井松原の戦い

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経過
天正5年(1577)2月下旬織田信長雑賀攻めの時、大野十番頭①石倉三郎兵衛重直宇野辺新介久行稲井内蔵之丞秀次藤田与五郎吉基中山次郎右衛門久清三上田嶋甚五郎長吉坂本新三郎秀久井口二郎三郎秀次尾崎甚之丞秀吉)の内、稲井大野中村岡本弥介堀秀政隊に加わり武功を上げた。雑賀衆と和議がなって織田軍が引き揚げる時、堀秀政不破光治丸毛光兼牧村利貞水野大膳生駒正親らの部隊が村々に放火したため、鈴木孫一雑賀衆信長への憎悪は「裏切り者」稲井岡本へ向けられた。
雑賀衆大野十番頭に対しこの二人を成敗するよう命じ、応じない場合は大野郷を焼き討ちすると通告してきた。雑賀衆に味方した大野十番頭と門徒衆達は、この対応のため集まった②。その席で十番頭筆頭石倉中山が、すぐにでも2人を始末するため戦すべしと主張したのに対し、専念寺岡崎三郎大夫(岡了順?)は、こちらから事を荒げるより、稲井岡本に味方する宇野辺に事の次第を伝えたうえで宇野辺に処分を一任し、その返答次第で一戦交えればよいではないかと説得し、その使者を送った。
この話に激怒した宇野辺「天下の安寧目指す信長公のご意向が分からぬ輩は、こちらから討ち滅ぼしてやると帰って伝えろ」と使者を追い返すと、一族と近在の人々に総動員をかけ、さらに佐野の佐久間信盛元へ船津清助を援軍要請に向かわせた。本陣は日方城③とし、前線基地として稲井今市陣城④を築いた一方、戻って来た使者の口上を聞いた石倉中山も、すぐに味方を募るとともに、太田川の北に砦⑤を築いて稲井の動きに備えた。この両軍はそれぞれが集結した村の名から、日方方と名高方と言われた。
戦いの機運が高まった天正5年8月16日夜明け、両軍は井松原⑥で両軍が激突した。
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