に転戦することになる。勝家の越前転封後は、本領に残り信長の直属となり、安土城の留守居役を勤めた。そんな時、本能寺の変が勃発。城に残る女房・女中らを中野城へ匿い、明智軍に抵抗する姿勢を見せ、律儀者蒲生氏の心意気を見せた。
【探索のヒント】賢秀の墓は、中野城の北にある天正山法雲寺@にあります。氏郷が小牧長久手の戦いに出陣していた天正12年、賢秀は鎌掛城で亡くなりました。最初、その菩提を弔う庵が中野城内に作られましたが、江戸時代になり仁正寺藩庁が同地に置かれることになったため、今の場所へ移され、庵主法雲にちなみ法雲寺と名づけられました。墓地には賢秀と市橋利政(仁正寺藩初代長政の外孫で、二代目政勝の養子となる)の墓Aが並んでいます。
【駐車場】専用駐車場
【電車】近江鉄道本線「日野駅」
【バス】近江鉄道バス日八線[日野川ダム口」「仲出町』
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【寄り道】蒲生氏郷関連
蒲生賢秀の嫡男鶴千代が織田家の人質となったのは13歳の時である。信長が六角氏が放棄した観音寺城で鶴千代に対面した時、その器量を見抜き、小姓として取り立てた。岐阜では瑞竜寺南化和尚に師事し、三條西実技から和歌、谷宗養・里村紹巴から和歌と茶道を学んだ。永禄12年、信長が烏帽子親となり元服。忠三郎賦秀(やすひで、ますひで)と名付けられ、さら信長の娘冬姫を室に迎える。駿府時代の家康の様な待遇である。元服した翌年日野へ帰国する。
元服した永禄12年の大河内城攻めが初陣で、それ以降数々の戦いに従軍して武功を挙げる。若き日の信長のように、大将でありながら先頭切って敵陣へ飛び込む雄姿に、信長がたしなめることもあった。本能寺の変後は、秀吉の天下統一戦でも大いに働いた。その働きから天正12年伊勢松ヶ島城、天正18年陸奥会津へ加増転封。92万石の大大名となった。ちなみに氏郷に改めたのは天正13年らしい。
こうした猛々しい姿の半面、重商主義により領地の発展を図る政治家であり、連歌・和歌・茶道に精通した文化人でもあった。特に茶道では利休七哲の一人に数えられる茶人であった。
氏郷は京屋敷で40歳で死去した。すると秀吉は蒲生家に対し、未亡人となった冬姫を側室に差し出せと命じた。冬姫は出家してこれを拒絶した。怒った秀吉は、氏郷の子秀行を宇都宮へ減封したという。当然関ヶ原合戦では秀行は、東軍について会津へ復帰できた。しかし秀行の子忠郷・忠知には子がおらず、蒲生家は1634年断絶した。1641年冬姫は80歳を超えて死去した。
【探索のヒント】氏郷のトレードマークである鯰尾の兜を被った銅像@は、国道307号線(近江グリーンロード)の「松尾交差点」北西角にある口之宮神社の北隣りの「ひばりの公園」【MAP】 にあります。
氏郷が茶の湯に使った水は、若草清水A【MAP】から汲んだものと言われます。信楽寺を西へ行った最初の四つ辻を南へ坂を下りて行った右側にあります。
●蒲生氏郷公の像
【駐車場】ひばりの公園
【電車】近江鉄道本線「日野駅」
【バス】近江鉄道バス日八線「高校前」
●若草清水
【駐車場】信楽院駐車場利用
【電車】近江鉄道本線「日野駅」
【バス】近江鉄道バス日八線「村井本町」
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【寄り道】佛智山信楽院―蒲生郡日野町村井1500【MAP】
蒲生家の菩提寺。元は天台宗寺院だったが、熱心な浄土宗徒だった蒲生貞秀が出家後、厳誉宗真を開山に迎え、浄土宗鎮西派に改宗した。蒲生家の信仰仏阿弥陀如来像が本尊。貞和年間(1345〜50)小御門村、応永年間(1394〜1428)音羽山、文亀4年(1504)中野城内と蒲生宗家の本拠地移転に合わせて信楽院も転々としたが、氏郷の松ヶ島、会津転封では、そのまま残った。檀家の蒲生家に代わり寺の管理を任された「講衆中」だったが、その役割を果たせず寺の什物が次々盗まれ、寺は荒廃していった。1596年日野に残った蒲生家旧臣源智は、寺の復興を求めに会津に出向いた。応対した家老蒲生郷安と重臣綿利良秋は、日野を領有する長束正家に協力を要請した。正家の正室が知恩院住職奉誉と親せきだった縁で、信楽院を知恩院の末寺として住職を派遣する事になった。それと共に講衆中に散逸した什物の回収を命じた。その結果、慶長年間に定秀の隠棲所(定秀院)に再建され、今日に至っている。
【探索のヒント】「松尾交差点」からバス通りを東へ1.7キロ行った右側に、信楽院の場所を示す石標があります。右折した正面が信楽院@です。その手前の右の広場が駐車場です。山門を入って左の墓地の奥に氏郷の遺髪塔Aがあります。ただしこれは寄せ集めの石塔部品で作られているそうです。
ここには蒲生家の縁の品々が安置されている他に、建造物も見ごたえのあるものだそうです。残念ですが私は関心がないのでこの程度の説明しかできません。
【駐車場】専用駐車場
【電車】近江鉄道本線「日野駅」
【バス】近江鉄道バス日八線「村井本町」
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E大森城―東近江市大森町【MAP】
六角氏の有力国人である布施氏の本拠は、市邊村布施で布施三河守が布施山城を構えていた。布施氏の勢力拡大の中で、分家として淡路守家が生まれ、大森城を居城としたとされる。観音寺騒動後、本家の三河守が六角義賢に反旗を翻した。そのためか1567年六角氏と国人間で取り交わされた『六角氏式目』には、淡路守公雄(きみかつ)が署名している。また観音寺城に布施淡路丸という曲輪があることから、布施家内での力関係が逆転したとの考えもある。
布施山城と比べ簡単な作りの大森城は、信長の上洛に備えて作られたが、戦うことなく布施氏は降伏したようである。この時廃城になったと考えられている。しかし鯰江城が六角方の拠点となるとその監視と攻略のため活用された可能性もある。その場合、布施公雄の子 布施藤九郎公保が、天正8年閏3月に信長の近習として召抱えられ(『信長公記』)、安土城下に移り住んだ後、廃城になったと考えられる。ちなみに本能寺の変で討死した「近習藤九郎」は公保とさる。公保の子の大学亮友次は、大森藩主となった最上氏の家臣になった。
【探索のヒント】県道46号八日市蒲生線を「大森町交差点」を南下。目の前の丘陵@に大森城があります。道が右へ大きく曲がった左にある大森神社が目印です。大森神社の手前に特に表示はありませんが、駐車できる広場があります。遊歩道の入口に「大森城」の表示あるので、それに従って行きます。300mほど行くと右に大森城の看板Aがあります。児童公園の後の階段を登って最初のピークへ到着。そこから稜線Bを東へ行きます。ロープが張られて、整備もされているので迷う事はありません。しばらく歩いた斜面の先の虎口Cから城跡へ入ります。
山頂の平坦部には高低差をつけた曲輪Dがあります。平坦部の北E南Fが高くなっていて、北は愛知川・八風街道方面を見渡す物見台Gでした。南が本丸です。下の曲輪から斜面に設けられた土橋Hを使って登ります。登りきった正面が二の丸Iです。二の丸の脇を登り、喰違い虎口Jを抜けて本丸Kへ入ります。本丸の東から南にかけて広い土塁Lがあり、その先の一段高い土塁には物見櫓Mがありました。
【駐車場】専用駐車場
【電車】近江鉄道本線「八日市駅」
【バス】東近江市コミュニティバス市原線「下大森」
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【寄り道】大森陣屋跡―東近江市大森町【MAP】
布施氏の平時の居館跡で、八風街道の監視と愛知川の南岸の守りを担った。最上氏と大森との関係については、朝鮮出兵で肥前名護屋へ赴く途中、上洛した義光に秀吉が秣の賄料として与えたとする説、関ヶ原合戦の功績に対し家康が与えたとする説がある。記録に残る最上氏以前の旧領主が豊臣方であったという記載が多く、後者の説が有力ではないかと思われる。
出羽・山形城最上義光の孫義俊の時、義俊排斥を画策する動きがあり、義俊が幕府へ訴え出るという紛争が起こった(最上騒動)。幕府が仲介に乗り出したが、義俊と反義俊派の対立は解消されなかったため、ついに義俊は改易された。義俊は江戸で6年謹慎した後、三河と近江に合わせて1万石の知行を得て、近江大森藩主として復帰した。大森は義光とゆかりのあった土地だったのが理由である。。義俊はわずか3年で死去してしまう。後継者がわずか2歳の義智であったので、三河分5千石は幕府に戻された。義智は24歳まで江戸で過ごした後、大森へ赴任した。この地に残る県指定無形文化財「最上踊り」は、この義智の叙位を祝ってのものである。最上氏は幕末まで大森藩主を勤めた。最後の藩主義連は、蛤御門の変で御所の警護の当り、戊辰戦争では尊王派として官軍の味方をした。
【探索のヒント】東近江市立玉緒小学校@にあったとされます。碑Aが県道46号八日市蒲生線を挟んだ小学校の東側にあります。橋のそばの畑地と水路が堀跡と土塁Bで、長福寺C堂には移築された陣屋の式台Dがあると言われます。陣屋の表門Eが移築されているのが、石塔寺Fです。1006年創建。応仁の乱や元亀における信長の戦火に遭い、消失しました。この山頂には、高さ7.5メートルの阿育王塔と無数の石塔群があります。阿育王塔は飛鳥時代のものとされ、この山中に埋まっているという手紙を入手した義観僧都が、一条天皇に奏上して、野谷光盛という武士が掘りあてたとされます。
【駐車場】橋のそばに駐車スペースあり
【電車】近江鉄道本線「八日市駅」
【バス】東近江市コミュニティバス市原線「下大森」
●長福寺【MAP】
【駐車場】専用駐車場
●石塔寺【MAP】:拝観300円
【駐車場】専用駐車場
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F甲津畑―東近江市甲津畑町【MAP】
速水氏は興福寺荘園であった甲津畑に泰氏が1294年頃、公文職として移り住んだのが始まりとされる。甲津畑を領有することから「畑」を称することがあった。千草街道を支配していたことは、『今堀日吉神社文書』から読み取れる。それは永禄2年9月5日、千草越「ねの上」において、他地域の商人に権利を侵害された保内商人(得珍保下四郷の商人、東近江市今堀町とその周りの町)が、その商人の木綿二駄を没収した事件である。この件で街道の管理者として、畑勘解由左衛門尉の被官「落合ノ木戸」ら三人が、保内に一貫文を持参して謝罪している。翌年にも、三河商人の木綿荷物が、保内商人に没収される事件が起こり、畑勘解由左衛門尉方の者が、伊勢千草有吉の連絡を受け、保内へ謝罪に行っている。
永禄7年の小倉右京大夫による延暦寺領山上郷の年貢横領事件で、速水甚六左衛門(勘解由左衛門尉・菅六左衛門・早水勘解由左衛門尉・甲津畑菅六左衛門は同一人物)は六角義弼の命で、小倉実隆に従って出陣。敵方の小倉次兵衛尉を討取り、義弼からその勲功を賞された。その後、六角氏から離反した。
【探索のヒント】旧八日市方面から国道421号線を東へ。「山上小学校前交差点」で右折して県道188号相谷原杣線へ。和南川を渡ると左折して県道189号甲津畑山上線に入って、お寺(浄光寺)前の駐車場まで道なりに進みます。車はここまでです。
駐車場の向かいに大きな松のある家@があります。これが速水家で、松は勘六左衛門の松(別名信長馬つなぎの松)と言います。駐車場脇の細い道を登って行くと淨源寺Aがあります。ここは腰曲輪跡という事です。更に登って行くと元小学校があります。ここが本丸でした。遺構は全く残っていませんが、学校の裏山(城山)Bには堀切Cが残っていますが、山中の曲輪のような平坦地は全て墓地Dとして利用されています。最も西の墓地からは村が一望Eできます。墓参りのための道がつけられているので山中で迷う事はありません。城に関しては、足利義材の六角征伐の砦跡という考えもあります。
【駐車場】浄光寺駐車場を利用
【バス】東近江市コミュニティバス甲津畑線「甲津畑」
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G善住坊隠れ岩―東近江市甲津畑町【MAP】
善住坊の素生は不明である。甲賀五十三家杉谷氏の一族とも、伊勢菰野杉谷の萩原氏とも言われる。
善住坊は最初、『甲賀郡志』では義賢に命じられて成就院、『近江輿地志略』では(太郎坊または甲津畑の)成願寺の峰に隠れて、狙撃の機会を狙っていた。しかしうまくゆかず、椋木峠(『甲賀郡志』)で待ち伏せしたとする。善住坊が放ったのは、『信長公記』の2発が一般的に知られている。しかし『言継卿記』では、鉄砲4丁で狙われたとある。結果は先の『近江輿地志略』が小袖を打ち抜かれたとし、『言継卿記』は信長に差しかけた笠の柄に命中して折ったとする。
この暗殺未遂事件は、六角氏が信長の進路を遮断して、善住坊の待ち構える千草越に信長を誘導した謀略と言われる。だが、『信長公記』では、19日信長が永原城を出発したところ、進路が塞がれたように書かれている。そして一日遅れて、六角氏が石部城に入城(『言継卿記』)している。あたかも信長が永原城から出るのを待って、反信長勢が動き出したように見える。つまり六角氏は、防衛ライン構築で兵力が落ちた織田軍を、城から出たところで挟撃。それが失敗した場合、善住坊が信長を暗殺するという二段階の計画を立てたと考えられないだろうか。
【探索のヒント】千草越で利用する岩が谷林道入口から20分ほどで右側に案内標識@があります。2015年3月22日、寒波が襲来した時に行ってしまいました。雪のためどこから下へ降りるのか分からないので、恐る恐る足元の雪をどけながら河原Aへ行きました。一月後、再訪問B。信長は藤切川を挟んだ対岸Cを進んでいました。この岩の反対(西)側に回り込むと、二段になった平坦部があります。狙撃するには、案内板側より、こちらの方が都合がよいかもしれません。この形状から、千草街道の監視場ではないかと書いている物もあります。
【駐車場】路駐
【バス】東近江市コミュニティバス甲津畑線「甲津畑」
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H杉谷城―三重県三重郡菰野町杉谷【MAP】
城主とされる善住坊は、萩原善住坊という円導寺の僧侶であったという伝承がある。円導寺ではなく円通寺、尚道寺というものもある。ただ現在では、杉谷にあった寺院は、信長の伊勢侵攻前には、衰退していたと考えられているので、善住坊の伊勢杉谷説は、『菰野町史』『勢陽雑記』『伊勢名勝志』『絵本石山軍記』に見られるが、全て伝承である。また六角義賢との関係についても不明であり、六角氏と明らかに関係の深い甲賀説の方が優位である。その中で菰野町在住の深川やすとし氏は『伝承杉谷善住坊』で、六角義賢の姉妹(氏は美吉野とする)が土岐頼芸の側室で、その間に生まれた頼善が善住坊で、義賢と善住坊は、おじと甥の関係とする。義賢は、頼芸に頼善を妙心寺に預けるよう提案。こうして頼善は僧籍に入った。その後、妙心寺を出た善住坊に、頼芸は杉谷の領地を寄進して、そこにあった円導寺に住むことになったとしている。その後、義賢も善住坊も信長によって、国を追われてしまう。信長憎しで一致した二人は、信長暗殺計画を実行することになる。この話の背景にあるのが、信長の円導寺などへの焼き討ちであるが、現在では円導寺などの寺院は、信長侵攻以前に衰退したと考えられているので、善住坊の円導寺の僧説はあり得ないので、やはり善住坊の菰野杉谷説は厳しいと思う。
【探索のヒント】国道306号線の「菰野交差点」から5.4キロ、「石榑北交差点」から6キロに杉谷川が流れています。この川の北の道を山の方へ入ります。250メートルほど進み、左右に分かれた道の右を行きます。突当たりを左折して道なりに進むと、慈眼寺が左側にあります。その向かいの丘陵@が城跡です。寺から2百メートル進むと城跡に建つ個人宅へ行く道があり、その途中に車を止めるスペースがあります。
家のある場所は以外は雑木林です。丘陵上の端まで方形の曲輪が左右(南北)に3個ずつ計6個あり、民家はその西の端の曲輪跡に建っています。雑木林に入ってまず目に入るのが6つの曲輪を左右に分ける大きな堀状の溝Aです。もちろん堀ではなく曲輪を繋ぐ土橋が崩落したものと考えられます。確認できる二つの堀BCは、東西に並ぶ曲輪を区切るため丘陵を南北に走っています。共に南(舗装道路)側へは下ることができますDが、東側の堀Eにはそれを見下ろす帯曲輪Fがあり、城内へも直線的に行けないのでここが城道と考えられています。
先に書いたように曲輪は縦に3つずつ並んでいますが、中枢部は真中の二つの曲輪(
北G南H)と推測されます。南の曲輪は城道と直接繋がっていて、内部が高低差のある複雑な構造Iです。北の曲輪は北側が谷でそこを監視するような櫓台状の土塁Jがあります。南の曲輪と比較して平坦で広い事を考えると、ここが主郭に当る可能性があります。
一応その他の曲輪も簡単に紹介します。
丘陵先端の北の曲輪K南の曲輪L西端の北の曲輪M家のある南の曲輪N
【駐車場】駐車スペースあり(住人の迷惑にならないように)
【バス】菰野町コミュニティバス千草根の平線・潤田福王山線・神森福王山線「杉谷」
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【寄り道】杉谷遺跡―三重県三重郡菰野町杉谷【MAP】
平安末期から室町期にかけての墓地遺構。当時、杉谷では仏教文化が隆盛を極め、円導寺・観音寺・引接寺という寺院が、建立されていた。発掘調査では、昭和38年に瀬戸・常滑の臓骨器と五輪塔、昭和40年は火葬穴7か所・臓骨器4個・人骨・木炭・釘などが見つかった。いずれも高価で質の高いものであったため、これら寺院、または杉谷城との関わりが考えられたが、詳細は不明である。
このように発展して来た杉谷の仏教文化は、突然終りを告げている。再興された寺院の伝承は、信長の伊勢攻め時の焼き討ちが原因としているが、菰野町では、杉谷の寺社は、信長の伊勢攻め前に衰退していたとし、そもそも信長の焼き討ち自体が無かったという立場である。これは三岳寺遺跡でもいれわれた。
【探索のヒント】国道306号線で杉谷川の北90mから西へ入り、杉谷の集落に入ります。そのまま道なりに250m行くと右側に熊野神社があり、その前で車を駐車できます。鳥居の前@の道を西へ、民家を右手に見ながら進むと案内表示Aがあります。山へ入ると道は左へ曲がり、やや登りになります。途中、倒木で道が塞がれています(2015.9.15)が、これを越えると右の丘に遺跡の碑Bがあります。写真では納まり切らないほど多くの墓石群Cが左斜面に広がっています。この墓石群の後ろにある小屋(外からしか見れない)には、第一次調査で発見された火葬穴D五輪塔Eが保存されています。火葬穴には、人骨が散乱していました。
【駐車場】熊野神社前に駐車場
【バス】菰野町コミュニティバス千草根の平線・潤田福王山線・神森福王山線「杉谷」
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【寄り道】観音山慈眼寺―三重県三重郡菰野町杉谷【MAP】
1000年以上の歴史ある伊勢西国三十三所観音霊場の元26番。その前身は、熊野神社の北(北谷)にあった天台宗の古刹観音寺であるが、中世に衰退してしまった。しかし杉谷の住人により、江戸時代に浄土宗寺院として村内に再興された。明治5年、廃仏毀釈運動により寺院の整理が行われ、杉谷の円導寺、尾高の引接寺は、観音寺に統合された。その後、住職や檀家を持たない観音寺は、太政官布告により廃寺となる。杉谷村では、由緒ある寺が無くなったことを残念に思い、再興資金の積み立てを始めた。ようやく700円貯まった明治11年、村は県に再興を願い出た。しかし県の「廃寺となった名での再興は認められない」との回答に、村は本尊十一面観音を預けている桑名の本山照源寺と、同じく桑名の十念寺の竹田願誉和尚に相談。竹田和尚の斡旋で、宇治山田の慈眼寺の名を譲り受けることに成功。総本山知恩院の許可も得て、再度県へ掛け合った。しかし今度は、寺の財産不足で不許可。これに対し、村では寺の財産として杉谷の田畑と尾高の檜林を、檀家も37戸増やし、住職は照源寺から服部然了を迎えて、三度目の再興願を出した。この努力が報われ、明治20年12月20日付で再興が成った。
【探索のヒント】杉谷城のある丘陵の手前に駐車場があり、その隣がお寺です。
【駐車場】専用駐車場
【バス】菰野町コミュニティバス千草根の平線・潤田福王山線・神森福王山線「杉谷」

【寄り道】尾高観音―三重県三重郡菰野町杉谷【MAP】
伊勢西国三十三所観音霊場元25番で、かつては引接寺といった。欠史八代の孝元天皇の時代(推定BC214〜BC158)、尾高高原の麓に住む女性が、山中で採った薬草のおかげで長寿を保てたお礼に、山中に自ら彫った仏像を祀った。それから700年以上経って、この地を訪れた役小角が、霊地であると知り、釈迦(釋)ヶ岳に草庵を結んで修行に入った。その最中、聖徳太子の作った千手観音を安置すべしという霊夢を見、人々が参拝しやすいよう尾高に草庵を移した。これが尾高観音の始まりとされる。多くの人々の信仰を集める尾高観音の話を聞いた桓武天皇は、堂塔を造営し、引接寺の名を与えた。佐々木六角氏の庇護を受け、最澄の弟子澄光上人が寺僧を勤めたこともある。また小野篁が訪れ歌を詠み、八幡太郎義家が朝敵退治の祈願に立ち寄った。1163年には豪族藤原養敬により七堂伽藍が完成し、引接寺は栄華を誇った。しかし室町時代に入ると衰退してしまう。寺は江戸時代に再建された。1815年には、杉谷の宮大工増田兵蔵により、今に残る六角堂が建てられた。しかし明治5年に、杉谷観音寺・円導寺と一ヶ寺として扱われ、その奥の院とされ現在に至っている。
【探索のヒント】三重県民の森から田光方面へ500mほど行くと、左側に広い駐車場があります。その端にでっかい案内標識があり、それに従って林の中を行きます。間もなく右手に杉木立の中を一本の道があります。その突当たりが尾高観音堂です。
【駐車場】尾高駐車場
【バス】菰野町コミュニティバス千草根の平線「尾高駐車場」
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H甲賀五十三家の杉谷氏―甲賀市甲南町杉谷
杣川の左岸の杉谷(旧北杣村)が本拠。長享の乱の時、善住坊の父與藤治は武功をあげた。諸書に善住坊は鉄砲の達人と書かれているが、その伝承の詳細は分かっていない。ただ「甲賀張」と呼ばれる鉄砲はあったらしいい。しかしどこで作られたのかは、不明である。善住坊の娘が、六角義賢の側室だった関係から、この暗殺計画を引き受けた(『甲賀郡志』)。ちなみに端三郎は、義賢とこの娘の子供である(『近江輿地志略』)。『改正三河後風土記』には、飛ぶ鳥を撃ち落とすほどの善住坊の腕前を見込んだ六角氏が、信長の暗殺を依頼したとある。
杉谷城は、杣川左岸の川北集落の西、滋賀県南部から京都府南部の山地から派生した丘陵の先端に城があった。『甲賀郡志』にある「杉谷屋敷址」は現存しないが、天理教分教会付近にあったと思われる。 城は丘陵先端に主郭があり、その背後には、土塁と丘陵と分断する堀切が存在する。主郭の北には、曲輪と思しき平坦地があり、土橋で行き来ができる。ただし、この曲輪には、主郭のような防御設備となる土塁や堀切がないので、城域とは断言しづらい(『甲賀市史第7巻』)。
杉谷砦は、標高212mの山地から派生した丘陵の先端に立地する。主郭は、東西15m南北16.5mの単郭方形で、平野を望む北側を正面とし、土塁がその西、南西、東側にコの字型にある。堀切から主郭の横を通り、北へ下りて行く通路状のものがあるが、主郭内部の構造と共に、戦国期の遺構であるかどうかは不明である(『甲賀市史第7巻』)。
【探索のヒント】杉谷城は、県道132号甲南阿山線の「杉谷南交差点」の北西の雑木林@にあり、杣川方面を見下ろせるA場所です。角にある天理教分教会の裏の道に路駐できます。交差点から広域農道を北へ行くと梯子Aがあり、これを使ってフェンス内へ入れますが、崩れた斜面を這い上がったものの、地形が分からず断念。梯子地点からさらに北へ行くと獣除けのフェンスがあり、ここから入るのが正解でした。『甲賀市史―甲賀の城』によれば、曲輪が二つです。フェンスを越えて道沿いの広いスペースが城域とは断言しづらい二の曲輪Bです。下草がすごい状態の中で、雑木林へ入る道があったので行ってみました。ちゃんと石段があり、登って行くと社Cがあります。ここから尾根筋を南東へ下るDと一の郭なのですが、その手前に大堀切Eがあります。この堀切の正面にある6mの土塁を越えると一の曲輪です。もう一度、二の郭へ戻り、縄張り図を頼りにした草をかき分け南へ行くと、道が一本Fありました。ところがその先は更に草深く、木も倒れて、クモの巣が完璧に通せんぼしていたのでもう止めました。
杉谷砦は、県道377号柑子塩野線を「杉谷南交差点」から新名神高速「甲南インター」へ300mほど行くと右へ入る道があります。この道を入ると正面の丘陵Bが砦跡です。車止めの前に駐車できます。砦への入り口は、左の道を行きます。明確な入口はありませんが、用水路の排水口の辺りから入れます。
目の前の斜面Cを登ると右の主郭と丘陵を分断する堀切Dです。さっきの斜面を登ったすぐ右の木に、赤いテープがまれていて、小道Eがあります。左に切岸を見ながら、主郭Fへ入って行きます。その後ろの土塁Gが、堀切の右側になっています。私は6月下旬に行きましたが、枯れた笹の葉に覆われた地面は滑る滑る。登るのも難儀しましたが、斜面を下る時に尻もちをつき、そのまま滑り台のように下まで滑り落ちました。ご注意ください。
●杉谷城【MAP】
【駐車場】路駐
●杉谷砦【MAP】
【電車】JR草津線「甲南駅」
【バス】甲賀市コミュニティバス西線「県道勢田寺」
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I阿弥陀寺―高島市新旭町旭【MAP】
暗殺に失敗した善住坊は、鯰江香竹を頼って、高島郡に隠れ住んでいた。通説では岐阜で処刑されるが、『近江輿地志略』だけは、阿弥陀寺で処刑されたと記す。
寺伝によると、厩戸皇子の開基で創建時期は不明。1322年に律禅上人により中興。1336年足利尊氏が祈願所とする。信長や秀吉からも、寺領を寄進されている。1391年9月28日の真言律宗西大寺末寺帳にその名がある。
1614年に火災に遭い、1666年に再建される。1913年の火災の時に、不動明王・阿弥陀如来像を焼失する。寺域は、東西一町南北一町半あったという事で、今の遺構の倍の広さがあった。
【探索のヒント】新旭駅の東側のロータリーから南側へ行くと、左の奥に広場があります。ここが阿弥陀寺跡@です。堀川区憩いの家の前にある江戸中期の宝筐印塔を囲む板碑Aは、結界石として、寺域の四隅に建てられていたものです。
【駐車場】コインパーキング
【電車】JR湖西線「新旭駅」
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【寄り道】新庄城―高島市新旭町新庄【MAP】
越中氏の重臣多胡(田子)氏の城。その城跡にある大善寺は、多胡氏の菩提寺である。築城者は、多胡上野または新庄伊賀守実秀と伝わる。
越中氏の本拠である新庄(現在の安井川・北畑・旭辺り)の土豪である多胡氏は、1447年には越中氏の本城清水山城築城のため、その予定地にあった清水寺を占拠したり、1498年に若狭街道の保坂に新設の関の代官に任命されたりと、越中氏との結びつきが強かった。そのため、越中氏の清水山城が信長に攻撃されても、寝返る土豪がいた中、多胡氏は越中氏を支え続けた。だが、天正元年、足利義昭が都落ちした後に、信長の二度目の攻撃を受けた高島の国衆は、降伏することになった。この時、多胡宗右衛門は、財産というべき本領・被官人・関連寺社を安堵された上、新知行を与えられた。ただ 新庄城は、天正2年、高島郡を領有した磯野員昌が守ることとなった。
信長は員昌に、朽木元綱を与力につけ、甥の津田信澄を養子に取らせるなど厚遇した。だが天正4年高島郡を今津を境に、北を員昌(員昌の隠居領とも)、南を信澄の分割支配とした頃から、員昌の地位に変化が出た。この年の12月10日付船木・朽木の材木商や翌5年7月3日付横江村崇善寺への書状は、信澄が発行している。天正6年2月3日、員昌から信澄に家督が移った。実際には信長から家督譲渡を命じられた員昌が拒否したため、信長の逆鱗に触れ追放されたためという。これを以て、高島郡統治の中心は大溝城となり、新庄城は廃城となった。追放となった員昌は、高野山へ入る。そして本能寺の変後、高島に戻って帰農し、68歳で生涯を閉じた。員昌の子行信、孫の行尚は藤堂高虎に仕え家名を残し、娘は小堀正次と結婚して、小堀政一(遠州)を生んだ。
【探索のヒント】大善寺の東、北@西Aに土塁があり、ここが新庄城の中心と考えられています。ここから東(琵琶湖方面)に向かって、地籍図に載る「城の内」「二の丸」「三の丸」です。綾羽工業高島工場が二の丸とされます。その二の丸の一部BCに、国道161号線のバイパスが通ることになり、周辺の発掘調査されました。その結果、堀・土塁・井戸・石列・磁器・陶器が見つかり、城跡が確認されました。そのため新庄城の案内標は、大善寺前と高島市立新旭南小学校の県道303号北船木北畑線を挟んだ南側、消防車庫の左にあります。
【駐車場】大善寺境内
【電車】JR湖西線「新旭駅」
【バス】高島市コミュニティバス東循環線「新庄・大善寺」「南小学校前」
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