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@落窪―野洲市乙窪【MAP】
湖南の一揆というと一向一揆と思いがちだが、この時点では、大坂本願寺は信長に敵対していないので、市原郷の一揆と同じく、親六角派の僧や領民が蜂起したものと考えた方がいい。
この時、一揆は仏性寺やその東の落窪城に立て籠もったようで、柴田・佐久間軍の攻撃により、この辺り一帯は焼け野原となった。
落窪城に関しては成立から滅亡まで不明だが、仏性寺に関しては、鎌倉時代に源頼朝が創建した七堂伽藍を有する寺院が始まりとされ、この戦いで焼失した。これは、戦火を逃れた平安後期の阿弥陀如来座像内から、見つかった天正元年に書かれた縁起書一巻に書かれている。
【探索のヒント】車なら落窪自治会館に止めて徒歩が便利です。県道151号守山中主線の「西河原交差点」を南西へ行った丁字路を左折、またはその南の交差点を西へ行った左に自治会館はあります。ここから西へ75m行くと右にたくさんの地蔵があるので、そこから細い道を入った先に仏性寺@はあります。
落窪城は、自治会館の前の道を300m西へ行った右の竹藪Aです。土塁らしきモノは確認できますが、入る気は全く起きません。
【駐車場】落窪自治会館駐車場
【電車】JR東海道本線「野洲駅」
【バス】野洲市コミュニティバスあやめコース「落窪」
@A
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A立入城―守山市立入町【MAP】
立入城主立入氏は、松田丹後守秀興(飛騨高山城主だったが、応仁の乱で没落後、近江に移り六角高頼に仕えたとされるが、幕府奉公人とも言われる)または、六角家臣高瀬一族が立入因幡守清直の名を与えられたのが始まりと言われる。
秀興は立入城主として野洲郡8万石を与えられ、立入氏を称した。その子宗康は、資金不足の禁裏が土御門天皇の葬儀を行えないことを知り、高頼にその費用を出させた。この勤皇ぶりに後柏原天皇は、宗康を従五位下加賀守に任じるとともに、皇室の出納、年貢米の管理をする御倉職に任じ、立入家がこれを世襲して行った。
宗康の孫宗継の時、貧困にあえぐ朝廷は、応仁の乱後、御料所が荒廃し、御所が傷んでいてもどうしようもなかった。六角氏や本願寺も力になってくれなった。そこで宗継は信長の援助を受けることを、万里小路惟房に提案した。永禄5年10月のことである。それには宗継の岳父磯谷新右衛門尉久次が、信長と親しかったことが背景にある。正親町天皇の許可を得て、永禄7年と10年に、宗継と久次は清須へ下向し、御料所の回復と御所の修理のため上洛するよう要請した。11年になりようやく信長が上洛の軍を起こした。これを粟田口に出迎えたのが宗継である。信長の上洛により、諸国の御料所も回復、誠仁親王の元服式、紫宸殿・清涼殿の修復がなされ、宗継の苦労が報われた。
のち信長と本願寺の和睦の斡旋でも活躍した宗継は、本能寺の変に於いて、親信長派とされ上御倉の邸が光秀に襲撃された。光秀は宗継に、味方につくかどうか尋ねた。すると宗継は、「自分が仕えるは天皇だけで、武家の権力争いなど関心はない」と言い放った。これを聞くと光秀は、邸をあとにしたという。この時55歳だった宗継は、秀吉、家康の死を見届け、1,622年9月26日95歳で死去した。
一方、高瀬一族から出た立入因幡守清直は、信長の上洛戦で討死したという。その後、織田方に寝返った旧六角家臣三上士忠(栖雲軒)、宮木賢祐(新次郎)が城主となった。
【探索のヒント】守山市の発行している『守山 城物語』の地図によると、新川神社@から約180メートル南にある住宅街Aが城跡です。立入城には、内堀と外堀があって、外堀の外には、南西に澄んだ小川、北東にも小川が流れていたそうです。城跡とされる場所には、今も北から西、南に用水路があり、他とは区画されています。なお立入さんBというお宅もありました。
【駐車場】路上駐車
【電車】JR東海道本線「守山駅」
【バス】近江鉄道バス古高大宝線、済生会病院線「浮気」
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【寄り道】西隆寺―守山市岡町【MAP】
立入氏の菩提寺西隆寺は、開基が聖徳太子と伝わる天台真盛宗の寺院である。戦国期の戦火により退転するが、立入利国が再興した。今では珍しい茅葺の本堂は、江戸初期に建てられた。また市指定の文化財である花崗岩製の石造阿弥陀如来像は鎌倉時代のもの、阿弥陀如来と眷属が山を越えて臨終する信者を迎えに来た様子を描いた絹本著色山越阿弥陀図は南北朝時代のものといわれる。
『日本書紀』巻三十持統天皇紀に、「益須郡都賀山から湧いた醴泉(甘みのある美味しい水の湧きだす泉)を飲んだ多くの人が病を治した」との記述がある。この都賀山は、周辺より高くなっている西隆寺の墓地辺りで、都賀は塚を意味し、立入に古墳があったことに由来すると考えられている。また岡町もこの辺りが高台であったことの表れとされる。西隆寺の山号が「岡塚山」なのは、こうした理由からである。
【探索のヒント】県道11号守山栗東線(別名レインボーロード)の岡町交差点東側に西隆寺@はあります。立入城主歴代の墓Aは、墓地の北側に並んでいます。『守山 城物語』では、5基と書かれていますが、6基ありました。御住職は、5基が間違いと言っておられました。なお宗継の墓は、京都清浄院にあります。
【駐車場】西隆寺駐車場
【電車】JR東海道本線「守山駅」
【バス】近江鉄道バス古高大宝線、済生会病院線「浮気」
@A
BC
【寄り道】浮気城―守山市浮気町【MAP】
北条時綱がここを領し、浮気氏を称した。創建したのは、浮気時房という。浮気階常の時、後醍醐天皇に仕えた。応仁の乱に、美作守貞綱の名が見える。信長上洛に際して、浮気氏は六角氏から離れた。
その後、佐久間信盛が浮気城を守っていたと言われる。六角氏の再起で、信盛は永原城に移ったが、東山道と志那街道の接点である守山は、経済・軍事において信長にとって重要地点であったため、金森で一向一揆は蜂起した時は、守山城・勝部城と並んで浮気城も対一向一揆の拠点となった。
【探索のヒント】住吉神社@内には、元は県道11号線を越えたであろう浮気城の土塁Aが残っています。近江の領主館らしく土塁で囲まれていました。ただここの城館には、本殿裏Bを見ると分かりますが、土塁の両側に堀Cがあったようです。浮気は、その名の由来である、水の湧き出す土地なので、空堀ではなく、水の張ったものだったかもしれません。この堀をもった土塁は、源昌寺の裏までは確認できます。
【駐車場】境内脇に駐車可
【電車】JR東海道本線「守山駅」
【バス】近江鉄道バス古高大宝線、済生会病院線「浮気」
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B長光寺城―東近江市上平木町【MAP】
応仁の乱に於いて、西軍の六角高頼の観音寺城の付け城として、東軍の六角政尭により築かれた。勝家の「甕割り柴田」の武勇伝から瓶割山城とも言われる。ただ『武家事紀』『乗山記談』『絵本太閤記』などにある話で、『信長公記』には記述がないため、この話は創作と考えられている。
信長の暗殺に失敗した六角義賢は、次に長光寺城へ攻撃を開始した。が、勝家率いる城兵約8百の抵抗は凄まじく、六角軍は多数の死傷者を出した。義賢は城を包囲し、水の手を断つ作戦に出た。そして城内の水が少なくなった頃を見計らい、義賢は平井甚助を降伏勧告の使者に送った。勝家はこれを拒否した。本陣へ戻った甚助は、その様子は書物により色々であるが、兵は水を節約している様子はなかったと義賢に報告した。
一方城内では、勝家が水の入った三つの甕の前に、城兵を集めて「これが最後の水じゃ。明日、奇襲をかけるが、縁者が心配な者は、ここから去ってもよい」と伝えた。落後者は居なかった。勝家は末期の水として兵に分け与えた。水はまだ残っていたが、「ここへは戻らんから、この水は不要じゃ!」そう言うと、勝家は三つの甕を叩き割った。
翌日の明け方、城門が開き、柴田軍は駐屯する六角軍めがけて突進した。突然のことで混乱する六角の兵は、反撃する間もなく次々と討取られて行った。結局、六角軍は、3百とも8百とも言われる戦死者を出して、石部城へ引き上げていった。これは、野洲川の戦いに先だって起こった戦闘とされる。
【探索のヒント】瓶割山城@へのルートは、日吉神社からが一般的ですが、瓶割山霊苑へ行く途中Aや東側の西国三十三所瓶割山観音霊場入口Bからも登れます。専用駐車場はないので、日吉神社前の公園内、東側なら御澤神社やその北の公園の駐車場を利用します。
日吉神社ルートでは、不二滝から多目的広場を抜けて、約20分ほどで、左の一の郭Cと右の二の郭Dを仕切る堀切に架かる土橋Eに到着します。一の郭が城跡中最も広い平坦地ですが、二の郭が山頂なので、こちらが主郭かもしれません。
二の郭の南の尾根には、郭Fがあります。ここへ行くには一旦下へ降りますが、これは南の尾根と山頂を分断する大堀切Gです。
東の霊場入口からのルートは、第7番の石仏Hの左に山道があります。あとはマーカーがあるので、迷うことなく稜線を歩いて一の郭の東の郭へ行けます。ここは現地案内板では、縄張り図はあるのですが、遺構の記載がありません。しかし三の郭I地蔵群J古井戸Kの標識は立っています。なお、この古井戸は、一と二の郭の間にある堀切Lとからも行けます。
霊苑途中にある登り口からは、案内板にある北の尾根上の三の郭Mへ行けます。ここには米蔵跡Nがあります。三の郭を一の郭から切り離すための竪堀Oを過ぎると、武者隠しP矢倉Q米蔵Rといった施設群が続き、一の郭へ到着です。
ついでに城跡には石垣が二カ所あり、土橋の左側㋐のこの城内で一番巨大なものと、二の郭から南の大堀切下りる途中の右側のもの㋑です。
ところでここを訪れるなら、絶対に12月から2月がいいと思います。最初は10月半ばに行ったのですが、とにかくクモの巣に難儀しました。2度目は1月3日で、下草も枯れ、クモの巣もなく快適でした。
【駐車場】日吉神社前の公園 御澤神社駐車場
【電車】近江鉄道八日市線「武佐駅」
【バス】近江八幡あかこんバス馬淵・新巻町コース「長福寺」
近江鉄道バス「長福寺」
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C笠原―守山市笠原町【MAP】
柴田・佐久間軍が、野洲川右岸に着陣したのを聞いた義賢は、織田軍を湖南から駆逐するチャンスと、対岸の笠原に兵を動かした。六角軍は、三雲父子・高野瀬備前守・水原遠江守と甲賀衆から構成された約1万であった。決して六角軍が優勢ではなかったが、柴田・佐久間軍に加わっている旧臣の蒲生氏や進藤氏、永原氏は、戦いが六角軍が優位なら、寝返る可能性があると義賢は考えたかもしれない。そのためには緒戦で優位に立つ必要があった。柴田・佐久間軍の攻撃開始に、六角軍が素早く応戦に出たのはこの為とも考えられる。
両軍は、川の中で激突したが、すぐに柴田・佐久間軍は後退を始めた。これを追う六角軍は、前懸りとなり、対岸出待ち構える敵陣へ突入した。これを待っていた柴田佐久間軍は、六角軍を前方と左右から包み込んだ。慌てた六角軍は、我先にと退却を始めた。
【探索のヒント】特に古戦場の碑があるわけではなく、新庄大橋の西にある多目的公園@の川側から対岸を見るA程度です。昭和54年まで、野洲川は市三宅辺りで、北流と南流に分かれていました。蜊江(つぶえ)神社B北側の土手は南流の堤防で、これを越えるとすぐに川がありました。現在川となっている所には、新庄町の田園地帯が広がり、落窪へは、北流を越えなければなりませんでした。なお笠原町Cには、笠原陣所なるものがありました。
【駐車場】多目的公園に路駐
【バス】近江鉄道バス服部線「守山北高前」
D石田の一本松―守山市石田町【MAP】
六角氏のもとに参陣したのは、三雲父子(甲賀53家上21家)、美濃部・望月(甲賀衆か)、高野瀬美作守秀澄(犬上郡豪族)、永原遠江守・乾・新村・種村・河井・三上伊予守(南近江領主)らで、総勢1万だった。
だが敵に倍する兵力でも勝てなかった浅井長政との野良田での戦いからも分かるように、義賢は単独で軍を動かす能力は、低いと言わざるを得ない。そんな義賢に率いられた六角残党軍が、織田軍団の主力と六角軍の中枢を担っていた蒲生軍や永原軍と戦う事自体無謀であった。その上、この戦いの最中、三上伊代守のように織田方に寝返る者が出ると、六角軍は浮足立ち、わずか数時間で敗北が決まった。
六角方の死者は、名のある武士780人という惨敗ぶりである。その中には、三雲父子(成持の父定持と弟三郎左衛門)、高野瀬美作守、永原遠江守という重臣クラスも含まれていたため、この一戦で六角氏の命運が決したとも言える。
【探索のヒント】県道147号赤野井守山線「石田南交差点」を北東に入ります。川を渡らず、川沿いの道を北西に行くと小さな児童公園が川を挟んで反対側にあり、その奥に石田の一本松があります。「石田町の由来と伝説」によれば、この辺りも戦場で残された死体を村人が集め、塚を作って松の木を一本植えたのが由来です。岡塚、ダイジョーグとも呼ばれます。この松には因縁めいた話があり、触れるとたたりがあり、木から血が流れ、枝が地面に触れると大水により、田畑家財が一切流されるというものです。また塚を削って田を広げた者の家に、鼻なし子が生まれたので、元へ戻したところ、子供も元通りになったという話もあります。
なお、石田の地名は、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の残党が住みついたからとされます。
【駐車場】守山市民ホール、運動公園駐車場
【電車】JR東海道本線「守山駅」
【バス】近江鉄道バス小浜線「日精団地前」
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