@A
B
CD
EF
GH
IJ
@大野十番頭
井松原合戦の舞台は、八乗院領三上庄という荘園にあった大野郷である。鎌倉時代から室町時代、大野郷は10に区分され、各区域を統治する荘官達を大野十番頭と呼んだ。伝承(『井口家由緒書』、『尾崎家系図』)では、768年大野郷に春日大明神を勧請した時に、奈良から付き添ってきた和邇氏を先祖としている。大野十番頭が史料に登場するのは、1322年3月8日に護良親王(後醍醐天皇の子・14歳)が熊野参詣の途中、大野郷春日山に一泊した時で、この時、大野十番頭はその臣下となったというものである。
井松原の戦いは、戦死や逃亡などで十番頭の支配力の低下をもたらしたが、秀吉の紀州攻めがさらに追い打ちをかけた。浅野時代になると、旧領主36人が地士と呼ばれ取り立てられたが、十番頭にその機会はなかった。徳川時代(1622年)になり「地士六十者」とその数が増えると、井口善太夫・稲井左兵衛・尾崎次左衛門が選ばれ、1701年には石倉久太郎・藤田伊七郎・坂本金大夫・宇野辺又三郎も加えられた。なおここに名前のない田島氏の子孫田島一雄は、ミノルタの創業者となり、三上氏は春日神社の神主を勤めているが、中山氏は廃絶している。
【探索のヒント】 海南市教育委員会から頂いた資料(『名高浦四囲廻見』『埋蔵文化財包蔵地所在地図』 )を元に現地へ行きました。ただし教育委員会の現地調査では、館跡を確定できる物は発掘されていないそうです。なお十番頭の名前は、『紀伊続風土記』によるものです。
石倉石見守屋敷【MAP】,内海小学校の北側@で、安養寺付近A
宇野辺上野上屋敷【MAP】は、 蓮華寺の道を挟んだ北側B
稲井因幡守屋敷【MAP】は、内海小学校C
藤田豊後守屋敷【MAP】は、禅林寺前の川沿いの道を西へ2百m行った奥の谷からの小川の合流地点の西側D
中山出羽守屋敷【MAP】は、蓮華寺の南の山田川沿いの道を東へ2百m行った三叉路の北東角E
三上美作守屋敷【MAP】は、如来寺の西、熊野街道一の鳥居跡の北辺りF
田嶋丹後守屋敷【MAP】は、浄土寺(日限地蔵)の北の道を挟んだ正面G
坂本讃岐守屋敷【MAP】は、藤白神社の北のJR紀勢線とその北側H
井口壱岐守屋敷【MAP】は、地蔵山南麓I
尾崎尾張守屋敷【MAP】は、久豊寺の南側J
【駐車場】なし
【電車】JR紀勢本線「海南駅」
【寄り道】春日神社―海南市大野中【MAP】
奈良春日大社から勧請されたとの伝承がある春日神社であるが、春日神社のHPを見ると、710年藤原不比等は、春日氏の氏神春日大明神が鎮座する奈良春日山に、藤原氏の氏神として鹿島からタケミカヅチを遷して春日大社とし、聖武天皇の勅命を得て、春日大明神を大野荘三上山へ移したのが、春日神社の始まりとある。
主祭神は天押帯日子命で、兄弟神社として彦国葺命を祀る粟田神社が下社としてあったが、明治時代に神社併合で末社「若宮」として併合されている。
奈良から大野郷に移って来た10人の神官は、春日神社を守り、かつ荘園の統治という目的のため、固い絆で結ばれていた。
【探索のヒント】
【駐車場】
【電車】
【バス】
@A
B
A奥の院
両部神道時代、寺社が奥ノ院とされた。春日神社は禅林寺、粟田神社は観音寺、歳越明神は菩提寺で、地蔵寺もその一つに数えられた。ここでは村の寄り合いが行われ、活動方針などが決められた。
1331年、鎌倉幕府討滅に失敗した護良親王は、追手から逃れ紀伊調月村の井口左近邸に身を寄せて、再起のため味方を募っていた。左近は同族の大野十番頭井口氏に、十番頭が親王側に付くよう働きかけた。一方、親王も挙兵前から文観を通じ、禅林寺に十番頭を味方に付けるよう依頼していた。これが功を奏して、十番頭は親王に味方する決断をする。この知らせに親王は、この年の大晦日、わざわざ禅林寺までやって来た。そこで十番頭の「元旦に春日神社でお待ちします」というメッセージを受けた。翌日十番頭が三上山へ登ると、前夜神殿で一夜を明かした親王が待っていた。
【探索のヒント】禅林寺@は地元では薬師様と呼ばれています。菩提寺Aは禅林寺から南にある海南市立大野小学校の南にあります。地蔵寺Bは、海南市立海南中学校の南東です。
●禅林寺【MAP】
【駐車場】専用駐車場
【バス】コミュニティバス別所扱沢線「薬師寺」
●菩提寺【MAP】
【駐車場】専用駐車場
●地蔵寺【MAP】
【駐車場】あり
【バス】コミュニティバス北野上線「二中前」
@A
BC
DE
FG 
B日方城―海南市日方【MAP】
1391年紀伊守護だった山名義理は、足利義満の命(明徳の乱)を受けた大内義弘の水軍に備え、本城大野城の支城として日方城を築いた。これにより上陸した大内軍を南北から攻撃できるはずだったが、敗北してしまった。その後日方城は、井松原の戦いで落城するまで機能していたらしい。なお、城代として桑原弾正(桑原姓は山名義理が改名したもの)・遊佐氏(守護畠山義深の家臣)・青侍西島などの名前が挙がっている。
大将である稲井内蔵允と岡本弥介は150騎を以て日方城に残り、雑賀からの攻撃に備えていた。戦い開始から4時間ほどで日方方が劣勢となったが、織田軍の援軍を信じる稲井と岡本は城内の者たちを鼓舞し続けた。敵が城門に迫ったとその時、城内から火の手が上がった。名高方が城内に送り込んでいた門徒衆が火を放ったのである。折からの強風に火はどんどん大きくなった。間もなく城内に名高方が侵入。敵と火を前に稲井と岡本は、十分な対応ができない状況となった。その間にも兵達は次々と討取られ、ついに兵20人と村民が残るだけとなった。万事休した稲井と岡本は、根来杉之坊を頼り城を脱出することにした。
【探索のヒント】海南市の北の城が峰@が城跡です。 国道370号線の「馬場町1丁目交差点」で、県道18号海南金屋線に入ります。3百mほど東へ行ったオカジ紙業の駐車場の所を左、山の方へ入ります。道なりに進み丁字路を左へ行くと仏像群があり、車はその右にあるスペースに駐車します。あとは舗装された道を分岐点Aまで登るだけです。この分岐点を左へ行くと市民の森Bです。左右にある道の左を奥へ進むと、踏み跡がやや分かりにくくなりますが、登って行く道になっています。これを登り切った所Cが城跡です。城跡は山頂の地形に合わせて5段の平坦地Dが、西へ100m続きます。遺構としては、城の土塁E帯曲輪F竪堀Gです。土塁は北・東・南にあるのに対し、帯曲輪と竪堀は南側のみで、大野城との連携を感じさせます。
【駐車場】あり
【電車】JR紀勢本線「海南駅」
【バス】コミュニティバス北野上線「神田」
@A
C今市仮砦―海南市日方【MAP】
稲井内蔵が建てた。この時、稲井は尾崎家に婿入していたので、鳥居と日方を領有する立場にあった。
宇野辺新助は集まった面々に、鈴木孫一に率いられた名高衆が攻めてくるが、我々は盟約を結んでいる織田の援軍が到着するまで、日方今市の砦で待ち構えると当初伝えていた。ところが、名高方が戦準備をしていると分かると岡本弥介が、敵の布陣が整う前、夜明けと同時に奇襲をかけ、石倉・中山を討取れば、敵の戦意は喪失すると主張した。先陣に坂本信三郎・宇野辺又太郎善行・田嶋甚五郎、二陣は藤田与五郎・井口次郎三郎・尾崎甚之丞・船津の羽坂刑部・船津新兵衛、三陣が宇野辺新助・井田村茂兵衛三四郎と日方・神田・井田・中村の領民合わせて2千5百名で出陣した。 この動きを察知した名高方は、孫一・石倉三郎兵衛・同右京・中山次郎左衛門・天羽左近大夫の2百騎が出陣して、井松原で日方方を待ち構えた。
【探索のヒント】推定値は、 国道370号線「井松原橋交差点」の日方川を挟んだ西側@Aです。発掘調査では、何も見つかっていません。
【駐車場】なし
【電車】JR紀勢本線「海南駅」
【バス】コミュニティバス南野上・東畑線「日方南」
D名高砦―海南市名高【MAP】
山田川の南に作られた砦。石倉三郎兵衛・中山次郎左衛門の呼び掛けに、鈴木孫一、愛洲・玉置・湯川・白樫・橋本・花光・寒(冬)河・崎山・則岡・神保・花田・矢船・貴志・竹中・河島という土豪に加田村の重介、伊都・那賀・海士・有田・日高一村・野上・山東・貴志之庄・雑賀庄・加茂谷の有志が続々と集まって来た。いずれも信長憎しで集まった者たちである。
日方勢の動きを察知した石倉達は、時を移さず砦を出発、井松原へ向かった。
【探索のヒント】伝承地は、JR紀勢本線海南駅のを含む南側です。やはり遺構は発見されていません。
【駐車場】海南市役所東側にコインパーキング
【電車】JR紀勢本線「海南駅」
@A
E井松原古戦場―海南市名高【MAP】
機先を制するため、夜明けと同時に出陣した日方勢は、名高勢の待ち伏せに大いに狼狽した。そんな中、宇野辺又太郎が真っ先に突撃して来た。これを迎えるは、天羽左近大夫。両者はしばらくの間互角の戦いをしていたが、やがて天羽の刀が宇野辺を切り裂いた。宇野辺の首は、藤代の上馬坂に晒されたが、舅の有田の宮崎が名高に侘びを入れて首を持ち帰った。
宇野辺が討たれたのを見て、坂本新三郎が騎馬にて天羽に挑んだ。戦いの最中、坂本は落馬した。これを見た石倉右京は、坂本を生け捕りにした。石倉は船津新兵衛も生け捕りにしていた。石倉はこの二人に情けをかけて匿ったが、二人はそこから逃げ出し、有田、加茂谷を経て、橘本の前田金太夫を頼った。
このように名高勢が優勢だったが、田嶋甚五郎・井口掃部らが石倉三郎四郎と天羽五郎を討取ると日方勢に勢いが出た。ひるむ名高勢は、石倉三郎兵衛・右近が檄を飛ばし、敵三騎を倒すと勢いを盛り返し、乱戦となった。この中で田嶋と井口が戦死した。これ以外に日方方は、加田太郎左衛門・藤代佐大夫・池谷左衛門太郎も討死している。
午前6時から午前10時ごろまで行われた戦いで、双方の戦死者は2百人を数えた。この時点でほぼ互角の戦いであったが、野上と山東の門徒衆が、名高勢に味方するため戦場に駆け付けた。さらに雑賀衆2百騎が舟で名高に上陸すると、日方勢は総崩れとなり、今市砦へ逃げた。 そんな中、御門与太郎・市場左近大夫・南新右衛門・大小路平太郎・里之右衛門太郎らは、その援軍に怯まず戦いを挑み、華々しく散った。また、池谷荒五郎と言う豪傑は、鉄棒を振り回し名高勢が砦へ近付くのを阻んだ。この時、背後の城に火の手が上がった。名高方が城へ送りこんだ黒江と日方の門徒衆が、名高方が城へ迫ったのを合図に火を放ったのである。
日方城を脱出した稲井と岡本は、日方民部の手引きで加茂谷へ向け城を脱出した。ところがこれを名高方の岡本了観が発見、藤代の浜で稲井と民部を取り押さえた。了観は二人を討とうとしたが、民部の元は親戚筋ではないか、何とか見逃してくれとの懇願に心を動かされ、三人を見逃すことにした。さて日方方についた百姓は逃亡していたが、その後、科銭を払い侘びることで、それぞれの村に戻ることができた。
【探索のヒント】JR紀勢線海南駅の北東の住宅街の一角に碑@があります。碑から西へ行った農地Aが合戦のあった所とされます。井松原合戦の石板の隣には、ここに天照大神の御霊を祀る「井引の森」があったことを示す大神宮遺跡の石碑と祠があります。「井引の森」は、この東にある井田から田の水をひく井溝のそばにある森という意味です。この森に続いて、海岸だった海南駅の西に松原があったので、井引きの森の松原の意味で、井松原と呼ぶようになりました。なお海岸線が近く津波や高潮による被害が予想されたので、ご神体は伊勢部柿本神社へ移されました。
【駐車場】海南市役所東のコインパーキング
【電車】JR紀勢本線「海南駅」
@A
【寄り道】永正寺―海南市日方【MAP】
永正元年(1504)に上蓮社杲誉自正上人(飛鳥井宗俊の嫡男)が開山の浄土宗鎮西派の寺院。井松原合戦時山上にあったが、城の落城と共に堂宇一切と勝仁親王(後柏良天皇)筆の勅額が焼失した。その後、再興されたが、慶長19年(1614)10月25日の大地震により、境内のある山が崩れ、堂宇が倒壊したため、現在の地に移転した。その後も火災に数度遭う。現在の堂宇は、1830年の火災後に建てられたものである。なお永正寺は、知恩院系寺院で最も多くの檀家を持つと言われる。
四世伝誉上人の過去帳に合戦での戦死者が、日方・名高とも百人ずつと記され、日方方の戦死者の名が全て書かれてている。田嶋甚五郎の墓は、250回忌(1826年)に子孫の丹右衛門が父の遺言によって建てたもの。
【探索のヒント】永正寺@の墓地に田嶋甚五郎の墓Aはあります。同行していただいた教育委員会の尾崎平さんに案内していただいたので、正確な場所は覚えていませんが、お寺で教えていただけます。
【駐車場】専用駐車場
【電車】JR紀勢本線「海南駅」
【バス】コミュニティバス亀川線95「池崎通り」
@A  
【寄り道】専念寺―海南市名高【MAP】
専念寺には無縁法界の石塔が残っている。これは元禄の頃には無縁仏を葬る場所となっていた井松原一帯に建てられていた。建立者は須賀市郎兵衛で、菩提寺の専念寺に釣鐘と鐘撞堂を寄進した人である。
市郎兵衛の父は太郎左衛門といい、名高の人で墓地に近いため住人がいなかった現海南駅周辺に最初に住んだ人である。市郎兵衛はその次男で、長男太郎左衛門、三男甚右衛門もそれぞれ家を建てて住んだ。これがきっかけとなり、この付近に人が住むようになった。
【探索のヒント】駐車場は紀勢本線西側にあります。山門@を入って右の墓碑を集めた所の右手前に石碑Aがあります。
【駐車場】専用駐車場
【電車】JR紀勢本線「海南駅」
【バス】コミュニティバス別所・扱沢線「内海橋」
SEO [PR]  ローン比較 再就職支援 バレンタイン 無料レンタルサーバー SEO